残念。悲しい。日本の良心が欠けた。
バブル崩壊後、農地を買って地に帰りたいと思って調べてみると余りにも大きな規制に目がくらんで諦めたことがある。もともと実家は硬い勤めの祖父、父と続く家だったが地方の中核都市の郊外で農業もやっていた。高校時代の後半から田んぼに水を用水路から汲みあげる水車を踏むように自然となった。
ところがすぐに学生となるため都会に出た。大学をでてサラリーマンになるつもりはなかった。銀行員の父親が家庭生活を犠牲にして働いているのを見ていたから、あんな生活はすまいと思っていた。
父親が長い出張生活から本店勤務になったのは定年まじかだった。人生を銀行員生活にささげたと言える。その割にたいして出世はしていなかった。定年後も銀行関係の仕事をしていたが息子である私と会話した記憶はない。
父親は勝手に息子を大学に合格したのだから自分の跡継ぎとして銀行員する資格を得たものと勝手に思い込み、私はそんな家庭環境を口には出さないけど完全否定していた。
大学入学は家を離れる口実だった。地元の大学に進む選択も考えたが教師になる道しかなかったので止めた。祖父親戚中が教師だらけだった。未成年者を相手に一生を送る人生は意味が見いだせなかった。
父がなくなって資産を自分は放棄した。
だから筋道立てて考えると矛盾している。資産放棄=農地放棄、農地購入挫折。矛盾に満ちた混沌の人生である。
農への想いはずっと持ちつ続けてきた。
ずっと都会暮らししかでできなかったが、都会生活のウソっぽさ、浮動性。それに比較する土と自然とともにある生活の人間的本来性は農とは何かを身近に子供のころから接してしている者にとって体、感性、匂いで知っているものであった。
バブル期、農を経済合理性で割り切ってしまう議論が盛んになった時は心底、解ってないな、と思った。
農は時間と土地を自分で裁量できる喜びがまずある。誰かに使われ自分の生産性を収奪されているのではない、自分の働きが直接成果となって跳ね返ってくる。働けばストレート報われるという世界ではないが働かなければ成り立たない職業である。
都会生活者であってもアウトドアの人間であった。
こんな生活の中で立松和平さんは特別な存在だった。
彼は学生がどういう活動をしてきたか生身を持って経験して色々な肉体労働の中で作家活動を開始した人ということも、その表現生活に親近感を覚える元であった。
小説は読んでいない。エッセイをかなり読んだ。どれも何の違和感もなく心にすとんと落ちて行く感じがした。同じ思いを共有していたというべきか。
邦画、「遠雷」の原作は立松さんだった。
今まで見た映画の中でも印象に残るものだった。脚本が荒井晴彦さんだと最近知ったが、確かによく場面展開とセリフがはまっていた。監督は根岸吉太郎。出演者は長島敏行、石田エリ、ケーシー高峰、ジョニー大倉。俳優全てが役にはまりきっていた。
この小説は現代の一種の転向小説と評する向きもあるが、小説は読んでいないが映画を見る限りでもそういう匂いは確かにする。青い戦いの時代が終わって帰った先も地方都市の落ち着かない郊外のたたずまいの中で揺れ動く家族。それでもそこにしか生きる場所がなくて女と卑近な家庭生活にに沈潜していかざる得ない普通の若者の軌跡がそこにある。
小説や映画では戦い疲れた男ではなく主人公は農家の跡取りでトマトハウス栽培をしこしこやって土地の女と見合い結婚して営んで行こうという設定し成っているがそこにあるのはアキラメ=全てこれでいいのだ、と市民社会埋没の中の家庭的安ど感であろう。しかしそこにも色々安住できる要素もない。
邦画、「光る雨」に原作も立松氏。
立松さんは関係ないが失敗作である。連合赤軍事件を取り扱うのだったら、ストレートに題材にすべきである。観客に正面から問うべきであった。劇中劇の手法が採られている。
連合赤軍事件を演出し演じるスタッフのを撮影することが同時に連合赤軍の山岳リンチを映画上で再演することになっている。
これは監督である高橋伴明氏が斜めにしかにしかこの問題に立ち向かえなかった結果からきており、この映画にあの事件の実相の今の解釈を期待していたものに肩透かしを食らわすものとしかなっていない。
いずれのしても立松和平氏を無くしたことは損失であった。貴重な方がなくなっていく。
日本画家の平山郁夫氏もなくなった。彼には被ばくの原点があった。作品もすごいものがあるし中国をはじめとするアジアへの造詣も深い。