反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢一郎は特捜検察との戦いに敗北して転落の道を歩んだ。

          <小沢と検察の戦い>    < 政治とカネ>
小沢は結局、この戦いに敗れ、党内で後退していった。もう一つは「政治とカネ」について国民に説明の機会を自分から特別に作れなかった。
どちらも、小沢は乗り越える事ができなかった。必然であった。
 
 前者について書こう。
いつか当ブログで村木厚労省幹部のデッチ上げ冤罪について記事にしていた時、コメントがあった。
やっていないのならやっていないと検事の前で主張すればいいだけのこと。というコメントがあった。解ってないな~、というのが正直な感想だった。
 身柄が拘束されての取り調べで特捜が予め筋書きを持って臨む時、否認することでさえ、大変なことである、この事がさっぱり解ってない。検事調書に署名してしまって、裁判になって自白を覆す場合が実に多い。だから村木さんは頑張った。その結果として今では無罪が確定的になっている。ところが村木さんが検事証書に署名したと仮定したら、どうなっていただろう。実行者の検事側証人として出廷した係長の検事調書の否定はなかったかもしれないし、村木さんの上司の証言もなかったかもしれない。
 だから、この事件で村木さんの否認が裁判では決定的に有利に作用した。
 しかし、コメントにある様に村木さんは事実として検事の前で真実を語っただけである。
 
前置きが長くなった。
 では小沢関連の東京地検特捜部の取り調べで村木さんの様な検事を前にした「闘い」だけで足りるのかどうか。
やってないことはやってないというだけで、1月中旬の石川議員他2名の戦いは通用しなかった。
ここに一切が集約されていた。
 石川氏等は村木さんレベルの対応しか地検特捜にできなかったがゆえに敗れてしまった。
もうワンランク上の戦い、完全黙秘の権利を行使しない事には戦い切れなかった。
 
5000万円がどうのこうのをやってないと突っぱねることはできても、記載ずれ事実は認めてしまっている。これは彼らが村木さんレベルの対応しか念頭に置かなかったため、認めたとしか言いようがない。
黙っていれば、期ずれ程度の事も裁判では微妙な判定になっていく要素もあったし、小沢氏への飛び火も防げたであろう。小沢氏は期ずれ事実への関与で検察審査会に起訴相当とされているのである。
 この場合、期ずれ確認の検察作成調書に小沢関与をにおわす文言があったと理解するのが順当なところである。ただしその文言だけで検察は起訴に持ち込む事は出来ないと見ていた。事情聴取の小沢発言も文言を強化するモノでなかった。しかし、検察は審査会を視野に入れて、石川氏等に期ずれ事実の承認を迫ったことは間違いないであろう。
 
 従って、あの取り調べにおいてはやってないことはやってない、というだけでは戦えなかったのである。検察は5千万の賄賂の線が崩れた際には期ずれで起訴に持ち込む事をあらかじめ想定して、わざわざ期ずれを持ちこんでだのである。このため大久保氏は前年、春には記載担当者として問題にされなかった期ずれを今年に問題にされた。このため大久保西松裁判で期ずれが争われる変則事態になっている。
 
小沢側には検察と戦う正念場を乗り切る思想はなかった。完全黙秘の線を打ち出せるのは思想以外の何物でもない。弱い立場の者が自分を守り、関係者を守るためにとり得る手段は黙秘しかない。これは権利であり、権利は行使して初めて権利である。
 小沢氏にはこういう弱さが常に付きまとっているようである。彼は自分が言っている事を実行するときにはそれなりの自分に対する厳しさがなければ局面を乗り切る事ができない、と心底解ってないのではないか。
 
彼の方向を進めば国家権力が行く手を妨害してくるということは自明であるにかかわらず、実に対応が甘い。これでは必ずやられる。確かに襲いかかる国家権力は許せない。しかしこれと戦うためにはそれなりの内実がなければならないが小沢にはほとんどなかった。保守政治家としての決定的限界である。
 
 確かに「雉も鳴かずば撃たれまい!」 しかし、小沢氏の対応を見ているとこのことわざ以上のモノは彼の側に一切見当たらなかった。だから彼は水が高いところから低いところに流れて行くように敗北したのである。
 また事件そのものが大した事件でもない。マスコミが大騒ぎしていただけで、小沢に大きな権威があるから大袈裟な事のように扱われていただけで、当事者として冷静であれば十分開き直れるぐらいの心の余裕は生まれていたはずだ。それも見ていてなかったようだ。
 
 小沢支持者を自称する者は目を閉じ、耳をふさぎ、こうした一連の事態から当然くみ取れる小沢氏の限界を無視し、相変わらず、小沢一郎万能論にすがりついているとしか見えない。
ただ、それだけの事なら実害はない。政治的趣味の領域の事である。
だが、小沢の過去の傾向をたどれば、こうした政治的後退の次に来るのは党への分裂行動とその挙句の果ての自自公政権の様な長期政権の補完勢力へと理由をつけて変身していくことである。
 このような道筋は小沢単独の指向もあるが支持者の狭い政治理解と共鳴するところがあるとみている。
だから、徹底的にこの時期小沢批判を繰り返す価値があると思っているのだ。この政治家はもう日本の政治には一切必要でないと。これからの政治混乱のもとになるだけである。