マスコミは小沢強制起訴を議決したどこからどのようにして集められてきたか定かでない平均年齢30歳の若者たちの評決に疑問を抱かせない、報道を繰り返している。多くの国民が疑問に思っている、その疑問を代表するのが若者の議決である、という論法である。
多額の政治資金で土地を買っているからけしからん、小沢は政治活動を隠れ蓑に私腹を肥やしいるとか、カネで政治を動かしているとんでもない悪い奴、だいたいこんな漠然とした小沢=悪のイメージがマスコミから土石流のように国民のところに押し寄せてきて、その結果、国民意識には土石流の大きな痕跡が残ったままだ。
過去の政治家がらみや諸々の特捜検察の扱う事案に対しては、マスコミはこうした一方向の報道を国民の上に降り注いできた。それによって特捜検察の書いた筋書きで逮捕され、被告とされた者はマスコミ報道によって起訴されたこと=犯罪者の様な扱いを受け、社会的に葬られてきた。
2~3の典型例などにとどまらない、多くの冤罪事件が含まれている。
朝日新聞のコラム、天声人語は「村木さんは無罪裁判が下り、検察が控訴を断念し、職場復帰に至る間、1年数か月に渡って、公務員規定によって休職扱いになっていたのだから、小沢氏も休職せよ」などと、虚けた事を平気で書いている。
そこには何の罪もなのに突然逮捕、拘留され、裁判に多大な犠牲を払わざるえなかった村木さんの境遇に想いを巡らせる、想像力が完全に欠如している。国家権力の暴力によって、生身の人間が痛めつけられ、必至で抵抗してきた空間と時間への想いは全くない。
自分たちは安逸な立場に立って、村木犯罪報道を繰り返してきた反省はない。特捜検察の理不尽な国家暴力の行使への怒り、今後への警戒感、反省はなく、其れをあたかも突然降ってわいた天災のように捉えている。
こんな弛緩した、特権的立場には国家暴力にさらされた者の立場への理解はなく、国家暴力を行使する側に立って、逮捕者を吟味するという、事の出発点から、冤罪加担、拡大体質が内包されている。
天声人語は「お白州の前で裁きを受ける前に云々」と封建時代感覚を丸出しにして恥じないようだが、この記事を書いたモノ自身がその「お白州」と同じ立場に立って、小沢氏を見下している。一体何様のつもりなんだろうか? 日本の民主主義っていったい何なんだろう?
ペンの暴力、映像の暴力、声の暴力が今後ともこういう体質からは際限なく生み出されていくしかない。
このようなモノどもと戦うためには、キチンとした思想的根拠が必要である。
こういう事を今さら書くのは気の毒だが、小沢秘書の石川議員にはそれが欠如していたといわざるえない。彼の逮捕前後、ブログで応援していたが、あれではマズイと考えた。
決定的場面で彼は動揺が激しすぎる。どうしてそうなるのかを、陣営がとらえ返す必要があると、私は想って、某サイトに投稿していたが、そのサイトの常連の多くの小沢熱烈支持者は、この指摘を小沢攻撃とだけしか受け取っていないようだった。ただし、面と向かっての反論は少なかった。
今そのサイトの中心的な熱烈支持者からは、陣営に対する反省を求める意見がたびたび繰り返されている。
やはり前に進むには総括、反省も必要。
1)私選弁護士に問題はないのか? 2)今回の検察審査会の議決文に検察が小沢氏を不起訴にした記載ずれ案件以外のモノが混入されている。もちろんこれはこれらの案件での小沢氏起訴は問題外として対象にされなかった案件である。
3)これは、、マスコミがはやらせた、小沢疑惑の適法性のない手法であり、弁護側はこの点の違法性を告発すべきである。
>私も賛成するが、1)の件は微妙な判断である。
この裁判を今後の日本の政治過程を考慮し、どのように位置づけるのか?の根本問題が横たわっている。
いいかえると、小沢氏自らが今後の政治活動の目的をどこに置くかの問題である。
宮崎学氏の推薦する様な弁護士に変えた場合、この「裁判」は日本の民主主義をも問いなおす裁判になるだろう。
私見では小沢氏は公判を自分の政治活動の重要な一環として位置付けた方がいい。
>日本国民は体制順応傾向が非常に強い。
そのような精神風土に特捜検察の様な国権の乱用、マスコミの一斉、一方向記事が降り注いだらどうなるか?
多くの国民が宣伝扇動に踊らされて、自分の立ち位置を見失ってしまう。
このような傾向が、小泉政治以来、制度化さえされている。
小沢裁判はそのような傾向へのチャレンジの場となるしかない、と考える。
<日本国憲法の問題点>
私の関心は、これも以前、取り上げている様に、
A) <日本国憲法の全体の構成の問題> B) <1~8条と第9条の関連と問題点>である。
A) 真っ先に天皇条項を持ってきたことへの疑問。
そもそも、世界の中で天皇=英訳ではエンペラーを名乗っているモノがいる国は日本ぐらい。あとは全部、国王=キング。
日本と同じ、王室を抱える、イギリスでは日本の憲法に当たるモノは存在しなくて、王室を規定する法律や様々な法律は独自に存在している。
それに続いていきなり、1条から8条までの天皇条項。
修正第一条はは言論、出版の自由である。
得て勝手な日本側の憲法解釈にこそ問題点がある。
9条を守るという事は象徴といえども天皇制を守ることであり、もっと突き詰めると、戦前の継続を認めることに行きついてしまう。なぜなら、戦後憲法も戦前健保と同じく天皇規定から論述している。そこには天皇制を国家機関とする国体観が継続されている。
日本国民は天皇をシンボルとしてしか国民間の一体性を確認できないとしたら国家や政治に対してまともに向き合う姿勢が希薄にならざるえない。
いいかえると、国家と市民社会の緊張関係を生身のモノとできない。