昨日、ザ、ジャーナル主宰、高野さん批判をしていたら、もっと突っ込んでかかなくてはいけない重要なことに、途中で気付いた。この批判的観点は伊波洋一さんや諸々の東アジアの軍事的均衡論者にも適応できる。
私は当時、自分のブログを休止状態にして、ザジャーナルの常連投稿者の様な状態で論争に参加していた。
主宰者の高野さんの論説が全体をリードし、その筋の専門家の意見を交える形をとっていたので、投稿者の投稿文のレベルも相当なところにあった。
じっくりと全体を観察するとやはり高野さんの意見は年季も入っているし、知識量も豊富だから抜きんでているなと思った。彼は抽象的な平和論者でなく、政治軍事のリアリストだから、鳩山政権の対応を見据えながら、自分の当初の海外移転という理念の修正に想いっ切って舵を切って行くところが、私としては納得して支持した。鳩山政権とアメリカ政府とのこの問題に関する具体的な交渉過程を見据え、対マスコミ対野党、政権維持など多方面の枠内から配慮すれば、当然そういう結論しか導き出せない訳で、ある意味勇気ある論説と想った。
非難ごうごうの投稿者の論拠は感情論に終始するモノだった。尤もそれでもいいわけだけど、その先もある、という事が解っての主張とは思われなかった。
ところが、私としては、高野さんが海外移転の論拠をとして沖縄を中心とする米軍の東アジアだけに限らず、中東地域まで含めた世界戦略を説明していくところに、足元が抜けているなと、疑問に思っていたが、投稿文にすると、あそこでは相応しくない、軍事論の方向に行ってしまうので沈黙していた。
一言でいえば、沖縄海兵隊はブッシュ政権時代の米軍世界展開再編構想によって、在沖部隊は形式的に残すだけで日本にカネを出させて、グァムに移転する、辺野古残存海兵隊程度では戦力にもならないのに日本側の安保屋、公共事業を当て込んだモノどもが辺野古移転を主導した。
私はまず、こういう論拠を納得できなかった。
ただ、こういう論法から、ストレートに反米、反基地、安保破棄、にストレートに結び付けられるほど、戦後の日本資本主義の発展とアメリカ軍の実態関係は甘くない。
戦後の混乱期、日本資本主義の復興期、成長期における資本と労働、政府と野党の具体的闘争史をひも解くと日本の政官財の支配層と米軍駐留を核心とするアメリカとの関係は自民党一党支配もあって持ちつ持たれつの相互浸透の一体的関係を築いてきた。
日本支配層とは明らかに米軍駐留を前提、一体化したモノであり、米軍は自民党を中核し、官僚、財界の国民支配を前提、一体化して日本駐留している。
要約すれば、戦後日本の支配層とは象徴天皇制も含めて日米双方を股に掛ける支配機構を有している。
だから、安保条約の破棄は政権がアメリカに通告すれば可能とはあくまで条文を解釈したらそうなっているだけで、実際その行動に移ると抵抗は軍事面も含め、強烈なモノになるだろうから、実質的にそれを可能とする力は国民の本当の意味での革命しかあり得ない。
自衛隊は敗戦帝国主義としてのタガハメがされているが、れっきとした帝国主義国としての軍事力を保有している。この事実を直視しないのは日本人自身だけで、対外的には自衛隊は確かに英訳すると不自然だが、日本軍と理解されている。
高野さん、伊波さんに以上の様な認識がないのか、あっても表向きにできないのか知らないが、少なくとも、私の主張の一部ぐらいは語らなければ、国民は誤解したままになる。こういう事実のかなりの部分を伏せた論陣をいつまでも張っていては急展開する世界情勢についていけない様に成り、結局、日米同盟論者や軍拡論者の台頭を許す。
さらに現状や将来の世界情勢を考えると米軍世界展開再編は東アジアではあり得ない。高野さん伊波さんはあたかも米軍が後方に退くかの誤解を与える論法を展開している。
だから、自国の一番の世界に抜きんでている特徴である世界覇権を活用して経済後退をカバーしなければならない。
東アジアの情勢への米軍の積極関与、劇場型軍事紛争激発は不可避であり、それが日本や韓国の世論政府をアメリカ寄り締めあげることになることは彼らは重々承知している。
日本政府は駐留費の70%も負担してくれる。強盗に居場所、食い物まで与えてくれる日本からどうしてワザワザ後方に下がるのか。事実、グァム移転計画は財政難で延期されオバマ任期内の実行は不可能と今頃になって明らかにされている。ならば、鳩山首相の切羽詰まった期限を切った辺野古合意履行宣言、退陣は何だったのかとなる。日米を股に賭けた政治に翻弄され事態である。米軍の狙いはグァムを戦略拠点化するカネを出させてなおかつ、辺野古の大きな基地を確保したのである。
伊波さんの意見では米軍は出ていくようなニュアンスが出てしまう。平和幻想である
米経済、財政危機から米軍縮小の意見も含まれてる様だが、経済主義丸出しである。
経済財政危機=軍事力縮小の論理が正しいのなら、どうして世界は二度の世界戦争に至ったか?
経済学的にも過剰資本、過剰生産、過少消費が世界的にどうにもならないなら、戦争という大々的な非生産消費に向かう、そうすれば、遊休生産設備は稼働し、労働者は吸収される、そういう理屈がまともじゃないのか。
今現在アメリカが世界中で紛争の種を撒き散らしているのも、戦前から続いて無傷で残った産業と軍事の混淆体制が金融とともにアメリカの両輪になっており、その要求を満たすためという内発的な衝動を政府がいくら変わろうと、押えることができないからだ。GDP世界第二位だった日本が建設土木の異常な公共投資を結局減らせない様にアメリカの公共事業は戦争である。
最後に国民にとって軍事問題の出発点は口と国とのパワゲームの範疇を超えて、足元の国民一人ひとりの武装の問題として考えなければならない。
天皇制があったから市民革命は防げたというその筋の学者さんの見解に逆に真実がある。
日清戦争の様な列強時代の列強の後塵でしかない朝鮮植民地獲得戦争勝利に国民が沸き立ち、それによる過大な賠償金獲得で日本の国家の礎が築かれ、近代的国民国家が誕生したとすれば、そこにおける国民は近隣他民族を差別支配する帝国の国民として、反植民地、民族独立闘争の矢面に立つ歴史的宿命をこの時点で背負ったモノといえよう。
市民革命なき帝国の植民地支配は植民地人民のみならず、帝国国民にとっても過酷である。
日本の民間右翼運動は軍部台頭とともにこの時期、社会の前面に出て行った。
植民地にされた側にも憂国の士は出てくる。当たり前である。
明治「維新」は封建支配者で唯武装していた中下級武士が決起したモノであって、彼らに食糧、金品を供給する圧倒的住民は傍観者のままだった。明治維新後、一部に武装の決起はあったが鎮圧され、歴史上から抹殺された。
武器なき批判は奴隷の批判である。このテーマにそって日本史を再考してみる必要がある。
小沢さんは「政治とカネ」で騒がれているが、本当の問題は「政治と暴力」だ。
誰かさんがいう様な政権交代が革命なら、検察は小沢さんに手出しはできなかった。だから本質は実質的に国家暴力装置を握っているモノが自分たちの政治意図を実現するために小沢さんに国家暴力政治的に行使したのだ。
だから、問うモノは問うている。今現在国家権力を握っているのは誰だ!
この根幹をつかめば、この間の政治的事態は掌握できる。