反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

検察審査会起訴の福知山脱線事故裁判。論証に無理のある業務上過失致死罪に問われている元JR西日本社長は情緒裁判を受けている。

 時間不足のため、調査、論証に不備がある、と断っておきます。
福知山線脱線事故で当時のJR西日本社長を業務上過失致死罪に問えるのかどうか?
検察は起訴できないと判断したが、兵庫の検察審査会は起訴相当とした。
 
 私の記憶間違いでなければ、同審査会はずっと以前、甲山幼稚園児殺人事件で無罪判決の出ている保母さんを起訴相当とし、長年にわたる裁判にかけ、やっと無罪判決が下されたような惨いことをしている。
 私も彼女を救う署名簿に署名した記憶がある。
 
 検察役の弁護士は脱線現場のアールのキツイ線路に自動列車制御装置を付けなかった元社長の安全無視の会社経営があったから、脱線現場のアールのキツイ線路にATSが付けられなかった、と業務上過失致死傷の論証をしようとしている。
 
 Aという高い目標の結論を導き出すためには論証の数々は余りにも瑣末な事実しか示せていない。
物的証拠なんかあるわけがないから、例によって、捕まえてきて脅しつけて得た証言を決め手としているようだ。
 
 元社長が当時の元安全室長に新幹線の中で安全無視の発言をしたとか、の瑣末な供述証書をとって、それを法廷に提出しているわけだが、元室長は裁判で、それは検事に言わされたモノであって、元社長はそんな発言をするわけがないと、検察調書を否定している。
 実に幼稚なむき出しの安全無視発言で、常識的に考えて違和感がある。漫画的でさえある。
 
要するに検事役とすれば、この手の供述調書や業務上の安全対策の不備を積み重ねて論証していくしかない。
 
 そもそも、検察は法律の専門家としてそういう論証では業務上過失致死罪にたどり着けないから、不起訴としている。
 ところが、検察審査会の起訴の動機はそういう法的な枠の外にある、とみて間違いない。
 
多数が死傷した事故は最高責任者の会社経営の不備が問われなければならないと、これに尽きるのではないか。
 
 JR西日本の株価は高く、確か東日本を上回っている。大阪駅ビルの新築大工事をやったりして金儲け主義だ。
社内労務管理も分割民営化時代の紛争状態を引き継いでいる所が多いにある。
この元社長や幹部は無理な労務管理を強権で推し進めた最高責任者どもである。
その結果の事故であることも遠い原因であることは間違いがない。
列車運行ダイヤも素人の私から見ても、金儲け優先の様な気がする。
 そもそもJR在来線ののレール幅は私鉄よりも60~70CM狭い。なのに車両の軽量化が進んでいる。
脱線させる要因はたくさんある。
 
 が、それらを持って、社長を業務上過失致死罪に問うことはどうかということである。できないから検察は不起訴にした。
 
 今のままでは、検察審査会は検察が現法律に照らし合わせて起訴できなかった案件を情緒を動機に起訴に持ち込み、情緒、感情で判決を求める様なモノになっている。
 
 国民感情、空気を背景に検察役の弁護士が起訴に持ち込み、結果として国民感情を元に裁判官が判決を下さざる得ないような仕組みになっている。結果的に。
 
 裁判官が法律専門家としての視点でからはずれて、国民感情におもねった判決を下す可能性が仕組みとして出来上がっている。
 
 ならば、国民感情は一人ひとりの自立した市民の判断の総和か?という問題が普遍的に問われなければならない。
 マスコミの宣伝戦動力の浸透もある。国民は個々バラバラにされて情緒的になっている現状は、単に気持ちの在り方の問題ではなく、現代的な社会経済環境を基礎とするモノである。
 
 さらにトリックもある。
小沢起訴の検察審査会の在り方はどう見てもおかしい。なのにそれへの当たり前の疑いさえ、マスコミは封殺している。政治家も知らん顔だ。
 先頃の小沢党員権停止を最終決定した党倫理委員会メンバーは予め全員一致できるメンバーに差し替えられたものである。
 
 法非という言葉が中国にあった。
官僚制度とそのたくさんの手先が支配体制の支柱になって国民生活と経済が淀んで、遂には列強の手先、買弁層を生みだして行く。
 支配層の統治の要は国家暴力であることは間違いない。
だが、その根幹の周りは法が取り巻いて正当化している。法律に国民共同的な幻想を持たせて統治している。
できるだけ反発がなければ、法的に国民をがんじがらめにした方が統治しやすい。
だから、沢山の法律家に小さな正義を分配したい、その法律家を国民が当てにしてほしい。
 
 司法制度改革で司法試験に受かりやすくなって沢山の法律専門家が粗製乱造されている。
 
その一方で取り調べ可視化さえできていない。一部可視化なんてとんでもないことが検討されているらしい。
警察留置所に長期拘留しておいて、一方的な自白の強要。これが取り調べの基本パターンである。
 反抗するモノは、検察が未決で長期拘留し、釈放しない。
 
もう書きだしたらきりがないような、とんでもない制度が温存されている。
 
 法律は究極のところ、統治の道具であり、解釈の仕方によって、どうにでもなる。
法非は増えているのに、監視をきつくする制度がおろそかになってきている。
 
 現状の検察審査会などは検察がやろうとして法律に妨げられてやれなかったことを情緒、感情でやれる仕組みになっている。