反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢一郎。 溺れた犬は叩かねばならない。

 前回の記事で「雉も鳴かずば撃たれまい」と小沢を例えた。
小沢には自分が主張している内容に自分を処し、現実化するだけの力がなかった。また政治内容自体に問題があった。
 実際のところ彼の軌跡はフォローしていない。関心がなかった政治家である。日本改造論も読んだが、当時はやりのレーガン、サチャー路線の日本への焼き直しにしか見えなかった。
 先進資本主義の行き詰まりを権力を持っている資本が上から資本蓄積の好条件を作り出す一貫した政策としか見えなかった。戦後形成された資本と労働の関係は強権的に政府によって突き崩された。
小沢の「日本改造論」もそれに連なる書である。当時中曽根が国鉄の分割民営化を推し進めている事と軌を一にする論調と見ていた。
 
 自衛隊国連待機軍構想はデタラメである。国民の政治の延長である軍事を小沢のように機能的に扱ってよいわけがない。こんな事をやっている国は日本以外にない。 日本は安保理の理事国にさえなっていないのに、どうして自衛隊を形式的ではあっても分割しその指揮下に置かなければならないのか。理解に苦しむ。小沢理論が現実化していたら自衛隊は今頃アフガンで戦闘に従事しているだろう。これは国民騙しの姑息な改憲論である。それならば日本国民は時間をかけてもいいから憲法論議をした方が納得する。小沢理論は誤魔化しである。
 
 二大政党制もおかしな議論である。日本には日本の事情がある。無理に当てはめる必要はないし、それをやれば、失われる民意が余りにも大きすぎ、日本人のいい意味での政治力の源泉が死んでしまう。
 
 もともと自民党離党の経緯そのものを評価していなかった。単純に派内闘争に敗れ、掟破りのように党を割ってしまった、としか評価しなかった。
 
細川連立政権は、こうした小沢の蠢きが基底にあると考えていたので、何が起こっているのかも興味がなかった。
その後の小沢の軌跡になると全く視野に行っていなかった。ただ自自公政権としての自民党との癒着は押えている。
 
 民主党結成も全く関心がないというより、疑問に思っていた。
日本を変えるだけの政治勢力の結集とは考えなかった。
 自分にとって政治はもっと身近な日常のものであった。
 
 小沢が代表になってからの民主党自民党との対決姿勢を明確にしていたから支持するようになった。
だから、これ以後小沢を限定的に支持していた。民主党や小沢は自民党と戦っている以上支持する、これ以上でも以下でもなかった。
小沢への厳しい批判者でなかったモノが批判者に変身せざるえないのは小沢やその支持者の余りの偏狭な政治に怒りを持ったが故もある。たぶん小沢の一貫した政敵もこうした過程で生み出された公算が大きいい。 
元々疑いの目で見ていた小沢に疑問が決定的になったのは民主党政権獲得後の小沢及びその支持者の派閥的な独りよがりの言論、行動に怒りを覚えたからだ。
 
 自民党や旧勢力と戦えるモノは支持するが戦えないモノは支持しない。小沢は戦えないから支持しないばかりか、追い詰められて自民党やその亜流と理由をつけて野合する方向に踏み出す以外にないと思うから、厳しい批判が必要と考えている。
 
 もともと資本制の政権に多くを期待していない。いつも厳しい目で見つめている。少しだけの前進でよいと常に考えている。
共産や社民は古い政治勢力だとの認識があり、厳しい認識を持っている。
 
 小沢の役割は終えたとみている。一番日本国民にとっていいのは政界排除だと思う。絶対に許してはならない。そうしないと政界混乱の源となる。内外で日本の置かれた状況では政治の混乱が一番いけない。
その一番いけない事を起こす根源に小沢がなる。今こそ溺れた犬は叩かねばならない。