反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

司馬遼太郎全集46巻。付録、「中国を考える」対談、司馬遼太郎、陳瞬臣。近代における中国と日本の明暗。「開国は元禄時代が良かった」W。キーワード、<普遍性>≒<世界性>寝て食う事。ナショナリズム市民の飢

       全集46巻付録。<近代>における中国と日本の明暗。
       対談、司馬遼太郎陳舜臣 - Wikipedia
  開国は元禄時代が良かった。
 
司馬
W。ココで問題になっている事柄を理解するキーワード<普遍性>について、司馬の発言を先回りして、司馬の簡潔な説明を先に引用する。

つまり天文、天正カトリックをなぜ日本無視したのかという事は繰り返し残念ですね。
そのままでいても3割ぐらいがカトリックでおるとしたら、太平洋戦争を起こさなかったかもしれんな。
>情報がオープンにいってくる。
>ソレから世界人みたいな意識がある。
 
やっぱり、普遍性とは何事かという事は、体でわかるでしょう
*ぼくら普遍性とは学校に行って皆習うけど普遍性という言語を学んでいるだけで、普遍という事は日本で生まれると解り難いですね。
普遍を知らないと中国はわかり難いですね。
中国は国家というより多分に普遍的世界なんやね。
少数民族をいっぱい抱えているからという問題もあるけれどね。
>普遍的世界って何かって言ったら、
*寝て働いて食う事でしょう。
昔中国では「チーファンラマ」ーーつまり飯を食ったか?ってのが挨拶だ、とよく聞きましたけど、飯というには大事にだという事になっていて。
 
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  この項の司馬遼発言に戻る
 
裸の問題一つ取り上げても、中国は周辺の国々に多大な文明的影響を与えてきているわけで、中国人て云うのはすごいところがあるんだね。
>だから在来の中国大陸になかったものを持っている人間は、たとえそれが優れた西洋学であろうと野蛮人のものだ、という考えがあったのだろうね。なかなか認めようとしない。
だからこうした中華思想がいつ破られるのには、長い時間がかかったと思うな。
 
W。地球規模の近代における技術の世界伝播性、普遍性を司馬は指摘している。産業革命以前は主として宗教と暴力による西洋の世界支配であり(新大陸発見)、ソレを梃子とした産業革命以降は世界的共通価値基準の資本(金銀)との絡みで、西洋の世界支配は進み、同時に西洋の近代技術が普遍性=世界性となった(アジア特有の停滞社会は否定できない!)。
 
 
 西洋文明は最初というか、道具の形でやって聴きますね。
具体的にいえば兵器と船。--コレは普遍性が具象化されたもの、といえますね。
誰が見てもその威力が分かるし、誰が使っても、例えば子供がピストルの引き金を引いても、大の男が倒せる
この兵器というものは、遅れて近代化を始めた国にとっては、実にチャーミングなんです。
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W。長州、薩摩の攘夷単独列強戦争による大敗北と回心~~負けた軍隊こそ一番よく学ぶ~~による西洋技術の先行的導入!
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ロケット砲などといった物騒な殺傷道具でも誰が使っても同じ効果であるというところが。
コレは普遍性に対するあこがれと思うんだな。
ぼくはヴェトナムに行ってみてそれを感じたな。
 
 で、日本はどうだったのかというと、嘉永年(W安政の前。1848年から1854年までの期間)に蒸気船が来た時、ああ、コレを作ろうって3年後に薩摩と肥後宇和島が作ってしまいますね
ソレは便利だからっていうより、普遍性へのあこがれやね
ソレが技術の形になっているわけ。
 
 
 中国にだってそれがどんどん入ってくる。
けど中国人の場合はその技術の向こうに西洋的普遍性というものがあるだろうと考えた。
そして普遍性なら俺のとこの方があるぞ、と思ったために100年かかったわけです。
 日本は蒸気船をみてからたった3年でつくってしまった。
普遍性ではなく、道具そのものをね。
面じゃなく点を素早く作っちゃったわけで、いつまでたっても面が分からない。
 
 コレが日本と中国に違いで、
中国は自分の普遍性を持っていたために、近代化に時間がかかった。
 
アラビア人はあと何年かかるかわからない
当分石油を武器とするしかない。
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日本は技術、技能主義で受け入れが早かったのは文明を知らなかったおかげ(笑)
文化は知っているとしても。
 
 また日本が19世紀に開国したというのも不幸だったな。
それまではそうでもなかったんだけど、このころになると西洋も凄い侵略時代に入っていた。
 
つまり富国強兵の侵略主義が国家学としてモダニズムである、という受け取り方をした。
ソレが明治以降ずっと抜けきれなくなってしまった。
 
 こう云う事を考えると、日本はやはり元禄時代に黒船が来てたら開国しましたよ。
徳川幕府は倒れます。簡単です。
 
 更に歴史に<もし>が云えるとしたら。
戦国の意ころに入ってキリシタンをそのまま大事にしていれば、世界性が身に就いたかもしれません。
近代中国のカトリック、近代朝鮮のカトリック、コレはみんな世界性があるから歓迎された訳でしょう。
今ソウルはカトリックの金城湯地の一つですが
ソレは近代朝鮮人が自分は微弱である、小民族である、日本人に合併されたと嘆くときに、世界性へ自分を浮上させるにはカトリックが必要だった。
 
 もっともあの時代のカトリックは大変侵略的で、当時の日本の支配者がソレを追いだしたのはその面において
当然だし賢明であったわけですけれども~~~。
 
しかしあおの当時の船でやってくるわずかなポルトガル兵やイスパアニア兵に日本が征服されるはずがない。
つまり天文、天正カトリックをなぜ日本無視したのかという事は繰り返し残念ですね。
そのままでいても3割ぐらいがカトリックでおるとしたら、太平洋戦争を起こさなかったかもしれんな。
>情報がオープンにいってくる。
>ソレから世界人みたいな意識がある。
やっぱり、普遍性とは何事かという事は、体でわかるでしょう
*ぼくら普遍性とは学校に行って皆習うけど普遍性という言語を学んでいるだけで、普遍という事は日本で生まれると解り難いですね。
普遍を知らないと中国はわかり難いですね。
中国は国家というより多分に普遍的世界なんやね。
少数民族をいっぱい抱えているからという問題もあるけれどね。
>普遍的世界って何かって言ったら、
*寝て働いて食う事でしょう。
昔中国では「チーファンラマ」ーーつまり飯を食ったか?ってのが挨拶だ、とよく聞きましたけど、飯というには大事にだという事になっていて。
 
  省略

 W。ナショナリズムってのは飢えなんだから~。メシが中心(W、の政治)になっていたら、ナショナリズムは起こらない。資本主義ー国家ー小市民ーナショナリズム
 
司馬
メシが中心になっていたら、ナショナリズムは起こらない。
ナショナリズムってのは飢えなんだから~~。
 
国家の要請なんだから俺は貧乏して欠乏に耐えている。ソレがナショナリズム何だから。
 
蒋介石が日本に留学していた時、日本のコレに驚いた~。
やっぱりメシの方が普遍性があるね。
人間は寝て食う事やないぞという日本式の『武士は食わねど高楊枝』になるところが、悪しきナショナリズムの出発になるのかもしれませんね。
 

W、戦前教育を受けた司馬は当時の日本的に翻訳された<普遍性>という概念を学校教育で認識する機会があった、ということらしいが、Wは<普遍性≒世界性について教わったことなど一度もなかった。
それこそ、<普遍性>などという課題が目の前に現れたのは<グローバリズム>に対する批判的姿勢を維持するための問題意識からであった。
日本国民にとって普遍性とは、西洋文明と技術の媒介項の貧弱な受容にすぎなかった、ことは昔も今も変わりはなかった。
 
米国ハイスクールではラテン語の科目があるという。だったら、日本では日本古典と漢文(今は、必須科目でなくなった)、英語教育という事になるのか。しかし日本古典を含めて3者の繋がりを教えていないが、教えることが普遍性を間接的に教える学校教育の課題なのだが、そのような科目は特定大学の教養系文学部系の学際科目にしかない。
従って、そのような学際学は素人には新鮮に映ってきたが、実証性に疑問符が付き胡散臭い、想いがする。
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普遍性という言語を学んでいるだけで、普遍という事は日本で生まれると解り難いですね。
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W。当たり前!普遍の核(結局、欧米という事になってしまった)ともあまりにも隔たっているし、日本列島原住民と日本語は中国文明の四海を隔てた縁辺地域だった。しかも司馬説によると中国文明は広大な大陸を統治するところが精いっぱいの文明であり、大海に隔てられた日本列島は漢文明から基本的に放置状態だった。
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普遍という言語を学んでいるだけで普遍という事は日本で生まれにくいですね。
 
普遍を知らないと中国はわかり難いですね。
中国は国家というより多分に普遍的世界なんやね。
少数民族をいっぱい抱えているからという問題もあるけれどね。
 
>普遍的世界って何かって言ったら、
*寝て働いて食う事でしょう。
昔中国では「チーファンラマ」ーーつまり飯を食ったか?ってのが挨拶だ、とよく聞きましたけど、飯というには大事にだという事になっていて。
 
 
W。英語を義務教育で教えていることが<普遍性>を教えている?という言語技術的普遍性の習得で、ソレも偏った実際性に後れをとっているモノ。
 
裸の問題一つ取り上げても、中国は周辺の国々に多大な文明的影響を与えてきているわけで、中国人て云うのはすごいところがあるんだね。
>だから在来の中国大陸になかったものを持っている人間は、たとえそれが優れた西洋学であろうと野蛮人のものだ、という考えがあったのだろうね。なかなか認めようとしない。