反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

原発事故は単なる物的人的被害に留まらない深淵をポッカリと日本人に向けて開いている。

 中国は四川省地震の災害復旧に3年で目途を立てたそうだ。死者は7万人だったが、よく考えてみると、日本の人口は中国の10分の1。東日本大震災の人的物的被害がいかに大きかったか、想像できる。
計算上、今回の災害で数10万の方がなくなられていると換算できる。
 
 しかし、敢えて言えば、亡くなられた方々は帰ってこないが、物的損害はい是れ何とかなる。
 
 ところが、今回の地震によって原発事故を同じ個所で4機も引き起こし、其々が個別に深刻な事情を抱えており、あからさまにいえば、沈静化の目途が一切立っていない。
むしろ、時間の経過とともに、現場の事態は悪化し、人や環境への被害は広がって行く趨勢にある。
 このたび、政府東電の事故対策合同対策本部の初記者会見が行われたが、彼らは事故解決のカギを握るといって過言でない、「覚悟ある作業必要」に一切触れていない。触れられないであろう。
 踏み込んで言えば、彼らは会見で安全第一主義を貫き通す、と方ている一方で、この前発表した工程表の困難を排しての期限内の実施を謳っている。
この二つは現実には両立するモノではない。
 
 冷却系統構築に際しての犠牲的作業の不可避性は専門家ならだれでも解ることであり、指摘できる立場の人はそこがカギを握るといっている。
 
 多くの国民はそこまで知る必要がないと想っているのか、知らぬ顔をしているのか、この一点への注視はない。
 
 これが日本の現状とみているから、事態はなし崩し的にズルズルと時間の経過に任されると、たびたび指摘している。結局事態が悪化して、もっと酷くなって、どうにかするしかない。その時にはもっと大きな犠牲がいる。
 
 これが日本の現状なのだ。
戦後日本の統治の特徴、事なかれ主義、問題先送り、日和見主義が肝心なここに至って集約されているのだ。
 
 福島原発事故は単なる物的人的被害に留まらない深淵をポッカリト、日本人に向けて開いている。
 
 そこに国民全体が飲み込まれそうな事態である。
 マスコミがどう報じようと、これが福島原発事故現場の実態だ。 
 
 しかし、今現在の多くの日本人は事態の推移から本能的に目をそらしたい、知りたくない、考えたくない、いくらなんでも、何時かは国が何とかしてくれるだろうと、自分の日常生活に埋没しているようだ。
そういう心情に迎合してマスコミ報道がなされている、ともいえる。
 
真相を知りたい人もたくさんいる一方で、知りたくない人も実に多くいる。
これが実態ではないか。
 
この辺の意図的無関心、日和見主義、お上意識の日本人的あり様が独特、微妙なのである。
 
 マスコミが騒げば、それに扇動されて必需品買い占めの様に浮足立つが、マスコミが表向きは通常報道に帰れば、それに従う。
 
 経済力がついていると自称している割に、日本人の一部の政治への対応力は、それに相応しくない。敢えて言えば、飼いならされた家畜の様ではないか。
 
 そういう人がいるだけでは、大した問題にならないが、日本政治にとって不幸なことは、彼らが無党派浮動層として政治家の当落を握っていることだ。
日本政治の現状は結果的にそうなっている。
 
 実に情緒的、飽きっぽい、細部に拘る、結構真面目、几帳面である、木を見て森を見ないという性向を持つ人たちが、究極的にいえば、その政治家選択によって、日本政治の進むべき方向のカギを握っている。
 
 原発事故の深淵も含めた大災害を受けて、これからの新帝国主義時代の内外の困難な情勢に対して要を握るのは政治だが、そんな人たちが政治を左右できる日本という国が、真っ当な道を歩んでいけるとは到底思われない。
 
 それでも、政治家は多数を得なければ政治家でないから、彼らに狙いを定めて、パフォーマンスを繰り返すようになる。
 
 一見、解りやすいような敵を設定し、自分をそれとの戦いの第一人者と押し出し彼らの喝さいを得るためのコンセプトを編み出す。
 
 マスコミが常日頃視聴者、読者を煽っている手口を踏襲しているのでかなり巧妙であり、じっくり論理的に考えなければ、解らない論点が提出される。
 
 小泉純一郎がこの手法を日本で最初に採用したが、確かに現代におけるヒットラー的デマ政治は巧妙に深化している。
 
 年月が経過し、国民規模で被害が及ばなければ、その政治の実態が理解されない程、巧妙である。
 
 その痛みも時間がたてば、目の前の事態の進行に忘却の彼方になる。
 
 だからいつも書いている。
詐欺師に騙される人は何度でもだまされる!と。騙される人が少なければ詐欺師商売は成り立たないが、日本の政治分野の詐欺師はこれから大繁盛の時期を迎えている。
 
 また、一流の詐欺師は自分の付くウソを本気で信じ込める人たちだから、騙す人だまされる人たちの関係はメダルの裏表である。 
 
 小泉純一郎が終わって、ほとぼりが冷めたころ、また装いも新たに新「小泉純一郎」が登場する。
 
 ただ、一点、彼らの動向に共通点はある。
市場原理主義で結局は大資本の最大限利潤追求の最適環境をこの日本の隅々に生みだそうとしていることである。
 
 新自由主義なんて、呼称もあるが間違っている。彼らがやろうとしていることに、多数派国民の自由はない。
大企業と富裕層の好き勝手できる自由があるだけだ。
大資本、富裕層の手先が大衆面して、多数派国民を騙そうとしている。
 
 よく考えてみなければならない。
 
 金持ちが金持ちの生活をし、金持ちの意見を持つのは当たり前である。
貧乏人は金持ちの生活はできないが、金持ちの意見を持つことができる。
足元を見つめなければ、そういう大きな勘違いに誘い込まれる。
 
 小泉純一郎の有象無象の後継者はハーメルンの笛吹き男の様に多数の貧乏人をその現実から誘い出し、洞窟に閉じ込めるのである。
 大阪ハシモト、名古屋、カワムラ、鹿児島タケハラは大企業、富裕層の手先であり、別働隊である。
 
 
>>世田谷区長選挙に当選した保坂展人さんのブログのタイトルは「区民の良識の勝利」とあった。
彼に直接会ったことはないが、麹町中学内申書裁判のころから、地道に市民運動の分野に踏みとどまり、、社民党議員になってからも志を持続させていると共感してきた。
 
 「区民の良識の勝利」と自分の当選を総括できるところに、保坂さんが、志を持続できてきた根拠があるように思えてならない。
 
 私には良識という言葉の意味さえ、混沌としている。まして、それが、有権者に宿っているなんて一度も思ったことがない。
 
 政治を語るときいつも念頭に置いてきたのは、多数派獲得ではなく、少数派への訴えだった。
今も変わりはない。
 
 人には限界がある。イロイロな人間がいていいのではないか。