反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

前回に続く。認知症考。資料、見沢知廉「囚人狂時代」筆記引用.~裁判ごっこ~

          裁判ごっこ
  見沢「囚人狂時代」筆記引用は前回に続く
保護房とは、逃亡や暴行、自傷、自殺などの恐れがある囚人を「保護」するために拘禁する独房のことで、囚人がけがをしないようにというありがたい配慮から、床や壁はつるつるのリノリウム張り、首吊りのひもが欠けられないように、窓も設けていない。だから真っ暗だ。広さは2畳ほどで、天井にはカメラとマイクがある。普通は後ろ手に高速具をされたまま入れられるので、糞尿も垂れ流し、私物はもちろん、ラジオも新聞もない。
 保護房は原則拘禁7日までとなっているが、たいていは2泊3日の拘禁で、どんな凶暴な犯行囚も犬のようにおとなしくなって帰ってくる。

>が勿論ボケさんには保護房も効果がなかった。
そこでボケさん、懲罰取調べになった
懲罰取調べとは、文字通り、囚人の悪事を調べて懲罰を課すための審査会にかけることで、看守から幹部まで誰でも発動できる。これにかかるとまず有罪は免れない。
 やり方はこうだ。まず正式に調書を作り、区長以上の幹部が出席する懲罰審査会で裁判を開く。
そして囚人は翌日、保安課長から判決を言い渡される。判決つまり懲罰の内容には法律上いくつもの種類があるが、現実実際に行われているのは主に「文禁」と「軽塀禁」の二つである。
 「文禁」(文書図画等の禁止)とはペン、ノート、本、新聞などを没収され、ラジオのスイッチを切られ、読み書きする行為を一切禁じられる罰のこと。病舎の囚人などに多く課せられる。
 「軽塀禁」はそれに加え、一日のうち八時間、ずっと鉄扉の方を向いて座っていなければならない。この懲罰は最長で60日と決まっているが、もしその途中でじっと座ってないのが見つかると、何日でも伸ばされる。俺はなんと7か月連続で「軽塀禁」になった男を知っている。加えて級も落ち仮釈放審査もストップする。
 ショーペンハウアーは「フィラデルフィア刑務所の罰は一日中何もさせないことで、これは人類史上最も厳しい罰だ」といったが、その前世紀の残酷な罰を、日本のみ平気で今も実行しているのだ
 しかも、これが1990年ぐらいから全国一律で厳しくなった。
ただ座っているだけでなく、鉄扉に『反省」と書いた紙を貼り、それを八時間じっと見続けなけれなならないのだ。
眼を瞑ったり視線を動かしただけでも「懲罰不服従」になる、胡坐を組んで座るのだが、これもご丁寧なことに型が図に書いてある。
腕をわきに着け、指先を伸ばし、背を伸ばし、顎を引き、視線は上方へ四十五度~この型からピクリとでも動いたら、罰は延長されるのだ。
便所も原則禁止で、午前午後各15分の休憩時間内にのみ許可を取り、認められればいけるという徹底ぶりだ。

 さて、取り調べを受けることになったボケさん、係長に連れられ、11舎内になる取調室に入っていった。これから調書を作るのである。が、しばらくして取調室から係長の怒声が響いてきた。
 『てめぇ、この野郎!腹が減った腹が減ったってウルせえな、これじゃ調書になんねぇじゃねえか!』
 俺は吹き出してしまった。一部の隙も情けもない監獄の強制行政を、ボケ老人相手に押し通そうとしたって無理な話だ。お役所だから無理でもやらなければならないのだろうが、まったくご苦労なことである。
 やがて係長がプンプンしながら帰るのが見えた。どうやら『私は何時何分、点検中無断で私語し歩いていました、すみません』という調書だけを、やっと作ったらしい。
 後で仲のいい看守に聞いたのだが、ボケさんの懲罰審査会はみものだったそうだ。
 
 俺も十回ぐらい出ているが、懲罰審査会というのは実に物々しい。
床に足型が描いてあり、囚人はそこに立つ。正面には裁判長役の管理部長、その右側に検事役の保安課長、警備隊長、区長、左側に弁護士役の教育課長、分類課長などが控えている。
囚人のすぐ右に看守が付き添っていて、これが囚人に気を付けを命じると
『事実経過を報告する。当何版は何時何分、点検中に私語や独歩の規律違反を犯し、もって遵守事項の何番に違反したものである。』
などと上申書を読む、すると管理部長が仰々しく
『右の事実に相違ないか』
と聞く。代替囚人は
『ハイ、すみません!自分がバカでした!』
と叫ぶ。
弁護士役は何の弁護もせず、ただ検事役の連中がそれぞれ十数分間も囚人の悪口を言い、それで審査会は終わる。
しかしそこはボケさんだ。
おもむろに幹部連中を見回すと、和やかな口調でつぶやいた。
『腹が減ったのう』
管理部長が真っ赤になって怒った。
『は、腹が減りましただと、き、貴様、やったかやらないか聞いとるんだ!』
『やりましたかいのう』
『やったんだな。よしよし、やったそうです』
痴呆症であることを知っている区長がとりなす。
『お前名前は?』
分類課長が聞いた。
『ボクじゃが』
『住んでいるところは』
『駅の向こう』
『き、君ねぇ、それじゃあわからんよ』
『妹のいたところ』
『住所だ、住所』
『日本じゃが』
『てめぇあまやせりゃあ、付け上がりやがって!』
 普通なら「軽塀禁」を1週間は食らうところだが、死んだらまずいとの区長の進言で、ボケさん、叱責という一番軽い懲罰だけで済んだ。
これは一応懲罰なので落級はあるが、体罰は免除という、座っていなくてもいい懲罰だ。
 しかし、懲罰免除の代わりに、集中監視が必要とのことで自殺房に入れられた。
自殺房第二種独居房ともいい、自殺未遂者や反抗囚、危険人物などが入れられる。
俺も3,4回入ったが保護房と同じく、ここの雰囲気も尋常ではない。
房内には突起物が一切なく、自殺や脱走、暴力を防ぐために窓も鉄板で打ち付けてある。夜も煌々と照明がついたままだ。
水道はボタン式で、それを押しと壁から出たホースから水が出る仕掛けになっている。こんな部屋に私物一切を取られてて監禁され、四六時中カメラで監視される。
 
 ボケさんがいるというので報知器も取ってしまったから、ボケさん気持ちが発散できない。房内で徘徊や独り言を繰り返すうちに、痴呆が一段と進んでしまった。加えて興奮症状が出るようになった。
 腹が減ったといっては看守を呼び怒られると
『なんだ貴様!わしは天皇であるぞよ!そこになおれ叩ききってやる!わしに飯を食わさんのか!ひもじいよ!殺す気か、わしを!わしはめしをくっておらんのじゃ!」 
と絶叫する。
 ボケさんその後も保護房と懲罰審査会を行ったり来たりしたが、
>>ついに向精神薬を投与されるようになった。あとはもうボオッと徘徊するのみ
一度あまりに徘徊がひどいので、老人ばかりのモタ工場に出し、工場内をぐるぐる歩かせた。歩かせると、犬みたいなもので満足するらしかった。
 が、それも一時的な対症療法だ。
そのうち糞尿を漏らすようになった。朝ぷーんと匂う。そのたびに掃夫が来て、パンツを取り換え、房内にホースで水を撒いて洗った。
『うわあ、くっせえなあ』
と掃夫も嘆く。
 満期出所するとき、ボケさんは70代半ばになっていた。
すでに引き取りてもなく、かといって自力で働けるわけでもなかった刑務所はボケさんを、そのままぼけ老人の施設に強制入院させたという。
ボケさんのその後を知るものはない
それどころか、ボケさんの過去さえ、知る者はいない。
聞こうにも、すでにボケさんの記憶とともに失われてしまっているのだ。
 そしてボケさんや俺がブチこまれた、この厳めしい造りの11舎も、93年に壊されてしまって、今はもうない。

     2019年 5月18日(土)11時30分筆記引用終了