反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第一回。村上春樹。古からの体制からの逃亡者としての日本的自由人による文学世界の必死の構築=隠者系文学の日本的活力継承と現代的「文学」衰退。

  柄にもなく文学とは何か?を最近考えることがある。小説を読む機会が増えた性もある。明確な答えが出なかった。
 文学の<文>を文武の<文>としたら、朝鮮歴史においては、王朝官僚制度における両班貴族のうち、武班貴族に対して主導権を握った文班貴族の文であり、それは儒教思想と硬く結びついており、支配制度化もされている。
(現在の北朝鮮の硬直保守体制の現状もこの角度から見渡すと別な理解が可能)
 
 その朝鮮王朝の模範とした中国専制国家体制における、文班支配の実態はもっと高度化洗練化され、思想的中身もある。
 そういう両国の歴史と伝統は、ヨーロッパ史から隔絶され独自発展した<文>の歴史と伝統は確かのものとして、存在してきたのである。
(以前の記事でkim hangの「帝国のイリ」を高評価したが、現在の日本の論者にホッブスから丸山真男石川啄木坂口安吾小林秀雄までの日本政治思想史における重要人物を網羅した鋭い問題意識を持続させて、書けるものが果たして何人いるか?しかも大学院の博士請求論文であり、日本語で書かれている。同じ韓国人であっても在日の姜尚中さんはたまねぎの皮むき状態。
 
 日本の場合どうか?
ユーラシアの東アジアの<文>の歴史と伝統は支配体制、支配イデオロギーとして、乏しかった、といえる。
日本では<文>の支配体制である朝廷貴族層を中核とし有力寺社との権門体制は平安末期の武班、平氏のち台頭から、源氏鎌倉武班政権へと、京の寺社朝廷旧勢力との二重権力状態を通じて、応仁の乱に始まる戦国時代の150年に及ぶ日本の偉大な内乱内戦によって、一掃された。
 
1)その結果、確立した<武>の地方分権と中央集権制の日本的封建統一体制の内にはらむ矛盾の内発的激化こそが、
 
2)欧米列強の植民地支配的介入を梃子として幕末の内戦から、
 
3)明治維新と称される古代<文>支配体制を絶対支配体制のイデオロギーに祭り上げた
近代化、欧米化、近代国家建設へと結びついた。
 
 以上のような大きな日本史、東アジア史の確認から、
グーグルの次のような説明をみる。
 
「今日のような言葉による審美的な創作を意味するようになったのはlittérature, literatureの訳語として「文学」が当てられた明治時代からである。」
 
 <文>班支配の伝統が<武>の支配によって、中世末期には一掃され、<文>班支配のイデオロギーの独自発展がなかったから、
欧米化、近代的国家建設とともに翻訳語として<文学>概念を導入せざるえなかったのだ。
文班支配主流の東アジアの例外として、日本では<文>の支配体制である朝廷支配は早々と蔑ろになり、やがて一掃されて、<文>が<文>と体制的に保障され独自に発展してこなかった。
<文学>という翻訳語にはキッチリとした歴史的背景は乏しかった。
 
 この日本的武力支配の強化過程=日本的封建の完成過程という社会条件が、西行(1118年~1190年)に始まり、
鴨長明(1155年~1226年)-
吉田兼好(1283年~1351年)ー
松尾芭蕉(1644年~1694年)ー
井原西鶴(1642年~1694年。粋狂を徹底させた。その意味で系列に含める)の彷徨と求道の日本独自の文学の偉大な継承を生み出した。
彼らは全部、<武>支配強化のエスタブリッシュメントからの解脱を志向することで、独創性のある日本的境地に到達した。
日本の<独創的>な<文>はそういう立場、境地に達しなければ、獲得できなかった。
 
 時間不足から結論を言えば、村上春樹は全地球一体化にふさわしく、彷徨実態が日本を超えているだけで、日本独特の隠者系の文学の伝統を本人が意識するしないにかかわらず、同じパターンを今日風に再現しているのである。
そこに「求道精神」がなければ、バブル時代に日本を出たまま、夫婦で海外生活を送れまい。
いやなこともあったし、楽しいこともあったと「遠い太鼓」で語り、アテネラソン42キロを3時間45分で完走するくらいだから、ただの文を求めての彷徨ではなく、体を鍛えつつの求道の側面もある、とあえて理解したい。
 
 西行に始まる日本文学の系列には、日本的行為と<文>の懸命の自覚的統一があったのであり、村上春樹はその現代版であると云う見方もできる。
 
そういう意味で、作品の中身はさておいて、高く評価する。
紀行文は松尾芭蕉の旅先で読んだ俳句のような次元のものと敢えて解釈する。
省略の妙と適切抜群の表現力がある。
しかし、その意味で。紀行文としての物足りなさがある。
それはあくまでも彼の世界の表現するため風景風俗がチョイスされている。
 <以上の問題意識の掘り下げは次回に回す> 隠者系文学者たちは芭蕉を筆頭に凄まじい行動者でもある。
 
 >明治日本の<文>と、学問の<学>を融合した文学なる翻訳語の創出から、
グーグルにある<言葉における審美的な創作>という曖昧な規定が生まれる。
 
この規定を字句通り受け止めると、文学とは究極のところ、個々人の嗜好のあり方に委ねられるのではないか?<言葉における審美的な創作>に対して、普遍的あるいは統一的価値判断の基準はあるのかないのかの問題に行き着く。
 
 先回りして言えば、
なんとなく難しくて高尚そうな中身があって、売れていれば、高い評価を得られる可能性が高い。
武の支配の歴史から文が蔑ろにされてきた日本では特にその傾向に陥りやすい。
 
 村上春樹は現状、世界中に多くのファンを持っているとしても、火がついたのは「ノルゥエーの森」400万部の日本からだ。
欧米人でない日本人、村上春樹アメリカタッチな世界を巧妙に描き挙げているところに世界中で人気になっている側面もある。
 
 が、本家本元の土着性は描ききれないから、足元の日本からは「村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパッっと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。」(グーグルの論者)評価と反発が上がってくる。
 
 「詐欺に会ったような気がする」「うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか。」
この論者の文学評価の尺度は私と同じように日本も含めた東西の過去の「文学」作品が念頭にある。
 尺度は決して、今の文学作品にはなく、そうであるからこそ、大ベストセラー作家村上春樹に反発する。
そんなに売れる程の根拠が中身にあるのか、と。
 
 こういう評論の導入部分は始原的批判精神としても、バランス感覚としても、間違っていない。まっとうなものである。それに対する反論があり、論争が沸き起こったのもいいことである。
問題は論争対象の如何にあるが。
 
 村上春樹NHKラジオ放映の「遠い太鼓」のギリシャ紀行文は、私にはうなずけるものがある。
が、紀行文として、対象への突込みが足りないが、その視点を持てば、村上春樹村上春樹でなくなり、ただの紀行文になる。
 
 >が、冒頭だけで読書放棄せざる得なかった小説はまったく読む気がしない。
関心のない世界と材料の提示である。
 
 村上が「IQ84」を創造するに際して参考にしたというオウム真理教の世界に人間原理に到達する思想と政治があるとは想わない。あれは人間存在の実態から大きく遊離したカルトの世界である。
もっと云えば、連合赤軍は思想と政治の対象とはなりえない。
「 」付内ゲバから生み出されるものは心と思想と政治の荒廃だった。
 そういう世界にいたモノは実感しているのではないか。
究極には命がけであるにもかかわらず、無残に何もない世界だ。
だから文学的に取り上げると、抽象化するか戯画化するかしかなく、過去のその種の作品は全部このパターンにはまっている。
 
上小説はこの系列を継承するものであり、高度に加工して小説化している。
「平和に飽き」、「高度情報化社会」の情報と商品の氾濫にどっぷりと身を浸かっているモノの、自らは絶対に傷つかない立場に立つものの、お手軽なキッチュ趣味覗き見趣味である。あえて言えば、読み手も書き手もその精神の本質は劣情にある。
難解高尚を装った小説を読むことで実は自らの劣情を満足させているのだ。
一旦、こういった「変態世界」を現実と切断した観念の住処とするものを手なずけるのは方法論として比較的簡単な作業である。後は作家としてのテクニックの問題に絞られる。
精神クリニックの医者みたいなものである。病人と医者の関係である。
 
 >あれこれ考えを巡らしている内に、結局、現在の文学に対する価値判断の基準は、好みの問題に過ぎないのではないかと言う地点に行き着いた。
 
 グーグルに載っているある論者のように「うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか」と言う程、文学に対する知識も価値判断能力もないが、もう世界的に見て、文学が独自領域で屹立する時代環境はなくなっていると、漠然と想う。この云わば、時代背景があって、村上春樹が世界中で売れる。
 
 
 煎じ詰めて云えば、世界的に見て、文学評価の現在的統一な価値基準は喪失の時代である。
 
 当たり前である。
現代文学が文学として屹立していなければ、それに対する評論は、一定の現在の価値基準によって評価されようない。
 
 現在の映画が壁にぶつかって暗礁に乗り上げているとしたら、昔のような喧々諤々の活発な映画評論がなくなったのと同様である。
文学の市場の場合は、もっと状況は悪化している。全体がヒドイから村上が突出する。一定の尺度を基準として、評価されたモノでなく、衰退市場における相対的な突出なのである。春樹一点集中である。
 
 発行部数と中身は決してシンクロしない。
 
 そして、文学と称する領域では、活字という狭い限定表現手段を用いているので
そこから生まれる想像力も限定性を帯びざる得ず、価値は特定され易い傾向にある。
 
 ということは読者が、過去をリアルタイムで再生し、過去を基準に現在の作品の価値を判断できる。
そこで「文学って、そういうものか」という感想が可能となる。
過去から現在への思念上の自由な羽ばたきができるのが文学である。
文学の領域は表現手段が狭いが故に一定の価値判断の尺度の成立が可能だし、古今東西に羽ばたける自由もある。
 
 尤も、村上春樹ドストエフスキーで裁断しようとは想わないが、彼の作品は口実筆記に頼って、作品を仕上げたものが多いし、その意味で文章自体は分り易いが主題は難解である。村上と同じくメソッドである。
 
しかし、ドストエフスキーのテーマは現代人には難解でも、当時のロシアのインテリゲンチャにとって切実な問題であって、読書会の流行にもマッチしていた。
 
 だとすれば、村上春樹ドストエフスキーを強引に比較してもかまわない。
少なくとも、村上春樹を過去の名作と比較することはできる。
 
 だから繰り返しになるが「コレって文学なのか」という率直な疑問がわいてくる評論家がいるし、私のようなものは小説として読むのを断念する。
村上春樹患者にならない理由はあった。 
>心に度し難いモノを抱える者は進んで病院にいかないものである。
村上春樹センセイに通う患者さんは癒しクリニックに通っているようなもの。
NHKラジオで、香山リカセンセイが女の子?相手の毎週癒し相談を可愛い声で丁寧にやってくれている。
世界には悲惨非情残酷不条理矛盾が満ち溢れている。
であるが故に、前進もある。