第3部 さまざまな革命
第6章 革命を抱きしめる
引用
「吉田は1954年末まで政権を維持し、戦後の日本に保守主義を復活させた立役者のように言われているが、後に後悔の念を込めて自らの仕事ぶりを回顧している。
吉田が改革に従ったのは、『自分の心の中にはいつも一つの考えがあった』からである。
『それは、見直しを必要とすることは日本が独立した後に見直せるはずだという思いであった。
しかし一度決まってしまったものを再び変えることはそうたやすいことではなかった。』~吉田茂『大磯随想』1962年、~
最高司令官に身を寄せて
小林が懸念し、外国人が『従順な家畜』の心理と嘲笑った大勢順応主義は、日本人の間ではもっと当たり障りのない言葉で表現されるのが常だった。
~世の中の上下関係に敏感で身の程をよくわきまえるという感覚が、この順応主義を生み出すうえで欠くことのできない要素であったが同時に、それは、人々にとってなじみ深い価値や行動や象徴といった要素を含んでいた。
占領時代にはGHQによって禁じられていた日の丸や国家も「美俗」の一部と意識されていたし、
村祭り、みこし、盆踊り、伝統的な結婚式や葬式、感傷的な流行歌、茶道、武道、親孝行、勤勉さ、年長者に対する尊敬の念、女性の美徳の数々、『義理』と『人情』の葛藤を美化する感覚、外見やメンツを気にする態度、そして和の尊重といったものも『美俗』の一部であった。
天皇に対して感傷的になったり、卑屈な態度をとることも、民衆意識の一部であった。
このことはマッカーサー元帥個人に対して、また一般的にGHQに対して日本人が見せた態度の中に劇的な形で現れた。
>あらゆる階層の日本人が、それまで天皇にしか抱かなかった熱狂をもって、この最高司令官を受け入れ、ごく最近まで日本軍の指導者に示してきた経緯と服従を、GHQに向けるようになったのである。
>こうした行動様式は、『民主主義』とは新しい流行に過ぎず、古い日本的な従順さの上に新しい衣装をまとっただけではないかという懸念を裏付けるように思われた。
~彼らは手紙の中で(WマッカーサーやGHQへの手紙)まるでお守りのように平和と民主主義という言葉を繰り返し語っていた。
マッカーサー最高司令官は、その冒しがたい権力ゆえに天皇のような存在であったが、彼のほうが天皇よりも近づきやすく、より直接に関係を持つことができる存在と思われていたことも確かであった。
>民主主義を約束する権威主義的支配という逆説に満ちた試みがここに始まったのである。
知識人のほとんど例外なく『進歩的文化人』のマントを身に着け、民主主義と解放という大義名分のもとに結集したのである。
しかしこうした知識人の中でも最も影響力を持った人物の一人、丸山真男は、自分たちのアイデンティティーの特異さに注意を喚起した。
この時代に知識人としてまともに取り合ってもらいたければ、民主主義革命の使徒になることは何よりも大切なことだった。
戦争に反対した少数の知識人から見えればこれは驚くべき変化であった。
占領期に数百人の学者や作家が軍国主義者や超国家主義者として公職追放されたのはじじつだが、そもそも戦前のほとんどの自由主義者や左翼知識人は、1930年代半ばまでには自らの信念を撤回して、戦争を支持していたからである。
数百人の一部共産党員は、自らの信念を曲げずに日本帝国主義に批判的な立場を取り続けた。しかし彼らは獄中にいたか、国外に逃亡してソ連や中国の共産主義者の支配地域に滞在していた。
わずか一握りの学者だけが、高まりゆく超国家主義の波にのまれることなく戦争を乗り越え、その名声を高めたのである。
その代表的人物が経済学者、有沢広巳 - Wikipedia
>終戦後に制定された労働問題に関する法律の中でも最も進歩的なものは、
>1947年制定された労働基準法である。
その制定過程は、かつて思想警察のメンバーだった寺本広作という人物による、にわかに信じがたい活動を抜きに語ることはできない。
1946年夏に寺本は、事前に通告もせず、しかも自ら招待も明かさないでコーエンの事務所を訪れた。このとき寺本は、労働者を保護するための法案の膨大な草稿を持ち込んだ。後になってわかったことだが、当時寺本は、厚生省労働基準課の課長で、部下とともに数か月間このプロジェクトに取り組んでいたのである。
しかしこのような法案作りはGHQの管轄外であったし、日本政府の課題の中で重要な位置を与えられていたわけでもなかった。つまりこの労働基準法の制定こそ、民主化を支持する日本人中間官僚層のイニシアチィブを示す輝かしい実例だったのだと、
実は寺本は終戦後の混乱した状況を利用して、
GHQが労働条件について強力な規制を行うよう要求しているということを産業界を始め官僚、政治家など様々な分野の人々に説得したのである。
このような隠れ蓑を使って、寺本と彼の部下たちは、ほとんど独力で、戦前に軍部によって失効させられていた労働法規の条項だけではなく、国際労働機関(ILO)の協定に詳しい分析に基づいて、労働者を庇護擦れために包括的な基準を起草したのである。
寺本がコーエンの事務所のドアをたたくまでGHQはこのプロジェクトの存在を知らなかった。
しかしいったんこうした予期せぬ取り組みが占領軍の労働課によって支持されるようになると、寺本は日本側の利害関係者に対して、アメリカの希望に沿う以外に選択の余地はないと説得できるようになった。
途中このたくらみが露見しそうになるきわどい瞬間もあったが、結局かたく秘密を守った改革者たちは自らの道江を切り開いていった。
この法案は生理休暇に関する条項も含まれてが、コーエンが管轄していた「賃金及び就労条件課」のアメリカ人女性チーフは、このような法案は、今まで見たこともないし、必要のないばかげたものだと考えた。
とはいえ、この生理休暇条項は削除されず残った。
新たに制定された労働基準法の第1条は、個人の価値に対する感覚を持つことの大切さを雄弁に教えている。コレは、今日ではあらゆる民主主義革命の基礎をなすものとして認められているものである。そこには「労働条件は、労働者がヒトたるに値する生活を営むための必要を満たすべきものでなければならない」と明言されているが、こうした文言がかつて思想警察に勤務していた人間によって書かれたとは想像もつかないことであろう。
一方における命令と説得があり、他方に真の協力と自発性とがあって、両者が腕を組んで複雑なダンスを踊っている様は何よりも教育の分野においてはっきりとみることができる。占領が終了するまでSCAPの「教育情報局」は教育の分野で民主化が促進されるように厳しく監視した。
その結果、戦前に天皇制超国家主義の厳格な番人であった文部省は、終戦後、最も生真面目で熱心な『平和と民主主義』の擁護者に変身したのである。
教育者ほど熱狂的に自身の看板の書き換えを行ったものはなかったが、こうした看板の書き換えは、間違いなく文部省の内側でも、罵声が飛び交う中で行われたことだろう。
占領軍の要求が、日本の抑圧的なシステムに風穴を開け、人々に自由に意見を表明させ、新お解放を追及させた。コレが教育を与えるものと受けるもの双方に与えた影響は、計り知れないほど大きかった。
日常言語を民主化する
引用終了。次回に続く。