上巻、第3部 さまざまな革命
第6章 新植民地主義的革命
引用
「マッカーサーの司令は、軍事的な官僚制に基づいたものであり、、民主主義的なチェック、アンド、バランスの原理とはもっとも相いれないものであった。
~司令部の指揮系統には個々人の「本来の地位」が詳細に記されていた。
この権威主義的統治モデルは、占領支配が指令を実行させるやり方によっていっそう複雑な問題を生んだ。
>敗戦国ドイツで採用された直接統治の軍事支配と違って、日本の占領は、既に存在している日本の政府組織を通じて「間接的に」行われた。
>そのため、降伏以前の日本の政治体制の中でも、最も非民主的であった制度を支持することとならざる得なかった。
>官僚制と天皇制である。
既存の政府機構に依拠して進めてゆくという決定は、改革の基本計画全体と同様、最後の段階になって正式に承認された。
マッカーサーとそのスタッフは彼らが日本に到着する前夜まで、軍部による直接統治をするように命じた「ブラックリスト」というコード名の秘密指令に基づいて行動していたからである。
しかしこの計画は」降伏後における米港の初期の対日方針」と名付けられた文書によって変更された。
>基本計画がこのように変更されたのは、明らかに実際的な理由からであった。
>つまり占領軍は日本を直接統治するだけの言語能力と専門能力に欠けていたのである。
基本的に言えば、最高司令官はワシントンの上司の許可をもらえば既存の政府機構を変更し、天皇裕仁を退位させ、天皇制を廃止することさえできる権限を持っていた。
しかし現実には、こうした選択は一度たりとも真剣に考慮されることはなかった。
日本の軍事機構は消滅し、抑圧的であった内務省も解体されたが、
>官僚制は本質的に手付かずのままであり、天皇も退位しなかった。
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W。以下の指摘は新植民地主義のモデルケースに合致する。
後進地域での新植民地支配は当地の統治機構の未熟あるいは腐敗といった根本問題を抱えているので新植民地支配者は苦境に陥るが、
敗戦直後の日本の統治機構は総力戦体制の下で「順調」に運営されていた。
新植民地支配者、アメリカ占領軍は日本国家権力機構のうち、軍隊の解体、警察、内政実務の中枢である内務省を解体的に再編する一方で、独自の実務的支配系統も持たず、『象徴」「権威」に過ぎない天皇に対して恫喝を加えつつ、新植民地主義的占領支配の支配の政治的道具として抱え込み、天皇制を支えてきた中央ー地方の官僚制を天皇個人と分断し日本支配の実際的な指示系統として活用した。日本の民主主義政治は天皇アメリカ「民主主義」という始原的契機をもち内外情勢に応じて変転し今日に至る。
>アメリカの植民地総督は、
>自分たちが出した指令を遂行するのに現地のエリート官僚層に頼り切っていたのだ。
>その結果、SCAPの庇護を受けた日本の官僚は、戦争に向けて国家総動員を進めていた絶頂期よりも実際にはるかに大きな権限と影響力を獲得したのである。
新しい民主主義国家の最高の象徴としてマッカーサー個人が演じた帝王のような役割は、最後には、抑圧と戦争と、暴虐の時代を統治してきた天皇に再び移譲されることになった。
そしてGHQが「超政府」として行使した権力の在り方は、無傷のまま残された官僚たちによって受け継がれ、征服者が去ったのちも長期にわたって維持されることになるのである。
それでも、改革のための総督としてやってきた勝者たちが去ってしまった後の日本はやはり以前とは違う国になっていた。
>この政治的にもイデオロギー的にも不思議な現象を正確に理解するためには、スウィフト」のような想像力が必要であろう。
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とりわけ日本人は、権威に対して従順に反応すると、ベネディクトはいう。
これは「従順な家畜の群れ」を、社会科学者らしい慎重な言い回しで語ったものである。
>この議論は天皇の庇護のもとで民主主義を推進するという政策を合理化するのに好都合な根拠を提供することになる。
~日本の至高の権威である天皇は、空っぽの容器のようなものであると主張した。
>これまで天皇は超国家主義を具現化した存在としてすべての人に支持されてきた。
>もし天皇が天皇制民主主義の象徴へと変身したとしても、まったく同じようにすべての人に支持を得るだろう、というわけである。
>こういうことははすべて日本人捕虜を扱ったアメリカ人の経験によっても裏付けられるように見えた。
>日本人捕虜の多くは意識をうしなったり大けがをして徹底抗戦も自害もできず、自らの意志に反して捕らわれの身になったものである。
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W.
戦争現場という異常事態のなかでは、兵士は自らを戦争殺人ロボット化する必要に迫られる。戦陣訓は戦争殺人ロボット化の究極の姿である自らを肉弾にしてまで戦う方途を集団環境的に外面的に叩き込んでいる。
こうした教えを徹底化した兵士が捕虜になるということは環境的に叩き込まれた自我が取り除かれ精神的に白紙の状態になるということであり、周囲の環境が動物次元の欲求を叶えるものであれば、即応し従順になる。
この状態は日本人捕虜だけの状態ではない。当時の日本人のほとんどが多かれ少なかれこんな精神状態だったのではないのか。
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~収容所生活を送るうちにアメリカ人に対してすぐに素直で従順となり、かつての仲間に降伏を訴えかけるビラの作成を手伝うまでになった。
この経験は、例えば権威と実例と象徴的な操作をうまく組み合わせることによって、戦後の日本人が模倣し、見習いたくなるような「民主主義的」モデルをささやかなりとも勝者が提供できるのだと分析官の確信に、さらなる拠り所を与えたのである。
>こんな新しい見方は、日本人に対する考え方を慎重な手法で楽観主義へと修正したものであったが、
>すんなりと受け入れられたわけではなかった。
今考えてみれば、太平洋戦争最後の半年間は、←W無責任体制に決断者はいない。結局天皇の決断しかなかった。始めるのも御前会議、終えるのも御前会議。
天皇政府にとって残虐な愚行の歳月であっただけではなく、無益な戦争の引き延ばしによって、
>ワシントンで急進的な占領政策が登場するのを許した歳月であったとみることもできる。
1945年の初頭、日本では側近が天皇に対して降伏を強く促したが、←W。近衛文麿?もしその時日本が降伏していたら、空襲も原爆も、百万を上回る死者の増大も、避けることができただろう。
占領軍による上からの革命も回避されていたかもしれない。
>1945年初めの時点では、この敗戦国に民主主義革命を導入すようという計画は存在しなかったからである。
「旧世代の日本派ジャパン、ハンズ」が、降伏後の計画立案を依然として牛耳っていたのであり、彼らが望んでいたのは、せいぜいのところ穏健な改革でしかなかった。
ところが、より進歩的で、人種的、文化的にそれほど侮蔑的ではない議論が、メンバの重なり合ういくつかのグループから提起された。
それらは日本降伏後の政策の多くを形作るものとなった。
それはニューディールリベラル、左翼、そして日本と中国に深いつながりを持ったアジア問題の専門家たちであった。
第2次大戦が最終局面に入ったころには、アメリカの国内政策に関するニューディーラーの影響力は衰えつつあった。しかし彼らは民主主義の理想、目標、政策は不変的な者であり、世界の国々に対して適応できると確信していた。このような「普遍主義」の考え方においては、世界中の人間は根本的に同じであり、何人も法の下に平等であることが理想的な統治の在り方であるとされてきた。
ニューディールリベラルたちは、日本では文化的な拘束が強いことを重視していなかった。
~
日本専門家たちは、
彼らの日本人の知人や関係者の保守的な主張の代理人に過ぎず、戦前に日本の特権階級との間にあまりにも優雅でぜいたくな関係を結んでいたので彼らはすっかり丸め込まれ、まともにものを考えることもできなくなったのだとみなされるようになった。
国務省内では『日本派』に対する批判が主として中国に関与していた人々の間で最初に置き始めた。
中国派は日本の文民エリート層をとりわけ厳しく批判し、下からの民主的な力を解放するために、支配階級が握って組織や制度を開かれたものにする可能性についてはかなり楽観的な見通しを持っていた。
とりわけ彼らは、日本派が財閥のリーダーを「穏健な」実業家と表現することを断固として拒絶した。そして、既存の経済制度それ自体が、根こそぎ取り除くべき「戦争の根」の一つであると主張した。
中国派の見解を代弁したもっとも有名な人物は、中国、中央アジア問題の辛辣で卓越した学者オーウェン・ラティモア - Wikipediaであった。ラティモアはアメリカで目立つ存在だった。
彼によると、
戦後のアジア問題に対する唯一の「解決」は日本を徹底的に民主化し、それをアジア全域の経済水準を最高のレベルにまで引き上げることに結び付けることであった。
そうしなければ、日本はいづれ搾取的な帝国主義的政策を再開するであろう。
日本の賠償は、
アジア全体の経済力を奏した水準にまで引き上げるための一つの手段であり、日本御経済集中はいじぃに本気で取り組むことは同じ目的のためのもう一つの手段なのだ。
~
このころ、国務省内では、
ジョセフ・グルー - Wikipediaとその取り巻きに対する批判派が勝利をおさめ陸軍省の支持も得ていた。
マクロイとは - コトバンクジョン、jマックロイレク陸軍次官補はこの批判派に共感を持っており、対日基本政策の修正と仕上げを指揮していた。
こうした勢力地図の変化は、官僚制内部のより広範な政策闘争を反映しており~。
保守的な考えを持った日本専門家たちが権威を失墜した象徴的な日付は正確に特定できる。
それは、1945年8月11日、
ディーン・アチソン - Wikipediaがグルーに替わって国務次官補となった日である。