今の事態を俯瞰的視点で見渡す為には歴史の視点が必要。
コレがなくては完全な片手落ちだ。
特に日本は戦前大きな失敗をしでかしている。それは他人や他国、情勢一般の所為ばかりにはできない。
まさに今を生きる歴史的主体としての足元の確認がいる。
>ナベツネの読売新聞は確か戦前の失敗を総括した大連載記事を載せていた。
その結論の究極の云わんとする処は、エリートが責任を持って合理的に判断できなかったから、道を誤ったという事である。
多分、天皇を頂点とし、その威光を背に大上段から国民に号令を発しても、誰も政治責任を取らずにおられる、情勢の危機と似つかわしくないある意味居心地のいい文武の官僚無責任体制への批判と反省を念頭に置いたモノであろう。ビートたけしのギャグ「横断歩道、みんなで渡れば、怖くない」も一部言い当てている。
しかしまさに、グローバル資本制の問題が内外で煮詰まっているこの時代に竿指す目的から、敢えてそういう手も込んだ事をやる必要があった。
「社会の木鐸」「不偏不党」の戦後マスコミ共通のGHQから与えられた了解事項がこのグローバル資本制の時代に対する不適応をさらけ出し、修正を迫られた時、与えられた様々な戦後特権を護持し、己の資本価値、政治価値を高めていくために、丸山真男的近代主義、進歩史観による戦前批判とエリート民主主義が形を変えて、こっそりとネタにされた。
それは、実質的に放棄された戦後的「社会の木鐸」「不偏不党」(排他的に寡占的に僭称できるシステムは特権の一種)の看板を掲げたまま、GHQに付与された特権を利用温存し、グローバル資本制推進の最先頭での旗振り、国民洗脳によって己の資本価値と政治価値を高めるための、この時代への理論論武装?である。
小沢さんへの特捜検察の弾圧に際して、重要情報を得て、国民洗脳の地ならしの最先頭に立ったのは読売であり、コレは読売がCIA新聞と云うだけではない。
グローバル資本制の最先頭の推進者だから、読売CIA新聞なのか、CIA新聞だから、グローバル資本制の走狗なのか。
特に民衆の政治的役割が増大している戦後に置いて、歴史総括をエリート責任論に集約したら、危機の状況に置いて、民衆を戦前と同じく、衆愚視し、自分の政治的管制高地を最大限駆使して、自分たちの意図する政治方向にコントロールする洗脳政治が必然化する。
まさに今読売がやっていること、目指す事がコレである。
庶民ぶった仕草をするが、橋下徹等の政治本質もコレとピッタリと一致する。
しかし、コントロールしようとする、コレ等に善政、合理的政策方向の保障が何処にあるのか?
もうこれが一番の問題点である。
今目の前にいる、これ等に本当にそれでいいのか、と厳しく吟味すれば、深みのある政治思想、合理的政策方向の欠如が目立ち過ぎる。
>橋下のいう「大阪都構想」など、政治混乱混迷を巻き起こし、資金と労力、時間のロスを伴うだけである。
デフレによる大阪の長期低迷が深まるばかりである。鞭うって経済発展が可能ならば、誰だってそうするし、現にやってきて効果が真逆だった。
絶対に修正できない大阪経済の経済飽和状態に基づく<歴史的低迷>を行政統治機構をいじってナントカできるような大法螺を吹いている。
その頃から、かつての栄光は失われてつつあったのだ。
日本経済の象徴の様な経済飽和状態の大阪経済に対してできる対処法は限られており、行政の長はジタバタ余計な事をしないで合理的政策を地道にやっていくことでり、その一環としての改革であるが、橋下のやっていることはその真逆の大法螺から出発している。
最初のボタンがとんでもなくかけ違えている。
>知事時代、埋立て地の高層ビルを大阪市から買い込んで失敗したのと同じ手法を大阪全体に拡大し、今度は全国化しようと画策している。
橋下は耐震性不備に問題を逸らしているが、交通アクセスの全く不備な辺鄙な埋め立て地に府庁機能を移転しようなどと云う発想が根本的に現実離れしている。
利用者や職員の不便、経済的不合理に想いも及ばないという馬鹿殿ぶりである。
移転によって、ガラガラの辺鄙な埋め立て地が繁栄するなどと云う言い草は妄想の範囲を出ない。
石原の東京オリンピック招致運動と同じ地平である。要はムード政治。
ちなみに、大阪都構想もこの明らかな失政から、目をそらす為にブチあげられてとも云われている。
しかし、その時々でマスコミ受けするアドバルーンを打ち上げられる軽薄さが全国政治に影響を及ぼすとどうなるか?
口先達者で感覚政治で全国政治が翻弄されては、日本と日本国民の悲劇である。
橋下の存在自体が、問題なのであって、政策や口先はまともに相手にするモノでない。
>しかし、危機的時代背景の中では政治や経済が内外で合理的判断の主導の下、進行する訳がなく、ある限界点に達すると、複雑な絡み合い、リアルな力学において、制御不能状態で暴走するのも事実。
やがて、橋下と読売は合体し、橋下の大衆的宣伝基盤は事実上、読売になる。
その場合、読売はエリート層?の政治責任を持って、暴走をリアルに押しとどめることができる資質はない。
憲法「改正?」草案など余計な大ごとの策動はいいから、己の政治的役割をその程度に収めては、どうなのか?
内務官僚上がりの正力松太郎の主導の下、刺激的な戦局報道の最先端を行くことによって、二流新聞から急激に発行部数を増大させた。戦前はまさしく、商売第一主義と分を弁えない出しゃばった事をしてきたから、結果的に国民意識をオカシナ方向に煽動していった。
読売の今、実際にやっていることは戦前と同じ様な位相にある。
警察官僚時代の正力松太郎が関東大震災のドサクサに紛れて、大正デモクラシーを支える実体を葬り去ろうと実際に画策実行したが、余りのエゲツナサニ立場が危うくなるや、新聞経営権を手に入れて、軍部の立場と刺激的戦局報道をいち早く鮮明し、商売と戦争国策推進を両立させ、大躍進した様に、
今の読売はグローバル資本制の世界的展開と国内における市場原理主義の隅々までの浸透に率先し、自他共に認める旗振り役を任じている。
この手の込んだ作業をすると云う意味では確かに読売は戦前から進歩した。
一連の激変する政治過程と今の日本の経済政治状況に時代を経た親近性が余りにも強過ぎる。
さらに、この時代、一貫して検察トップとして、大逆事件、帝人汚職事件を画策し、民衆政治への反感と文武の官僚政治の台頭を目的として、政治に強烈に関与してきた<政治検察の走り>とでも云うべき平沼リンジロウの存在まであるのだから、時代は違っても、歴史的事物の骨格の相似性はあまりにも強過ぎる。
ちなみに、平沼は現、「立ち上がれ日本」の平沼の養父である。
しかし、戦前の統治機構やマスコミがどうこうとだけ、指摘しても片手落ちであり、今の自主的判断材料としてリアル性に欠ける。
それを、受け入れた?当時の多数国民にも現時点であればこそ、想いを馳せる必要がある。
酷い奴らに騙されていたとか、日本は封建的であり、教育が足りなく仕方がなかったという一般論歴史論の以前に、今だからこそ、別の観点で最低限できることがある。
>少しは今の自分の現状認識を疑ってみる必要があるまいか。
言い換えると、単純な職業経験、倫理、生活感情のレベルでは推し量れない複雑な事態、情勢が目の前にあり進行中だと、肝に銘じておく必要がある、と想う。
自分の知らないことが一杯世の中にはあると謙虚さ持てば、意見もフレキシブルになり、より深く知ろうという興味の原動力となる。
中途半端な意見、何処かで聴きかじったり、接した意見、偏った職業的経験を絶対化して政治家と政治状況を断定する人が多過ぎる。
>好きなラジオ番組のキャスター?に葬儀屋さんがいた。
仕事柄、細やかな神経、それを口で表現する丁寧な話術の持ち主。
しゃべっている内容のほとんどが自分の経営する葬儀会社の内輪の心遣いの話で、人間の死、家族友人、宗教を扱う特殊な世界だから、生きる事、人間一般に通じる普遍性を持っている、と感じていた。
が、このヒトが橋下徹のとんでもない礼賛から、珍しく政治観を語った時、私の気持ちは一気に萎えていった。
これぞまさしく、絵に描いた様なファシスト支持の大衆心理そのもである。
理性の留め金が外れている、客観情勢の分析、批判精神の欠如と政治家個人の力量への素朴な過信がそこにある。
その時代に生きていなくても、東西のモノの本にはその動態が繰り返しリアルに描かれている。
この方の語る日常の業務を通じ、一般に伝えようとする心の在り方問題はあくまでも職業的範囲を超えるモノでない。特殊職業がそれを超える何かがあるように錯覚させた。
おそらくこのヒトの下で働く人は大変であり、窮屈な思いをし、彼の範疇にいるヒトだけが会社で存在を許される。
女性社員ばっかりだというが、従順さを言葉は柔らかいが、絶対的に要求している彼の姿勢からは、当然のこと。
しかし、中止小零細企業、葬儀社という特殊世界ではそれでもいいが、大所の世界では社員を細かく縛るその姿勢ではとても通用しそうにない。
尤も新興企業や特定業種にあのような企業風土は多数見受けられるが。
想えばこのヒトと橋下との強固に繋げる処は「類は友を呼ぶに」尽きる。
全国にああいう人は、大なり小なり沢山いる。
>橋下の様な大の裾野に小が結集して<集合した大いなる不善>をなす。
そして何よりも、やっぱり、橋下的独裁は不合理、極まりないと、古今東西の歴史が教えている。
広い世界に当てはめると、急速に組織の活性力を低下させ、国民に惨禍をもたらしてきたのである。
橋下と維新八策とやらに全国民が鉄槌を下して欲しいと願う。
<追記>
大震災、原発事故に関しては、この記事の抹消した前振りで、特異な庶民の猥雑世界の視点から、書いたつもりでしたが、ブログ制限5000字制限のため、すべて削除しました。
私が以前書いたドイツの1920年代後半の学生の自然回帰運動ワンダフォーゲルとナチス運動の結合の話は深い意味で参考になると想う。