反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

根本的悪人構成の者が善人面して過ごさなければならない環境に置かれると、心と身体に滓がたまってくる

 今回の記事の最後に「孤族の国~朝日新聞取材班~CASE16 息子介護の本音、言えた」を持ってくる構成を予定していたが時間不足でできなかった。次回に予定。
反俗日記がこの間追求してきた露出しなければならない介護現場のリアリズムの好例がここにある。

   2019/5/1(水) 午後 2:47 反俗日記。
あるSEALDs,青年→「個人として考える、そして自分の場所で戦う」
人間の主体は既存のシステムに身を置く存在でありながら、それを超えていく力を持っている
>反俗日記、引用
「Wの注釈 キーポイント  なによりもまず、「時代と場所という条件~を離れて価値決定はなしえないという命題に帰着する」が、
>個人が己を取り巻く秩序の中に埋もれているとき、
すなわち個人の存在そのものが秩序にあらかじめ織り込まれているとき、個人はどこまでも自然的で原始的な世界の一要素に過ぎない
W。この前後の箇所がシールズさんの云う脳内チップ取り出せ

この個人を相対化しうるためには、
その秩序の外へと 「出てー立つex sistしかない。←W脳内作業になるのか物理的場所の変更になるのか、様々な手段がある。
そうすることによってこの秩序は個人と対峙する。

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目の前の現実行き詰って、様々な思いが錯綜しおのれを切り裂き、夜中に半分眠ったままの寝床で、思わず「苦しいヨォ~」と叫んだ。
次の日、世の中のこと、周囲のこと、死生観を意識化したいと思って、ネットに出ている記事を数点取り込んだが、どうしても腑に落ちなかった。
Wにとってこんな記事というか状態など掘り下げてもぐっとくるものはなかった。しかし、Wにとって知識は大切。
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樹木希林さん死去 「生きるも死ぬも、面白がらなきゃやってられない」生前、死生観を語る 【後編】
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」 樹木希林さんが語っていた死生観 ...前編
この人は毎日をハレの日にしていたんだなヒトそれぞれ生き様があり死にざまがある
 W、参考資料。
①ハレとケとケガレ http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo05.htm  
W。樹木希林さんは、こういった方面の知識を踏まえて発言している!それを知らなきゃ「生きるも死ぬも面白がれない」ヨ。
「>しかし神話の時代には生と死は断絶ではなく、住む世界が違うだけで、連続したものと考えられていたのではないでしょうか?
*死が、いつから生の断絶と考えられるようになったのかといえば、
*それは稲作文化と共に大陸から伝わったのではないでしょうか。
**死が生の延長線上にあるなら、<<神話時代>>の人にとって死は恐怖ではなく、ましてケガレでもなんでもなかったのではないでしょうか。
イザナギは大岩を結界として坂本に置くことで、イザナミが追って来られないようにしました。
この岩がなければ、彼女は黄泉国(死の国)から葦原中津国(現世)に戻ることができたのです。
かつて日本人にとっては生と死の境界線は不明瞭だった、というほかありません。
川の水でケガレを洗い流すという考えは古代中国にもあります。(というか、こういう話が日本にも伝わったのかも)
>>私は死が生の断絶として捉えられるようになって、はじめて人は死を恐れるようになったし、ケガレ意識も生まれるようになったと思います
その意味で、稲作文化の伝来から仏教伝来にかけての時代は、日本人の死生観の転換期にあたるのでしょう。
古墳などの陵墓には、死穢を封じ込め、外部に出さないための結界としての機能>があったと思われます。
死穢の大きさは被埋葬者の身分、権力に比例すると考えられ、身分が高ければ高いほど、また権力が大きければ大きいほど死穢も強力になるので、それを封じ込める陵墓は必然的に巨大化せざるを得なかった・・・単なる想像ですが、私はそんなことを思っています。
**怨霊とは生が断絶したにもかかわらず、生の断絶を破って生の延長線上に現れるものです。死んだはずの人が現れれば誰でも驚き、恐れるのは当然でしょう。(驚くこと自体、死は生の断絶である何よりの証拠です)
わかりやすくいえば怨霊とは、日本人の死生観における掟破り(?)なのです。だから怨霊は恐れられたのでしょう。
**平安時代には怨霊への恐怖はピークに達しました
天皇をはじめとする宮廷の貴族達が、怨霊を恐れる様子は尋常ではありません。
天照大神の子孫を称することを王権の根拠とする天皇は、自らを最も清浄なものと位置づけ(何しろ神の子孫ですから)たため、その対極に位置する死穢に犯されることを極端に恐れるようになったのではないかと想像します。この場合死穢は怨霊と置き換えてもいいでしょう。
>>代の天皇は例外なく軍団の総司令官でした。
神話ですが神武天皇はそうでした。申の乱を指揮した天武天皇もそうでした。天皇ではないにしろ聖徳太子朝鮮出兵を計画し、実弟を将軍に任命しています。
日本以外の国では、王を含めて貴族は危険に対しては率先して戦うのですが(だから特権階級として認められている)、←
W。古代ギリシア。スパルタの王は二人制。1名は縦列密集歩兵集団の戦死する確率が最も高い最右翼を受け持った。スパルタは滅亡の時まで王二人制を守った。Wはこの事実を知ったとき深く感動した。そこに肉体性に貫かれた論理(制度、思想、感性)の原点を見た。

>>日本では天皇が死穢(怨霊)を恐れるようになった時、天皇は軍団の総司令官としての益荒男(ますらお)から、戦えない手弱女(たおやめ)に変わって行ったのです。

天皇の臣下である貴族達がそれに影響されたのは当然でした。

② ハレとケのはざまで
「桜井 徳太郎氏は「ケ」とは稲を成長させる力を意味し、それが無くなる状態を「ケガレ」といい、それを回復する状態を「ハレ」といい、日本
 人の日常生活が「ケ」から「ケガレ」、「ケガレ」から「ハレ」、「ハレ」から「ケ」へと循環すると主張した。
  
>>「ケガレ」という観念が日常生活に影響力を持ち出したのは、平安時代の貴族社会が始まりである。
網野 善彦は「日本の歴史を読み直す」で「ケガレ」を、
人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、
それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついていると定義している。←W。この文脈から東アジア東端、付加体列島原住民たる「日本人」の差別意識は制度的位階制を持ち、なおかつ地理、自然と社会を通底するので根深い、と言わざる得ない
>死亡は死穢、誕生は産穢、火事は焼亡穢というふうに日常生活のあら ゆるバランスの変化がケガレと結びつくと、それを清める人や行事が必要になってくる。
それが「ハレ」の行事である。その代表行事が祭りであるが、人間のほうでも「ケガレ」を清める専門家の「清目」が出現する。
かれらは神仏に直属する神人や寄人として位置 付られ、差別を受ける存在ではなかった。
>>しかし、神仏の権威が凋落するにつれ、いつ しか賎民視されるに至る。」

上記のような知識を踏まえるけれど、この項の結末にふさわしいリアルな記事を見つけた。樹木希林さんの商品化した記事よりもまともな感覚がここにある。
    ↓              ↓
日本人の世界観「ハレとケ」を見直す―SNSに惑わされているあなたへ
SNSや雑誌のモデルどうしてあんなにキラキラしてるの?
https://w-sc.jp/haretoke/ ~WOMEN'S SHOWCASE~
「ハレは特別な日ですが、そんな日は1年に数日…で後はあまり変化のない「日常」が大半です。それを「ケ」と呼びます。
 毎日が面白おかしく暮らせるわけではない、「ケ」があってこそ「ハレ」にはじける思想は今も感じますが昔から日本人にある習慣なのですね。
       
        <現代は「ハレ」ばかり>
>>冒頭の雑誌の特集の例もそうですが、現在の時間の切り取り方は「ハレ」の部分のみです。
>>それはそれで構わないのですが、だからといって彼女らが「常にそんなゴージャスな暮らしをしているのか」は別だと思いませんか?
>>一部のセレブはそうかもしれません。でも、彼女らも仕事の中でも家庭においても地味で堅実な案外「人間臭い」暮らしをしているのではないでしょうか?
    
         <SNSの友人も特別感の演出かもね>
「雑誌の中の芸能人は特別ってことは分かるけどFacebook,Twitter,Brogの友人も自分よりいい暮らししてる!うらやましい」って思っていませんか?
>どの媒体を使うにしても、どうしても「見られる」ことを意識します。だったら「日常」よりもちょっと離れた場面をどうしても切り取ってアップしますよね。
 自撮り写真1枚にしたって何度も撮りなおす若い女性のなんと多い事か!これはすでに非日常「ハレ」に近いんです。

>「うらやましい」はより自分を良くして行こう!という活力につながります。
>>でも人っていつも「非日常」の中にいては疲れますし、非日常を日常と勘違いすることでより刺激的なものを追って自分の足元が見えなくなってしまいます
>>それが行き過ぎると自分の収入以上の暮らしを求めて家計を顧みなくなったり、またSNSのやりすぎ投稿などの一因にもなりかねません。

       <日常こそ大切に>
生活(日常)って平凡でつまらないものです。その「ケ」の部分を大切にするから「ハレ」の日を喜びを持って迎えられるのです。
>>今こそ日本人の世界観を「ハレとケ」を見直してあふれかえった「非日常」めいた情報に振り回されないでほしい。そう思います。」



樹木希林さんの記事の向こう側をWは調べたが、裕福な環境以外(生き様があり死にざまがある)はただの在宅高齢要介護者の日常(独居在宅でないことは確かだ)とお決まりの転倒云骨折→入院そして退院の選択=在宅死。
 
 ここでWが注目するのは、樹木希林さんの在宅生活に接してきた(見守り介護?)娘夫婦等の実態報告があまりなされていないことだが、生の発言はネット記事に出ており正直に語っている~「しぶとい婆」云々~。その意味で好感が持てるが、マスコミはそこの部分はスルーしマスコミ流通商品情報として流布する。ゆえに美化神秘化される。
彼女は最後まで女優であった。その意味で感心する。
このマスコミ一般流通商品情報という特殊世界をこういう状態に距離を置ける人たちが、真に受けると、大きな勘違いをする。
>わたしらは泥沼に這いつくばりどうにかしなけれなならぬ。

こんな時に、これだけ記事を長期にわたって書きまくると、自分の分身化しているのか、はたまた自分でこしらえた思考の枠組みになってそこから外に出られなくなっているのか、自然にアップした記事が脳裏をかすめる。

>そこで何気なしに思い浮かんだのが、コレだ。どうしてそうなるのかもなんとなくわかる。
根本的悪人構成の者が善人面して過ごさなければならない環境に置かれると、心と身体に滓がたまってくるそういうことなんだよ、結局は。
わかっているから人格の根深いところが切り裂かれる。
そして救いを求めるが、その先はおのれ自身でしかないという円環。
そういう事情は分かっていても反俗日記の過去記事に思いを馳せる。
長文記事を書いてきた効用はこんなところにある。
   ↓                     ↓
2014/10/31(金) 午後 2:07  W。出口を求めて外に立ちたがっているが、文芸の効用は疑似体験ができる所
 拝啓
私の息子についてお問い合わせになったあなたのお手紙を受け取り、非常に驚きました。私がここにいることを一体どのようにしてお知りになったのでしょうか?わたしは何年も前。そういう事態が持ち上がってきた直後にここに越してまいりました。ここの人たち誰れも私を知りません。それでもやはり心配でなりませんでした。
私が恐れるのは彼のことです。新聞を読むとき、わたしは首を振って思うのです。彼について書かれた記事を読むと本当に私の息子なのだろうか、そして本当にこんなことをやっているのだろうか、と自問するのです。
 あの子は、時折感情を爆発させることと、本当のことを口に出来ないことを別にすれば、良い子供でした。どうしてそういう風になってしまったのか、私にも理由らしい理由を挙げることができません。
 
>それが始まったのはある夏のことです。独立記念日の頃でした。
彼は15歳くらいだったと思います。私たちに飼っているいる猫のトルーディーが一晩家に帰らず、翌日になっても戻ってきませんでした。うちの裏に住んでいたクーパーの奥さんがやってきて、翌日の午後にトルーディーがそこの裏庭まで這ってきてきて、死んだと教えてくれました。トルーディーはずたずたになっていましたよ、と彼女は言いました。でも確かにトルーディーでした。ウチの主人が死体を埋めました。
 ずたずたになっていた?と私はいいました。
ずたずたになっていたって、一体どういうことなんですか?
主人は、二人の男の子はトルーディーの耳と、あそこ(お分りでしょう)に爆竹を突っ込んでいたのを見たのです。主人は止めようとしたのですが、子供たちは走って逃げました。
 誰ですか、誰がそんなひどいことをやったのですか?ご主人はそれが誰かごらんになったんでしょうか?
主人は一方の方は誰だかわかりませんでした。
でももう一人はこっちのほうに逃げました。ソレはオタクの息子さんみたいだったと主人は申しております。
 私は首を振りました。いいえ、ソレ何かの間違いです、とわたしは言いました。あの子はそんななことをしません。あの子はとルーディ-を愛していたんです。トルーディーは長い間家族も同然でした。いいえそれはうちの息子ではありません。
 その夜、私は彼にトルーディーのことを話しました。彼は驚き、またショックを受けたようでした。コレは犯人に賞金をかけなくちゃいけないよ、といいました。彼はソレらしきものをタイプし、学校に貼り出すといいました。しかしその夜に自分の部屋に戻る時に、あの子はこういいました。
余り辛く思わないほうがいいよ、母さん、あの猫はもう年だったんだしさ。人間の年にしたら65か70くらいだったんだよ。ずい分長生きしたんだからさ。
 
毎日放課後の土曜日に、あの子はハートリーさんの店で倉庫係のアルバイトを始めました。
そこに勤めていた私の友人のベティ、ウィルクスが仕事の口があることを教えてくれました。そしてあの子を上手く紹介してあげようといってくれたのです。その夜私はあの子にその話をしました。
いいじゃない、と彼は云いました。若い人間が働けるところは余りないしね。
 最初の給料日に、私はあのこの好物の夕食を作ってやりました。そしてあの子が帰宅した時には、テーブルの上にずらりとならべておきました。さあいよいよ一家の男手だわね、と私は云って彼を抱きしめました。
あなたは立派だわ、さあいくらお給料もらったの、と私は聞きました。
80ドルさ、と彼は云いました。私はびっくり仰天しました。それはすごいじゃない坊や、信じられないくらい。
腹がペコペコだよ、飯にしようぜ、と彼は云いました。
 私は幸福でした。でも私には訳がわかりませんでした。
それは私が稼いでいた以上のお金だったのです。
そのこの服を洗濯しているときに、ポケットの中にハートリーさんの店の小切手の控えを見つけましたが、金額は28ドルでした。彼は80ドルといいました。どうして本当のことを云わないのでしょう。私はよく解りません。
 
坊や昨夜(ゆうべ)はどこに言ってきたの、と私はよく訪ねたものでした。
映画にいったんだよ、とあの子は返事しました。でも後で彼が学校のダンスパーティーに行ったり、夜中ズット誰かと一緒に車を乗り回していたことを知りました。ソレなのにどうしてワザワザそんな嘘をつくんだろう、母親に本当のことを云ったって罰は当たらないだろうに、と。
 
彼が遠足に行ったと称したときのことを覚えています
それで私は尋ねたのです、坊や、遠足ではどんなものをみてきたの、と。彼は肩をすくめてこう言いました。地形、火山岩、灰、今は砂漠だけど、かつて100万年前には巨大な湖であった場所。
あの子は私の目をジッと見つめながら話し続けました
その翌日に私は学校から、お子さんを遠足に連れて行く許可が必要なのだが、いただけないでしょうかという手紙を受け取ったのです。
 
高校3年生の終わり頃にあの子は車を買って、ずっと外出しているようになりました
私は成績のことを気にしました。
でもあの子は笑い飛ばしていました。ご存知でしょうが、あの子は立派な成績をとっていました。それくらいのことはあなただってよくご存知でしょう。

>その後であの子はショットガンとハンティングナイフを買いました。
 そういうものが家の中にあるのは嫌いでしたし、はっきりそういいました。
でもあの子は笑い飛ばしました。あの子はいつもヒトのことを笑い飛ばしていました
銃とナイフはいつも車のトランクにしまっておくよ、と彼は言いました。いずれにせよその方が直ぐ取り出せて便利だ物ね、といいました。

>ある土曜日の夜、彼は家に戻ってきませんでした
私は心配で心配で生きた心地もしませんでした。あくる朝の10時ごろ彼は戻ってきて、朝ごはんを作ってくれといいました。狩をやったおかげで腹が減って死にそうだと。一晩家を空けて悪かったね、と彼は言いました。
でもその場所に行くのにずい分長くドライブしなくちゃならなかったんだよ、と。なんだか変な話でした。
あの子はそわそわしていました。
 お前、どこに行ってたんだよ?
 ウェナスの方さ。そこでちょっとばかり猟をやったんだ。
 だれと一緒だったんだい、坊や?
 フレッドと。
 フレッド?
あの子はじっと私の顔を見ました。私はそれ以上、何も言いませんでした
 直ぐ次の週、日曜日の午後のことでしたが、私は忍び足であのこの部屋にはいり、車のキイ探しました。彼は前の夜、仕事の帰り道に朝ごはんの買い物をしてくると約束していたので、私はあの子が車の中にソレを置き忘れているかもしれないと思ったのです。彼の新しい靴が泥と砂にまみれて、ベッドの下に半分ばかり突っ込まれているのが見えました。彼は眼を覚ましました。 
 ねえ坊や、この靴いったいどうしたの?ひどいことになっているよ。
 途中でガソリンが切れちゃってさ、ガソリンを買いに歩かなくちゃなたなかったんだよ。彼はベッドの上に身を起こしました。 
一体何をそんなに心配しているんだよ?
私はお前の母親だからね。

彼がシャワーを浴びているあいだに私はキイを持って、車のところに行きました。私はトランクを開けました。
食料品は中に見つかりませんでした。キルトの上にショットガンが置いてあるのが見えました。
ナイフもありました。彼のシャツが丸めておいてありました。ふって広げてみると、それは血だらけでした
また湿ってもいました。私はソレを下に落としました。
トランクを閉め、家のほうに戻るところで、あの子が窓際に立ってこちらを見ているのが見えました。彼はドアを開けました。
 言うの忘れてたけどさ、と彼は言いました。おれ、凄い鼻血だしちゃたんだよ。洗濯しても落ちないんじゃないかな。捨てちゃてよ。そういって微笑みました。
 
何日か後で、仕事の具合はどうなの、と彼に尋ねてみました、順調だよ、と彼は言いました
昇給だってしたしさ。でも私はベティー、ウィクスに通りで会いました。彼女は言いました。ハートリーのみんなは残念がっているのよ、あの子はやめちゃったことでと。あの子、みんなに人気あったしね、と彼女は言いました。ベティーウィクスがそういったのです。

>そのあと2日間、ベッドに入ったものの眠れませんでした、私はじっと天井を睨んでいました。
彼の車が家の正面に止まる音が聞こえました。彼は鍵穴に鍵を突っ込み、台所を通り抜けて、廊下を自分の部屋に向けて歩きました。そして中にいるとドアを閉めました。
 私は起き上がりました。彼の部屋のドアの下に明かりが見えました。私はドアをノックして押し、ねえ坊や暖かいお茶でも飲まない、眠れないのよ、といいました。
彼はたんすの脇にかがみこんでいましたが、引き出しをドスンと閉め、私のほうを振り向き、出て行け、と叫びました。お前がおれのことをこそこそと支配するのにはもううんざりだ、と彼は怒鳴りました
私は自分の部屋に戻って、泣き疲れて寝てしまいました。あの子はその夜、私の心をずたずたに裂いてしまったのです。

>翌朝、彼は私が起き出す前におきて、家を出て行ってしまいました。
でも私は別にかまいません。そのとき以来、私は彼を家族としてではなく、下宿人として扱うことにしたのです。彼が行いを改めない限りです。私はもう我慢の限界に来ていました。
もし彼が私たちの関係を、同じ屋根の下で暮らしている他人同士みたいにしたくないなら、謝罪すべきなのです
 
>夕方私が帰ってきたとき、あの子は夕食の用意を整えて待ったいました。やあお帰り、と彼は言いました。そして私のコートを脱がせてくれました。仕事はどうだった?
 ねえ坊や、昨夜は眠れなかったんだよ、と私は言いました。私は自分に約束したんだよ、もうあのことは持ち出すまいってね。何もお前に後ろめたい思いをさせようと思っているわけじゃないんだ。でもね、私は自分の息子にあんな口の聞き方をされることに慣れていないんだよ。
 母さんいいもの見えてあげるよとあの子は言いました、
そして公民の授業のために書いている作文を私に見せてくれたのです。それは議会と最高裁判所との関係について述べたものだったと思います。(その作文ので彼は卒業の際、優等賞を取ったのです!)わたしはソレを読もうとして、そのときこう思ったのです。
>今が話を持ち出す好機だと。ねえ坊や、お母さんはあなたとちょっとお話がしたいの。
こういろいろ問題のある世の中で、子供一人育て上げるというのは、とても難しいことなのよ。
特にうちのようにお父さんがいない場合はね。男親の手を借りたいと思っても頼れるヒトもいまいしね。お前はもう大人に近くなったけれど、それでも私はまだお前に対して責任を負っていると感じているのよ。そして私にだって、それなりの敬意と心づかいを払ってもらう資格はあると思うのよ。私はあなたに対して公正に正直になろうと努めててきた。
 私は本当のことを知りたいの、坊や。私はお前に対してズットそれだけしか求めてこなかったわ。真実よ。ねえ坊や、と私は息を吸い込んで言いました。もしお前にこういう子供がいたと思ってごらんよ。
お前がその子に向かって、何か、どこに行っていたのかとか、どこにいくのか、と尋ねた日に、何をやっているのかとか、とにかく何かを尋ねるたびに、絶対に、一度だって本当のことを言わない子供がさ
もしそこは雨が降っていりかと聞いたら、いいやかんかん照りだよと返事をよこして、一人でほくそ笑んで、相手は年寄りで馬鹿だから、俺の服はぬれているのなんか気がつくまいと思っているような子供が、もしお前にいたと仮定してごらんよ。どうしてそんな嘘をつかなくちゃならないんだ、それで一体どういう得があるんだって、お前は考えるだろう。一体どうしてって、私だってズット自分に問いかけてきたよ。でも答えはわからない。どうしてなの、ぼうや?
彼は何も言わずにジッと見つめ続けていました
やがて私の隣にやってきて、じゃあ教えてやるさ、といいました。
ひざまずくんだよ、おい。床にひざまずけって俺はいっているんだよ、とあの子は言いました。それがまず最初の理由だよ。
 私は走って自分の部屋に逃げて戻り、鍵をかけました。

その夜、息子は自分のものを持って、自分が必要とするものを持って家を出て行きました。
信じてくださらないかもしれませんが、そのとき以来、私はあの子に会っておりません。

>卒業式の二日にはあの子の姿を見ましたが、でもそれは人ごみに混じってです。私は皆と一緒に席に座って彼が卒業証書を作文の優等症を受け取るのを見て、彼が卒業生代表のスピーチをするのを聞きました。それから私は皆と一緒に拍手をしました。
 そのあとで私は家に帰りました。
 それ以来、あの子に会ったことはありません。ええもちろん、テレビで顔はみました。新聞で写真も見ました
 
 私はあの子が海兵隊にいったことを知りました。
それから海兵隊を除隊して東部の大学に行ったということを誰かから聞きました。
それからあの娘と結婚して政界に入ったことも。
彼の名前を新聞で見かけるようにもなりました、私はあの子の住所を調べて、何ヶ月かに一度は手紙を書きました。返事は一度もありません。
彼は知事選に出馬して当選しました。今では有名人です。 私が不安になってきたのはその頃からです

 私の恐怖心はつみあがっていきました。心配でしょうがなくなってきたのです。
勿論息子に手紙を書くのはやめました。
そして私のことを死んだと思ってくれればいいのだけどと思いました。
私はここに引っ越しました。もしあなたが権力を持った人間で、誰かに居場所を見つけようと思ったら、それは難しいことじゃありません。

 私はとても誇りに思うべきなのでしょうね。でも怖いのです。
先週のことですが、通りに停まった車に、男のヒトが乗っていたんです。その男は私のことをジッと見ていました。私にはそれがわかりました。私は真っ直ぐ家に帰って、ドアをロックしました。何日か前に電話が何度もなりました。私は横になっていました。受話器を取りましたが、何の音も聞こえませんでした。

 私は年寄りです。私はあの子の母親です。この世ひろしといえど、私くらい息子のことを誇りに思わなくてはならない母親はほかにいないはずです。でも私はただただ心配でたまらないのです。
 お手紙ありがとうございました。私はこのことを誰かに知ってもらいたいのです。私は恥ずかしくて仕方がないのです。
 私はまた、あなたがどのようにして私の名前をお知りになったのか、どこで住所をお知りになったのか、ソレを知りたいのです。誰も知られないでいることを私は祈っていたのです。でもあなたはご存知でした。どのようにしてわかったのですか?お教えください