反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回分のメモ。福島原発事故→新型コロナ対応を想えば、~そこに根深い何かが横たわっている~。黄色いベスト運動をはじめとした世界の社会運動の潮流と日本の現状


【2019新春討論】

 資本主義の横暴と対峙する世界的な民衆運動の行方 
          酒井隆史大阪府立大学教授)・原口剛(神戸大学准教授)対談

酒井 反グローバリゼーション運動に押されて、ラテンアメリカギリシアのように急進派が政権を獲得したにもかかわらず、
新自由主義政策を棄却できない限界の帰結という点で、ひとつのサイクルの終わりだと解釈することができます。

>そこからもう一度、今度は新自由主義というよりは、資本主義そのものから運動や知的言説の枠組みを取り返す方向に向かっているように思います。
たとえば、米国をはじめとする若い世代が、ソーシャリズムコミュニズムをポジティブにとらえ始めているのはその徴候です。

     <気候変動がもたらす貧困と環境移民>

 現在ヨーロッパでは大量の移民が問題となっていますが、その原因の一つは気候変動によるものなのです。
国連は、2030年までに年間5000万人の環境移民が生まれると予測しています。
気候変動のダメージは、人類に均等に訪れるわけではありません。
それは階級分化と密接不可分であり、もちろん貧困層が最も弱い立場に立たされているのです

 気候変動は日本ではあまり話題になりません。
ですが、地質学における「人新世(

人新世(アントロポセン)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

引用

「人新世(アントロポセン)とは?

ノーベル化学賞受賞者のドイツ人化学者パウル・クルッツェンによって考案された「人類の時代」という意味の新しい時代区分人類が地球の生態系や気候に大きな影響を及ぼすようになった時代であり、現在である完新世の次の地質時代を表している。

地球上の岩石層に残された生物の化石などをもとに時代を区分する地質時代では、時代の区分は大きなものから「代」と呼ばれ、それが「紀」に分かれ、さらに「世」に分かれる。

われわれ人類の活動は、地球の歴史の中でほんの1万1700年ほど前の「新生代・第四紀・完新世」に始まり、現代まで続いていると言われている。しかし、産業革命以後の約200年間に人類がもたらした森林破壊や気候変動の影響はあまりに大きく、「完新世」はもはや人類中心の「人新世」となっているということだ。

人新世は、地質学の国際組織「国際地質科学連合」に公式に認められた時代区分ではない。

 

アントロポセン)論」は、人文科学の専門分野では大きな話題になっています。
これは

人間の生産活動が及ぼした影響のために気候が不安定になり、
1万年続いてきた完新世(今の地質年代)が終わり、新しい地質年代が始まったというものです。
 この資本主義の破局的な状況は、
*2008年のリーマン・ショック以降、欧米ではリアリティのある議論としてとらえられています。

*しかしまた、近々クラッシュが来るというふうにはいわれていますが、取り繕いながらここまでずるずると引き伸ばしてきました。
*この資本主義の末期的な状況は、小さな破局を積み重ねながら、
*次の展望が見いだせないまま延々と続いていくでしょう。
*この状況に着地点を見いだすのは、非常に時間がかかります。
*だから私たちは、このような状況に振り回されないよう注意を払わなければなりません。

     <気候変動と地震期、重なった危うい日本>

 19世紀の初めまでは、今の第三世界とヨーロッパの中核諸国にはあまり大きな貧富の格差はありませんでした。
ところが19世紀の後半、その時にエルニーニョ現象による気候変動が起きて、
それに当時の帝国主義の暴力が重なるかたちで、今の第三世界を生み出したのです。
現在起きていることも、基本的にそれと似た状況なのです。

 私も大阪に来て15年くらいになりますが、2018年は地震や台風が相次いでやって来て驚きました。
日本は、気候変動と地震期に入ったサイクルが重なっているのです
日本はますます環境的に危うい状況になっていくでしょう

地震や噴火も重なる日本にタワーマンションが乱立>

原口日本は、資本主義の破局的な状況を論じるうえで、重大な場所のひとつです。

 欧米社会は大部分が安定陸塊にあるので大地は比較的安定していますが、日本列島は複数のプレートが沈み込む変動帯の上にあります。
気候変動にくわえ、地震や噴火までもが折り重なる土地にあるわけですが、そのぜい弱な地盤の上に巨大なタワーマンションを作リ続けるのです
しかも上層階であるほど値段が高く珍重されるというのは、なんとも皮肉です。
さらに、大阪の夢洲を埋め立てようとするなど、都市開発はますます暴走しようとしています。

 また、これまでも危機的状況はたびたび訪れましたが、破局を好機として、それを建て直すんだといっては独裁的権力が力をたくわえてきました。

大阪では、橋下市政がまさにそうでしたよね。
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そのような悪循環を許してしまったのも、階級の問題が決定的にないがしろにされてきたからでしょう。

 新自由主義については、地理学者のデヴィッド・ハーヴェイが、その本質とは<「略奪による蓄積」>であると論じています。
>つまり現代の資本主義は、<もはや労働市場をつうじた搾取だけではなく、土地の強奪や詐欺まがいの資産横領>によってかろうじて生きのびている、ということです。

 この議論は、2020年オリンピックや2025年大阪万博を考えるうえで、きわめて
きわめて重要な分析視点だと思います。これらメガイベントに関してまず問題としなければならないのは、
「オリンピックを、万博を、より良くしよう」という考え方です。

     五輪や万博の根本にある略奪・横領・階級暴力
>カジノだろうが万博だろうが、それは土地から利潤をむしり取ろうとする階級戦略であり<広い意味でのジェントリフィケーション戦略>です。
オリンピックや五輪の根本にある略奪や横領、そして階級暴力を問題にしていくところまでつき抜けていかねばなりません。
     労働運動がめざしていたものを想起しましょう。
その闘いの目標は、「成長」とはさしあたり無関係であり、むしろ成長は、そのはげしい闘いの結果でした。
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>しかも、戦後のケインズ主義(政府が投資して経済成長を促す)や、フォーディズム(拡大再生産と賃金上昇に依拠する経済システム)のメカニズムによって、
ごくわずかな期間にだけ再分配つきの成長がありえたというだけです。

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 労働運動が目指してきたのは、基本的には、労働条件の向上と、そして労働の解放、あるいは労働からの解放です。
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原口金融化が進めば進むほど不動産が巨大化して、それが民衆の必要とどんどんかけ離れていくという状況は、東京の街を歩いてみるとよく分かります。
いま東京の海上に作られているタワーマンション群は、これまでにない規模の、完全に人間の地図感覚を狂わせるような巨大さを持っています。
これこそ巨大開発の金融化をわかりやすく示した景観と言えるでしょう。一目見ただけで「あ、これは破局するな」と感じさせるほどです。

 【※都心臨海部を中心とした五輪開発の模様については、「反五輪フィールドワーク2018決行!」「反五輪の会」のウェブサイトを参照】
>歴史的には資本主義が危機的な状況に陥ると、不動産投資に走るものでした。
そのあとにはかならず金融と不動産の破局がおとずれ、破産のあとに残されたインフラが新しい資本の蓄積の舞台となっていく。  
>このサイクルを繰り返しながら資本主義は生きのびてきたわけですが、
>重要なことは、それがただの「振り出しに戻る」のではないことです。

  住むためではなく売買するために作られた虚構の産物
そもそも、ここに誰か住んでいる姿を想像することさえ難しい。
おそらく、住むために作っているのではなく、売買するために作っていると考えるべきでしょう。
>株の売買と同じで、暴落する前に売り抜けるかということだけしかありません。

酒井タワーマンションは、住民が支えきれないくらい修復費が莫大になっていくと言われています。
耐震性は満たしているとは言われていますが、エレベーターは止まります。エレベーターが止まれば、生活ができなくなるのです。
階段の上り下りだけで移動するなら、私なら5階建てが限界でしょうか。生活に即して言えば、タワーマンションは、災害には非常に弱いのです
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     Q.ジェントリフィケーションとはなにか
――― 世界の都市ではどこでもそうですが、釜ヶ崎のように、貧しい労働者が暮らす街は、だいたい都心にありるものでした。
そのような地域から労働者が住めなくなったり、追い出されたりするということが、この30年~40年のあいだに世界の各地で起こるようになりました。
この世界的な現象を、「ジェントリフィケーション」といいます。
そのジェントリフィケーションが、釜ヶ崎でもついに起ころうとしています。

きっかけは、「西成が変われば大阪が変わる」という橋下市長の発言でした。
ジェントリフィケーションの標的となるのは、都心部の貧しい労働者の地域です。
そのような地域というのは、都心部にありながら家賃や地価が安い(だからこそ貧しい人びとがかろうじて住むことができたのです)。
もともとの地価が安いがために、不動産業者やデベロッパーはその地の開発から莫大な利益を生み出すことができます(参考:「用語解説(1):地代格差論」)。
またとくに釜ヶ崎や西成の場合、関西国際空港や新幹線へのアクセスが抜群に良いという条件が、そこに重なっています。
ただ強調しておきたいのですが、釜ヶ崎界隈の交通アクセスが良くなったのはせいぜい50年前の話で、そのずっと前、およそ100年前からドヤが存在していました。
だからこの地に誰より長く住んできたのは、ドヤの宿泊者である貧しい労働者です。
にもかかわらず、橋下市長の発言ののち、「経済的な機会にあふれ交通の利便もよい都心を、貧者に占有させたままにしてはならない」という論調が勢いづきました。
「西成特区構想」はこの発言をきっかけとしてはじまったわけですが、少なくとも市長が狙っていたのは、まちがいなく釜ヶ崎のジェントリフィケーションです。

 Q.貧しい人びとはどのように追い出されていくのか
――― 追い出しには、おもに3つのパターンがあります。

ひとつには、
①行政代執行のように強制や暴力によって立ち退かせる、直接的な排除があります。
これはきわめて目に見えやすい排除ですが、しかし、排除のかたちはそれだけではありません。

もうひとつ、
②家賃や宿代、土地の値段が高くなっていって、じわじわと追い出されるパターンがあります。
ある程度の長い時間をかけて起こる、間接的な排除です。間接的ではありますが、これこそ広くみられる現象で、もっとも注意すべき排除のかたちです。

またこのほかにも、
③街の雰囲気が変わり、ずっと住んでいた労働者や住民が居づらくなって追い出されるパターンがあります。
いわば、「雰囲気による排除」です★01。

    Q.釜ヶ崎でジェントリフィケーションは起こっているのか
――― ①の直接的な排除については、当日の報告にあったように、すでに行政代執行が起こっています。
また②の間接的な排除についても、すでに起こっている可能性があるし、このままでは間違いなく起こってしまうでしょう。
 
 決定的なのは、〈星野リゾート〉の進出です。
これまでにない高級リゾートが釜ヶ崎のすぐそばに現われることになります。
その影響はかならず近隣に拡がるだろうし、地域一帯の宿代の上昇や地価の上昇を起こす引き金になるでしょう。

 そう考えると、「あいりん総合センター」がなぜ重要な存在なのかが分かります。
現状のセンターは、新今宮駅前の大通りに面して建っていて、まさに「労働者の街」を象徴しています。
その分厚い存在感は、ジェントリフィケーションの波を食い止める防波堤になっています
(たとえばイギリスの都市では、公営住宅はジェントリフィケーションを防ぐ存在であったといいます)。
 もしこのセンターが取り払われて、駅前の跡地が小洒落た商業施設や監視カメラ付きの広場へと変えられたら、なにが起きるでしょうか。
駅前の大通りをはさんで、北側には〈星野リゾート〉のホテルが建設されます。
また東側をみると、阿倍野ではハルカスの建設や天王寺公園のリニューアルによって、すでに街は塗り替えられています。
オセロにたとえるなら、両方の角をひっくり返されたような構図になって、大通りが丸ごと塗り替えられるでしょう。
その影響は、オセロの盤面の全体に、つまり釜ヶ崎の全体におよぶことが危惧されます。

   Q.街の「人情」は無くなってしまうのか
――― これは、③の雰囲気による排除にかかわる重大な問題です。
 考えられるのは、たんに「人情が無くなる」のではなく、

 >一方で「人情」がやたらと強調されたり演出されたりしながら、他方で人情が潰されていくという事態です。

*これを考えるうえでは、「生きられる人情」と「売りになる人情」を分けることが肝心*です。

ジェントリフィケーションは、ただ街を均質なものにさせたり、ユニークさを消し去ったりするものではありません。
むしろジェントリフィケーションは、「売り」になるような街のユニークさを必要とするし、無理矢理にでもつくりだそうとします★02。
だから、釜ヶ崎の「人情」や「下町らしさ」は、「お客」や消費者を呼び込むための「売り」として残されるだろうし、過剰に演出されることにもなるでしょう。
  
   しかし、「売りになる人情」と、もともとの「生きられる人情」とは、似ているようでまったく違います。

 その「生きられる人情」を映しだしたのが、『月夜釜合戦』だと思うのです(参考:「[詩]女と水と導火線――『月夜釜合戦』に寄せて」)。
この映画は、「生きられる人情」と「売りになる人情」とはどう違うのかを考えるうえで、手がかりを与えています。
 
        たとえば、「におい」という要素です。
『月夜釜合戦』のおもしろいところは、映像作品でありながら、画面のすみずみに街の「におい」を感じさせることだと思います。
じっさい釜ヶ崎や東京の山谷のような、労働者の生々しい生活空間は、その土地に独特の臭いを生み出すものでした。
この「におい」は、そこに住む労働者にとってはなじみのものでしょう。
けれども、「お客」や消費者として外部からやってくるような人びと、とくに裕福な人びとにとっては、顔をしかめるようなものとしてあります
(嗅覚というものは、階級を敏感に察知する器官であるように思われます)。

「生きられる人情」が「売りになる人情」へと変えられていくときに消し去られるのは、たとえば「におい」ではないでしょうか。
 言い換えれば、「雰囲気による排除」のひとつの兆しは、「においの消失」であり、「脱臭」ではないでしょうか。

 このような事態は、アートとジェントリフィケーションの関係を重ね合わせて考えると、よく理解できます。
       
たとえばニューヨークのSOHOのジェントリフィケーションを考えてみましょう。

 そのはじまりは、倉庫街に貧しい芸術家が住み込み、自分たちの活動の場としたことでした。
かれら芸術家の活動はやがて世間の注目を集めるようになり、倉庫街の薄暗いイメージをアートの拠点へと変えていったのです。
しかし、そのようにイメージが変わることで、消費者や投資を呼び込むことになり、ジェントリフィケーションが引き起こされました。
そうして家賃が上昇することで、最初に住み出した芸術家は追い払われてしまったのです(高祖 2007)。
 
   「人情」についても、同じことが起こりえます。

 もともとの「生きられる人情」とは、その土地に住まう労働者や住民が生きるなかで、長い時間をかけて生み出したものであり、いわば民衆が共同でつくだした共有物です。
>ジェントリフィケーションはそのうわずみを刈り取り、「売りになる人情」へと仕立てながら、そもそも「人情」を生み出した担い手を追い払ってしまいます。
肝心なのは、そうした事態を引き起こさせないことだと考えます。

Q.ジェントリフィケーションに立ち向かうために、なにが必要か
――― ジェントリフィケーションは、資本主義に深く根差したものであるだけに、食い止めるのがきわめて難しい。
そのことは、率直に認めなければなりません。だからこそ、確固とした意志や理念が必要となります。
ジェントリフィケーションを食い止めようとする試みとして、たしかに政策提言やコミュニティプランニングの試みも世界的になされていますが、
 
 私の考えでは、それだけでは限界があります。なぜなら、ジェントリフィケーションを食い止める政策を実行するためには、都市政治そのものを変えなければならないからです。
現状の大阪市大阪府の政策姿勢は、ジェントリフィケーションを食い止めるどころか、企業や資本にとって有利な環境をつくり出そうとひた走っています。
ジェントリフィケーションや公共空間の民営化(私有化)を意図的に推し進めようとしているし、さらには万博まで誘致させてしまいました★03。
政策の力をもってジェントリフィケーションを食い止めることを目指すなら、そのような都市政治の基本姿勢を変えなければなりません。
だから必要なのは、都市政治そのものを問題視し、変革させるような運動や闘争の力だと考えます。

 じっさい世界各地のジェントリフィケーションや土地開発への対抗運動は、スクウォットなどの直接行動を繰り広げてきましたし、いまも繰り広げています(参考:「トリノの路上から(1)NO TAVについて」)。
 直接行動は、世界的には、もっとも基本的で重要な対抗の試みだといっていいでしょう。
しかし日本国内では、社会運動のなかでさえ、直接行動を「過激な行動」として退ける風潮が強まっています。
たとえば世界各地のデモでは、やがて自発的な直接行動へと展開していくのは当たり前のことですが、
これが日本で報道されるときには「一部が暴徒化」と報じられてしまいます。
事実はさかさまで、直接行動の力がさまざまな可能性を押し広げ、人びとの力となってきたのです。
いまの日本の状況のなかでは、直接行動が「時代遅れの行動」や「騒ぎ立てるだけの行為」とみなされ、孤立させられがちです
けれど研究者の立場から言えるのは、世界的にみるならば、そのような直接行動こそ世界的基準だということです。
またそれは、釜ヶ崎や野宿の現場で長く受け継がれた伝統でもあります。


トークセッション「オリンピックとジェントリフィケーション」を終えて 2018/09/27 村上 潔
>ここでは、あくまで私からの余録として、当日全面的には触れ(られ)なかったエピソードと、それに導かれる思考の(内側の)回路を記述しておきたいと思います。

 基本的にジェントリフィケーションは、経済・政策・設計・統治という「上」からの目的/枠組みによって作動する。
当然ながらそこにおいて、末端の生活・再生産する身体という存在は、コントロールされ、利潤を生み出すことを期待される集合体としてのみ設定される。
       (利潤を生み出さない群はリスクとして排除される)
>ジェントリフィケーションに対抗する「下」からの運動には、往々にして見落とされがちなその身体の存在/意味に目を向け、認識を共有し、
それを基準とした(新たな)共同性のありかたを示し/構築していくことが要請されると、私は考える。

 メガイベントとそれにともなう大規模再開発というマスな/マクロな権力の作動に対峙するには、
    *その対極の目線と立ち位置*がどうしても必要となる。

これをスルーして、「オルタナティヴ」なコミュニティなど構想できはしないし、したところでそれは「対抗」にはなりえない。

   ある身体が求める空間とはいかなるものか、

   ある空間が誘[いざな]い・受け入れる身体とはいかなるものか。
   そしてその連関性は、いかなる歴史を刻んできたのか。

   一つ一つ、解きほぐし、確認し、気づき合っていこう。

 たとえば、その地で子を産み、育てること。
 たとえば、傷ついてそこに逃げ込むこと。そこで人に助けられ、土や木に癒されること。眠ること。食べること。語らうこと。踊ること。歌うこと。

 声を発さず、文字を書かず、「作品」も残さない、無数の身体が、どの都市空間の一隅にも存在する。
 その存在が内から物語るもの、その複数性と重層性を感じとろう。
歴史に重ねよう。そして共有しよう。響かせよう。そして学者はまたそれを記録し、詩人はまたそれを歌う。

 なぜそこに公営住宅が必要なのか。
 なぜそこに市場[いちば]が必要なのか。
 なぜそこに公園(自然)が必要なのか。
 なぜそれらは人々がアクセスできるものである必要があるのか。
 <それを「経済的な条件」や「社会的な権利」の問題で語る前に、認識しておくべき地平がある。>
 <そういうことだ。>
私はこの前提を手放して、ジェントリフィケーションにアプローチすることはできない。