反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

民主内紛を称して連合赤軍は漫画化。本当の党内内ゲバ実行党派の今を見よ!

訳も解ってない、第三者、弾圧の当事者からの発言が、民主内紛を称して、赤軍派だとか連赤だとか。
いい加減にしてほしい。
 怒りを持てt弾劾する!
 
 雉も鳴かずば撃たれまい!
鳴く雉を、国家暴力を背景を撃ったモノの発言が当たり前のように当事者から発言されていることを弾劾する。
 
 お前たちは、国家暴力、国家幻想を遺憾なく利用できる立場から、極々少数の国民にしか影響を及ぼさない武装を、あたかも大事件のようにでっち上げ、アパートローラ作戦などを用いて市民社会に恐怖感を蔓延させ、彼らの生活場を失わせ、市民から離反させ、最後は山岳地帯に追いつめ、瓦解させたモノである。
 
 その意味で連合赤軍事件を引き起こした共犯者はお前たちだ。何を言うか!
 
 その輩がのうのうと生きながらえ国会議員で高位の政治権力を納め好き勝手なことを言っている。
 
 国民新党、亀井の連合赤軍=民主管内閣発言は生粋の反民主主義、反革命分子の発言であり、民主内紛の本当の危機的事態を隠ぺいし、内紛を拡大し、利権癒着勢力に反対するモノの党的結集軸としての民主党を解体させんがための、明確な意図に貫かれた策動である。
 民主党をつぶす目的で内紛の事態をデタラメに一般受けするように漫画化している。
 
 亀井にとってしょせん、他人事であって、民主の政治力が激減したら、自分たちの出番が多くなる程度の問題に過ぎない。
 
 
本当に政権交代を望んでいたら、解党して合流すべきだろう。中で戦うのが筋。
 
それができないのはこうした政治混乱の中で政治生命を模索していた、と考えられる。
 
 民主内紛を連合赤軍の様に例える亀井、それに付和雷同する能無しどもは、己の不見識、政治反動を恥じよ!
 
 民主内紛は連合赤軍の痛ましい事態ではなく、社青同解放派の本当の意味での内ゲバ、悲惨事態、党勢力の撃滅に相当する。
 
 この党内闘争は今もって第三者には闇に包まれており、理解しがたい。
 
どうして、レーニンの党内運営の痛烈な批判者でもあったローザ、ルクセンブルグの様な戦闘的大衆民主主義を理論的出発点としたものが、真逆のスターリンの様な党内暴力の行使に至ったのか。
 
 やってる本人たちの周りが納得しない、そのまわりはもっと解らない、という連鎖の中で、この党派は急速に大衆的動員力を喪失していった。
 
 その最初の原因ははっきりしているのではないか。
 
党派間戦争に参戦する中で、軍事局面から、慣れないレーニン主義に党路線を転換したからだ。
 
ここに最初の大きな分裂がある。この党派の特徴である、戦闘的労働組合が分岐する。
 後はどうなったか知らない。
 
かけないような事態が発生している。心が真っ暗闇になる。
 
 内ゲバを戦争として、やってきた党派では、その種の党内闘争は指導部が回避する。
傍からどう言われようが、冷めている指導部が党内の異論に対するそう言いう対処は抑圧する。
 
 ところが、本当の内ゲバをやった党派は違っていたようだ。
 
 激烈な問題解決の最後のこ言葉としての暴力行使が内外に常態化し、最後は言葉もなくなって、過激暴力に代行された。
そういう政治の一貫した体現者が政治指導者になった。
 
 途中が全部省かれて、結論が急がれた。真の意味でも政治が死滅して、暴力の政治に代行された。
党の外でやっていることが、党内政治にに持ち込まれた。
全党が死線を踏み越えていまった。
 
 こうした政治的過程を言い表しそれに納得するモノだけが、附いていって、実際の党内暴力の肯定者、実行者となった。
世界がどうなっているとか、日本がどうとかは、自分たちの政治の狭い枠内の方便だった。
 
 彼らこそが本当の内ゲバの政治過程をリアルに知っているモノたちである。
人物的には知らないことはない。
人を巧妙に操作することが体質化しているようだ。狭い枠の中でも大衆的に不満が出る。真っ先に解っているモノが嫌になっているのだが我慢する。何処か病的だな、と感じる。最後は分裂しなければならなくなる。
 
 民主党の内紛はこれに相当する。
 
 超合法政党だから、暴力行使は一切ない。むしろもっと暴れてもいいのに粛々と行動している。元気のよかったころの自民党なら、熾烈な暴力沙汰だ。
 民主はその意味で大人しすぎるが、内ゲバに必要なことはやっている。
 
静かで大々的な不正、強制力、権限の行使はやれるだけやっている。
 
 であれば、亀裂は修復しがたく、党全体が沈没する。
民主AであろうがBであろうが、内ゲバを激烈行使した党は有能な活動家が離れていき、党の基盤とする大衆との結び付きが喪失する。
 民主の看板は大衆の怨嗟の的となる。相手にされなくなる。地方選の結果にとどまらない。
 
管らが小沢対立の政局を政治路線とし、片足を利権癒着層に早々と置いた参院選前で、自らが解党の道を歩んだのである。
 
 小沢氏らが党執行部としての管らに付き従うことは、憲政の常道としてできないのモノであり、その意味で民主主義の叫びを内包している。
 
 管らの大転換なるモノに、ハイそうですか、とつき従っていくとしたら、民主主義の原則はもうどうでもよくなる。
 
 戦後初の国民選択の政権交代だからこそ、ここでしっかりと踏ん張る、気概が発揮されているのだ。
 管らに反対する勢力が民主内に大きな政治勢力としてできることは、日本にとって現時点で最高に望ましいことだ。
 
 が、その戦いが、民主の内ゲバとして、現にあることは、本当は支持者大衆の問題である。
支持者大衆が、内ゲバやめろ!とかどちらかに軍配を上げなくてはならない。
 
 間違った管政権打倒は必至である。
そういうデタラメは許さない。
 
 が、今後とも「国民の生活が第一」を徹底すべきである。
このスローガンはグローバル資本制への全国民規模の反抗を政治的に集約している。
その全世界的総和を目指さなければならない。