反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

植草一秀さんと「きっこのブログ」のきっこさんの3月12日付「価値観と云うコンパス」を批判させていただいた。自分の立場を鮮明にするために必要だった。

 「きっこのブログ」のきっこさんに対する私の評価は高い。ほとんど抹消した政治関連のブログの中で、残している何本かのうちに入る。
 政局につられて、目先のことではあるが、重要で本質にかかわる事実に対して90度ぐらい評価を変える有名ブロガーが目立つ中で、彼女は定点観測ができている、コレが高い評価する最大ポイントだ。
 
 例えば植草一秀と云う人がいる。
もうこの方のブログは抹消した。
この方は基本的に政治領域では無能である。
政経済と云う専門領域における孤塁を守るという基本姿勢があれば、その政治論も説得力があると云うのに、自己認識にかけているのか、重要な政治的ターニングポイントで繰り返し誤った判断を披瀝している。
 
 管直人、首脳部と小沢さんたちの抗争を連合赤軍に例えたり、小沢さんに離党ー新党結成を進めたり、など、とにかく大きな政局に対して状況判断能力が著しく欠如している。
 仮に小沢さんが彼の云う通り動いていたら、すってんてんの丸裸になっていただろう。
 
彼の特徴、良い処は学者らしく、過去の起こった事を再構成し、一般化できる能力に優れているという処にある。
しかし、政治に大切なのはリアルな今を正確に分析し、先を読む事だ。彼にはこの能力が著しく欠如している。
 
 最後に止めを刺したのは、橋下徹大阪維新の会が府市長ダブル選挙を仕掛け勝利したホットな政局対しての彼の橋下容認の姿勢だった。
 
 そのちょっと前に私はネットで植草さんの橋下の大阪府知事時代の強烈な批判を探し出してきて、引用した記事を作成した。
 
 処が、たった、数年後の彼の橋下評価は90度くらい変化した。
 
 この記事に対して方々から痛烈な批判を受けたらしく、言い訳じみた軌道修正をしているが、私は、彼には不信感を募らせていたので、コレはダメだ、と見限った。
 
 要は彼の政治的スタンスは自分の頭の中にある小沢さんの政治的都合によって、自分の重要な認識を左右する、と云うモノだ。
 
 私の小沢さんに対する基本姿勢は政治家として重要アイテム、と云う次元に敢えて留めている。感情はできるだけ排除し、醒めた視線で支持し、見守っている。 
 
 従って、小沢さんの政治的都合によって橋下評価を変えるなんて、絶対にあり得ない。
 
 橋下が日本と日本国民にとって全く不必要で、混乱と惨禍を巻き起こすだけの危険な政治家との、断定はズット以前から徹底しており、ある大阪市職員にも、橋下大阪府知事の危険性を指摘し、職員としては労働組合を中心として戦っていくしかないだろうと、予言した。
この時点で大阪ダブル選挙の気配は一般に全くなかった。
 
 >先の記事では鈴木宗男さんの動画発言。
橋下は大阪都構想実現に集中し、国政への進出はないだろう発言の認識の甘さを指摘した。
この発言のくだりを聴いたときに、違うんじゃないか、ととっさに想った。
しかし、宗男さんは本物のプロの政治家だから、そういうものかもしれないと半信半疑の自分を納得させようとした。
 
 結果的に私の認識が当たっていた。
 
もうここまで書いていくと、拙いことに自画自賛の領域に突入し、恥ずかしいから止めておくが、確かな根拠はあるという事だ。
 
 >さて、説明の完全不足を重要なヒントに「きっこのブログ」のきっこさんの3、12付記事「価値観と云う人生のコンパス」への批判に移る。
 
>結論的に云えば、私は「きっこさん」の様に私的空間、行動、を基準?として、他人や社会を論じる事への躊躇が強い。
 
 が、そういう手法で書きたいという衝動は常にあり、今回はその処方を取った。
ある意味、書きやすいし、楽である。
 
>偶にそういう記事も書いたことがあった。
 
>例えば、病院で血液検査をしてもらって、悪玉コレステロールが正常値の枠外になっていた。
コレは放射能汚染を気遣って、魚から肉に変えた事にある、と推測する。
この記事は「きっこ」調の放射能不安を基にしている。
 
>が、そこから先の実生活の対応が彼女とは違う。
私は元通り、太平洋沿岸で捕れたサバを食すことに決めた。汚染を気にするあまり、悪玉コレステロールが基準値をオーバーする様ではダメと割り切った。
 
>>昔の友人に徹底した自然食を実践している女性と結婚した男がいる。
 
生まれた子供は学校給食ではダメと、弁当持参。二世帯住宅の家庭にテレビなし。
大酒のみの不摂生をやってきた友人はいつの間にやら、影響されて、自然食=食の安全の観点から、社会悪を論じる事が多くなった。
 
 ところが、それを聴いている親しい友人は参考意見程度に収めていたから、彼は我々の前で能書きを垂れることはなかった。
 
>>そういう友人関係の中で、食の安全派、自然土着回帰派、独自子育て派とは、身近な処で接してきた。
 
 1960年代の激動の時代には、こういう人たちは潮流として存在していなかった。
マイノリティーであっても潮流として輪郭を現したのは60年代の激動の政治の季節が終わって、何はともあれひと塊りになって、動いていた社会にNoを突き付けるムーブメントが分解していったときである。
 
 軍事的に行くところまでいったしまったのが連合赤軍反日武装戦線の諸君であり、その対極に位置づけられるのが、私生活回帰派であり、その中で99%を占めるのが仕事、家庭に閉じこもり、それまでの社会観を止めたり、脳内にインストロールして、形の上だけ、資本制社会に合わせていこうとする膨大な群れ。
これらはやがて、資本制市民社会に埋もれて、酷いのになると、その無批判的権化の様になった。
 
問題は前記は論じるに値しない者たちだが、今、きっこさんの先輩たちが属していた生活回帰派の潮流である。
 
>「きっこさん」は正直に云って私には理解し難いヒトだった。
 
>ところが、ある切っ掛けで、大方は解ったような気がして、その時から、彼女に親近感を感じだした。
 
 「きっこのブログ」に昔懐かしいUEさんの数冊の著書の紹介が、載っていた。
彼女の消息は、途中までしか知らなかったが、まさか本を何冊も出しており、普天間基地移設先に想定されている名護居住で反対運動を長くやっているとは。
私にとって、UEさんは接する機会は少なかったが、非常に印象に残る女性だった。
 
>個人的にも面白い話があるが割愛する。
 
>この前、本屋であるマイナー誌を捲っていたら、UEさんの文章が載っていた。
そういえば、昔の彼女もああいう文体で書いていたっけ、とかすかな記憶をたどった。
 「きっこさん」と同じような文体で昔の彼女は雑誌に記事を載せていた。
 
>いうなれば、きっこさんの師匠格がUEさんと自分では納得する様にしている。
だから、理屈どうこう以前に親近感がきっこさんにはある。
 
>ただ、私的空間、行動に収めておく次元を拡張して、社会や他人を批判しても、説得力に乏しい、とだけは批判する。そういう手法には納得できない。
 
 3月12に付の記事。
説得力に乏しい。
真反対のモノを説得するのは不可能。
 
 まず何より、自分と近くて、考えの違うモノを説得するのが大切。
 
が、彼女の私的空間、行動を拡張し、社会他人を論じる手法では同じ思考パターン同士の間での共感は得られても、前記の人への説得力に乏しい。
彼女の論法は論理の積み重ねなく、意見が分かれる数字を絶対基準としている。
 
原発事故に際して、東京から逃げ出す行動に対しての意見は分かれる。その意味で自分の行動を基準にして他者への批判には留意点がいる。
それが乏しいから、仕事とカネの選択の話題も二者択一、白黒論単純論の域を出ていない、とう批判も出てくる
だろう。
 
原発事故によって考え方、生き方、生活パターンをを変えたというヒトに普遍性があるとは言い切れない。
 
 単純にナィーブになり過ぎても、集合すると社会経済が混乱し、逃げたヒトまで影響を及ぼすこともある。
消費が全体的に落ち込むと、経済は冷え込み、それを基盤に社会、混乱が生じ橋下の様な奴が跋扈する。
コレは政治の普遍的法則でさえある。
 
 だから、動じず、これまでの生活を意識的に継続する意思を固めているヒトたちの姿も視野にいてれ置かねばならぬ。
 
 >きっこさんと同じような形態の文章にお目にかかるのはかつての小沢ファンクラブの面々の文章。
仲間内の共感確認次元に結果し、意見が違うそばにいるモノを辟易させ逆に遠ざけている。
かつて、常連投稿者だったザジャーナルで、その種の文章をこれでもかこれでもかと付き合って、私は危うく小沢嫌いになるところだった。
 
>説得は身近にいて意見の違うモノに標的を絞るべし!
その為の方法論は私的空間、行動を基準とし、拡張するモノでは全く不十分。
好きや嫌いは論外。
 
>キツイ言い方になるが、東京の仕事を投げ出して、私的疎開をして、諸事情を冷静に天秤にかけて、得になるのかどうか?正直、先を心配している。
 
 今沖縄にいるUEさんの様な人は昔からの筋金入り。確か彼女は、大学闘争の時代に学生が大暴れし過ぎて廃校になり、名称を変えて茨城の奥に移転した大学の全共闘出身と聴いている。
思想的葛藤の中で昔、土着派の道を開拓して今に至っている。
そこに至るまで南の離島で地元の人たちと軋轢を起こしていた。それでも動じない押しに強さがあり、逆に朝日ジャーナル誌上に置いて、意見発表までしていた。
きっこさんが引っ越し先であいさつ代わりに近所に手ぬぐいを配っているのを読んで、一安心した。
しかし、UEさんの様な図太さがきっこさんにあるとはその文章から伺えない。
 
>確かに田舎の辺鄙なところには都会生活から脱出し定住している人も全国的に散らばっている。
きっこさんの田舎生活が参考にすべきは、この方たち。
そういう生き方も大いに結構。
 
>しかし、単に、放射能汚染を心配し、一時凌ぎで私的疎開を選択しているのだったら、少なくとも自分の選択した職種の仕事があるところに移動したほうがいい。
 
福島原発事故メルトダウンから爆発までの「きっこ」的ストリーは科学的ではなく恐怖心が先行し過ぎている
思考回路が途中でプッツンして、いうなれば、ハルマゲドンの幻想になっていると記事を読んでいてずっと感じていた。
緊急事態だからこそ、科学的客観的に事態を把握し、選択枝を分類し、決断を下しべし、と想うが。
私はそのつもりで事故現場の記事を連発してきた。
 
放射能汚染については、究極の処、%の問題。汚染程度によって、被ばく災害の%は上昇する。
が、自分や家族が被ばく災害の%の中にはいると絶対化できず、あくまでも相対的な問題領域に留まる。
なぜなら、数値自体が膨大な実験結果から、割り出されたモノでない。
分水嶺がハッキリしないから、日本政府の様に数値が都合によって変わる。
従って、それへの批判は正しい。
 
が、批判する根拠も絶対ではなく総体の世界であり、極論すれば、この度の人体実験の結果が出てみなければ断定できない。
 
>逃げる自由は厳しい局面での重要な選択肢。
が、留まっているヒトにもそれなりに正しい意見と覚悟がある。それを自分の意見展開の中に踏まえ昇華していなければ、底の浅い、堂々巡りの感情論とみられる。
 
>歴史的状況に置いて1%少数派が正しい場合もあれば、間違っている時もある。
自分の見解は一貫していて、その正しさが原発事故で証明されたじゃ、感情的反発が一方に置いて湧きおこるのは必然。
私的空間行動を基準に拡張し、社会、他者を批判するという方法論の根本的誤りがそうさせている。
 
>繰り返しになるが、仮に私が福島市に住んでいたとしても、疎開の選択肢を選ばない。
人間は遅かれ早かれいつかは死ぬ。天寿を全うするだけだ。
その気持ちを常に意識して、日常生活を送らなければ、ならない年齢に達している。
諦めることも偉大な人間的行為である。
全てをよし、としなければならない時が来る。
分を知らねばならぬ。