引用
「人間の頭は壊れやすいようにできているんです。
認知科学や精神医学を学んでみると
人間の頭がどれほど狂いやすいようにできているのかがわかります。
どれほど真実でないものを真実と思いやすくできているのかがわかります。」
W。現生人類に至る進化の途上で獲得した、いまだに未解明な脳細胞の機能の部位総体を連合野(れんごうや)association areaと称している。
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立花隆の解説。→人間の頭は壊れやすい(狂いやすい。大きな錯覚をし易い~~うそをつくならできるだけ大きなうそを!~~ヒットラー~~)ようにできている。マスコミ垂れ流しの情報が、それを検証する術のないものにとって(運動脳感覚脳と刷り込み情報に基づく連合野ネットワーク形成でOKなのだから)、総和として大きな錯覚として機能する可能性がある。
逃避型人間のWもその一員。
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参考資料
「大脳皮質のうち、運動野や感覚野といった機能のはっきりした部位を除いた部分。連合領ともいう。
動物が高等になるにしたがって連合野が広くなり、ヒトでは大脳皮質の約3分の2を占める。
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W。この地球上の人間が果たして高等なのかどうか?こういうフレーズが無前提に出てくるところに疑念がある。
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W。頭の老衰説 安岡章太郎の「海辺の光景」
~Wのたどり着いた結論。老衰過程はアンチエイジングできない!
老衰は病気ではない、自然現象である!
病気説の無力さは、この症状が招く悲惨な事件に直面した当人たちや周囲の接し方、納得の付けようを見ればわかることだ。
病気であれば、曲がりなりにも善処の仕方があったが(病人としての接し方ができない現実があり、対処法のハードルは高く、非日常のパワーがいる~日常性に流されるとそのまんま時が過ぎゆき、なるようにしかならない。)、八方ふさがりで無力な状態から悲惨な結末に至る。
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この小説に登場する精神病院の医師の<痴呆症>に関する解説(今から50年以上も前の話)~母親を海辺の施設に入所させ、数年後にそこでの死期が近づいたとの知らせを東京で受け取り海辺の精神病院でみとるまでの経過を綴った私小説。
作家の日常生活、死生観と海辺の精神病院の閉ざされた世界の交差するところを赤裸々に描いている傑作。
しかしながら、この小説を綴り発表すること自体が作家の自己合理化過程である。ゆえに私小説の良いところと限界(~~作家は物語を作らないのだから普遍的世界が出てこない~~)が明らかになっている。
他方、海辺の精神病院で死んだ母親にとって自己合理化の手段はあらかじめ閉ざされていた。
しかし、それでもこの現実が人間の最後の姿。死は唯物論的に平等であった。
Wは戦闘的唯物論者として死そのものは平等であるという現実を全面肯定する!
モノとして生き、モノに還るのだ。
手術の際の全身麻酔のまま目覚めなくてもよかった。そんなことはどうでもよいことだった。
それでもこの両者の世界には大きな差異はある。
それをはっきりさせ、送り出す側を納得させるのは、病気説ではなく老衰=自然現象説であるとするのが、日本的思考感覚方法であると考える。
介護保険制を発足当時のヘルパー教科書に書かれている理念を振り返って読んでみると、
日本的なその分野の伝統的な理念を踏まえず欧米理念への単純な乗り移り、と痛感した。
少子高齢化や財政的行き詰まりが拡大すると、その関連で発生してくる事態と欧米理念が齟齬をきたすようになり、
放置せざる得ない現実から逃避したい大多数派は
きれいごと理念(原理原則と現実の大きな開きを埋めるのは具体的な技術や具体的現実的制度論ではなく精神論、心の持ち方具合というのが教科書的発想)やボランティア精神に精神的浄化のチャンネルを見出すようになる。
施設や病院に送っても、送る側にはワイプアウトされるものが大きいかも知れないが、
送られる側にはその後がある。
いつの間にかヘルパー教育から実習が外されており、施設の中の重度者介護の実態を実感できないものが大量に介護職に就いている。研修制度でOKとなれば、どうなるか。
もっとも、余分な精神の埃(様々な精神の衣装を着ている)が付きすぎている日本人よりも実際行動として外国人の方が人にやさしい、コミニュケーション能力が高いという日本の現実もある。
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立花隆、引用に還る。
「<結局人間が生きた軌跡というのは>
生きる過程で次々に下していく価値判断の時系列の総和として残されていくんです。
自分が下した自分なりの価値評価とそれに基づいてとった自分独自の行動とが自分がその時生きてきたことの証として残っていくんです。
>人間はみなユニークな存在として生きていくのだから、
>その価値判断はちがって当然です。
>それが違うことの中に、その人のユニークさがあるんです。
価値判断の違いは、その人の価値体系の違いです。
そして価値判断の違いこそ、その人の個性の根幹にあるものです。
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W。息苦しい死生観。悪い意味での出口なしの日本的思考パターン。丸山真男的思考方法。東大的発想方法だ。コレは永遠にわからんだろう。着込んだ衣装を脱ぎ捨てる機会は訪れないからだ。
「真理は主体性においてある」という実存主義の根幹部分は
こういう意味において正しい、と思う。
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参考資料
加川良 教訓
日本は伝統的なコンセンサス社会で個性発揮型人間より
大勢順応型人間(W。大勢順応させる制度が形を変えて続いているのであって、問題の根幹は日本的社会と制度の中にあり、個人の中にはない!)の方が評価される社会ですから、
>実存主義の考えが頭でわかるヒトでも、
>それを行動原理とする人は少ない状況にある。
12月16日(日)
ひたすら読書。デイルーム。日差しが強くアコーディオンカーテンを引く。
12月16日(日)
11:00→12:00 階段運動500段
昼食後汗をかき動悸がする。
<読書メモ>
霊長類になってから連合野(れんごうや)発達
②側頭葉連合野
>側頭葉連合野 (認知機能に大きな役割を果たす)
↓①②③の機能が老衰すると感覚、情緒主導になる
*動物 (運動野 感覚野)
39野のほうはアインシュタインの脳のように値に直結。
脳の働くは大きく云うと、
分析過程と統合過程。
一番わかってないこと→情報統合
実はここで何をやっているのかが一番わかっていない。
感覚野(感覚器官からの情報)運動期間に出力していく運動野
この二つがまずわかって、
>その間にあるわからない領域を連合野としている。