命をつなぐペンの力
かつて「売文社」という会社があった。創業は今から100年前、1910年(明治43年)12月である。このヒトをくったような名称の組織を作った人物こそ、日本にいち早くマルクスの思想を紹介したことで知られ「日本社会主義運動の父」とも呼ばれた堺利彦(71970年~1933年)だった。
現在、堺利彦は日本の社会主義運動の先駆者、思想家、啓蒙家、として知られているが、最も有名なのは、に理路戦争が始まる前年の1903年(明治36年)、親友である幸徳秋水と共に平民社 - Wikipedia
を創設し、週刊平民新聞を発行して戦時下で反戦運動を続けたことだろう。
だがそれだけではない。~社会主義者で投獄された第1号、女性解放運動に取り組んだフェミニスト、海外文学の紹介者で翻訳の名手(W。バーナードショー戯曲『ピグマリオン』~『マイフェアレディー』の原作。ジャックロンドン『野生の呼び声』『白い牙』の日本最初の翻訳者など)言文一致体の推進者、平易明快な文章の達人、そして軍人に暗殺されかけ、関東大震災では憲兵隊に命を狙われた男でもあった。
また生涯5回も投獄されながら「楽天囚人」を自称し『猫の首つり』など風変わりなタイトルの本を書き、与太話と皮肉が交差する機関誌『ヘチマの花』を編集し『日本一のユーモリスト』の称号を奉られている。
堺利彦は実に複雑で多面的な顔を持つ人物だった。
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しかし、堺利彦は社会思想の分野では研究されていたものの、文学の分野ではあまり取り上げられることはなかった。~~
特に本書で取り上げる「売文社」現代の多くの人々にとって、初めて聞く名称なのではないか。
平民社と違って、売文社が日本史の教科書に登場することはない。
だが、日露戦争期の平民社が2年で解散しているのに対して、売文社が8年3か月も継続しているのである。堺利彦の人生の中で売文社のほうがずっと長い期間を占めていることになる。これまで書かれた堺利彦の評伝は~どちらも売文社については述べているものの、具体的にその実像を明らかにするところまで踏み込んでいない。
明治の社会主義者たちにとって、平和という理想に燃え、反戦を唱えた平民者時代が美しい2年間だったとすれば明治末期から大正期の売文社時代は、暗闇の中に息をひそめつつ、迫害の中で過ごした苦闘の8年2か月だったといえる。
@だが、わたしが堺利彦の人生で最も魅かれるのは、この売文社時代である。
売文社にこそ、人間堺利彦の魅力がいかんなく発揮された、と思っている。
本書ではこれまで歴史の裏側に埋もれていて、見えにくかった事実をできる限り掘り起こし、売文社の全体像に迫ってみたい。
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←W。大逆事件以降、第一次世界大戦「無血」参戦権益拡大、ロシア革命、米騒動<壊滅的打撃を受けた欧州復興への戦後の好景気>の過程で<反体制活動冬の時代>が氷解し大正デモクラシーの時代が訪れ、1923年9月の関東大震災、戒厳令において本質的にピリオドを打たれた。
>只今現在のコロナパンデミックにひき付けて考えると、スペインかぜ - Wikipedia
の歴史的な位置付けが戦時中の情報統制(ヨーロッパ戦線では膨大な戦死者)、当時の医学の状況もあって確定されていないようだ。
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W参考資料① ヨーロッパ戦争とパンデミック
引用「第 1 次世界大戦:1914 年 7 月~1918 年 11 月:の死者. 連合国側. 死者数. 備考. ロシア. 170 万人. フランス. 135 万 8000 人. イギリス. 90 万 8000 人. イタリア. 65 万人. アメリカ. 11 万 7000 人. ルーマニア. 33 万 6000 人. セルビア. 4 万 5000
第一次世界大戦は近代史で最も破壊的な戦争の1つでした。1,000万人近い兵士が戦死し、この数字はそれまでの100年間のすべての戦争における軍人の死者数を遥かに超えていました。2,100万人が戦闘で負傷したと推定されています。
W。資料②
「第一次世界大戦の終結 1917年、4月のアメリカの参戦<<W⇒米国参戦と共にスペンイン風邪は欧州に持ち込まれた!1918年3月4日、カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル (Albert Gitchell) という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペインかぜの症例>>と、
1917年11月のロシア革命(ソヴィエト政権の成立)によって転機を迎え、1918年10月にドイツで革命が起こり皇帝が退位、11月11日に停戦となった。」
W資料③ 第1次世界大戦Wikipedia
軍隊の移動、兵站によってパンデミックになったが戦時情報統制によって実情が明らかにされなかった。
第1波 (1918年3月–)
1918年3月4日、カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル (Albert Gitchell) という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペインかぜの症例とされている(それ以前にも記録にない感染例があった可能性が高い)
1918年の第一四半期に始まったスペインかぜの第1波は、比較的穏やかな波であった。
第2波 (1918年8月–)
1918年8月の後半、変異により毒性の高まり、パンデミックの第2波が始まった。
大戦による軍隊の移動にも助けられ、第2波は2カ月のうちに北アメリカ全土に拡大し、その後中央アメリカ、南アメリカにも到達した。ブレストで始まった流行は1918年9月末までにヨーロッパのほぼ全域に広がり、各国の軍事作戦も小康状態に陥った。
ヨーロッパの第2波はロシアにも拡大し、ロシア内戦やシベリア鉄道を通じて北アジア全域へと持ち込まれた後、イラン(ペルシア)に達した。1918年9月にはインド、10月には中国と日本にまで到達した。1918年11月、第一次世界大戦の休戦協定に伴う祝賀行事がロンドンやリマ、ナイロビなどで感染拡大を招いたものの、第2波は1919年12月までに世界的にほぼ収束した。
スペインかぜの第2波は通常のインフルエンザに類似していた第1波とは異なり、健康な25–35歳の若年者層において非常に高い致死性を示し、死亡者数も大幅に増加した。アメリカでは最大29万2000人の死亡が1918年9月–12月に報告(W。米国新型コロナ死者数20万人
現在のUSAの死者は22万人。)され、イギリスでもスペインかぜによる総死者(22万8000人)の64%が1918年10月–12月に発生したと考えられている。
第3波 (1919年1月–)
1919年1月、第2波による被害を免れたオーストラリアを第3波が襲い、1万2,000人以上の死者を出した[28][37]。その後、第3波は1月中にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに到達し、4月にはパリで講和会議に出席していたアメリカ大統領ウィルソンも罹患した[38]。第3波は欧米では1919年の夏(北半球)までに収束したが、その後はチリやペルーなど南半球の国々や日本に遅れて到達し、各地で大きな被害を出した[37][39][17]。日本は1920年1月から2月にかけて第3波に襲われた。
第3波の毒性は第1波よりも高く、第2波よりも低かった
W参考資料③
東京都健康安全研究センター » 日本におけるスペインかぜの精密分析(インフルエンザ スペイン風邪 スパニッシュ・インフルエンザ 流行性感冒 分析 日本):(東京都健康安全研究センター)
引用
「 1918年から1920年に流行したスペインかぜは,全世界で患者数約6億人で,2,000万から4,000万人が死亡したとされている.スペインかぜはヒトにおけるA型インフルエンザウイルスによる流行であることが,後になってからではあるが,科学的に確認された最初の事例である.A型インフルエンザウイルスは元来鳥類を中心に保有されていたウイルスで,少しずつその遺伝子を変化させ,現在流行している香港型やソ連型に変異してきた.最近問題視されている鳥インフルエンザウイルスはA型の1つであり,濃厚接触によるヒトへの感染例が報告されている.さらには,鳥インフルエンザウイルスがヒトや他の動物のウイルスと交じり合い,遺伝子を大きく変化させ,ヒトに感染するウイルスに変異することも懸念されている.」