反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

You Tubeの画面に映った些細な事象の背後にあるものを探索していくと、海外の人々の日常生活の実態に接近できる。

W。知らないことを知っていく楽しみがある。Web投稿動画You Tubeの画面に映った些細な事象の背後にあるものを探索していくと、海外の人々の日常生活の実態に接近できる。またその地理的歴史的背景まで迫ることができる。

グローバル資本主義の大きな特徴近隣地域のヒトモノの交流関係を緊密にしていくことである。

以前から理屈としてこのことは知っていたが具体的事象を通じて痛感したのは反俗日記でこの動画をアップしたときだった。(日本の海外交易数値の推移~、EU結成と急速なの拡大、北米自由貿易協定(North American Free Trade Agreement,NAFTA1994年1月に米国、カナダおよびメキシコ

日曜ビッグバラエティ】日本→欧州20,000km 巨大コンテナ船に乗せてもら①②

W。動画アップされたのち、テレビ東京から著作権侵害の申し立てがあり削除されている。CMも編集カットできるのに録画をまるまる載せている反俗日記が載せたとき再生回数100万であった。その他のアニメ動画は低再生回数。

 

宮台真司さん襲撃にかんする今一生解説を蒸し返すわけではないが、世の中にはイロイロな人がいる

他人の口に戸はたてられない!

ネット右翼サイトの情報を鵜呑みにするばかりか自分の置かれた立場によって政治波及効果を自分勝手に作って短絡行動に走る人たち、にたいして宮台さんが発言において修正すべき点があるとするならば、直接伝えるべきで、一方的に襲撃された宮台さんに一種の自主規制を動画という公開の場で申し渡すのは信義に反する行為である!

コンテナ船ヨーロッパ航路の動画アップの際に

自衛隊の海外派遣反対派に説教したい衝動に駆られる政治思考回路のこのひと

宮台さん襲撃実行者のような境遇であれば、

行為に及ぶ可能性が100%ないとは言い切れない。

それが今の日本の空気感ではなかろうか。

 

     そして風船は空気に漂う。

Wは大きな集合住宅周辺のごみ掃除をやっているが面白いことを発見した。

北風の吹く冬、ごみの溜まるところいつも決まった一角だった。それもなんでこんなところにと思えるほどのほんの一隅である。

だからほかにゴミのない日は何時も目を付けた片隅に直進する。

するとここにゴミが溜まっている理由がわかる。

微かな風が渦巻のように舞って(右回り渦巻もあれば左回りもある)、一隅が渦巻の終着点であった。

吹き溜まりというのはこういうことだったのか、と妙に感心した。

風の穏やかな日は感心するほどのほんの片隅である。

こんな日はそこだけさっと掃除してお終いにする。

ところが強風と降雨が重なったとき。

吹き溜まりは拡大するし、ごみ地域は広がる、強風が作業の邪魔してななりの重労働になる。

わたしはゴミ袋と大きな塵取りを一体にした道具を作って対処するようにした(その他溝掃除の道具も作った)、

今までこの掃除をしてきた人たちは、普通の塵取りとゴミ袋でやってきたし、今もやっているらしい。今でもどうしてやってきたのか知りたい。ものすごく苦労したと思おう。しかし、苦労を苦労と思わなかったのだろうが、聞かないことにしている。

しかし使ってくれる様子がない。(4hの全館掃除込み)

日本人なんだぁ~と感心する。偉そうな視線はない。ある意味尊敬する。

几帳面、真面目、我慢づよい。

もっとも作業スピードと完成度が要求される職人の世界ではこれは通用しない。こんな作業スタイルの人を見たことがない。しかし、こういう手元(見習い)の人が付いていてくれたら最高である。私も見習いの頃はその手のスタイルで我慢して働いてきた。しかし、どこかで区切りをつけなければ使い勝手の良い人のまま終わる。作業工程に自分で責任をもつと傍から見るよりも作業は難しい、とわかる。合理的に作業しなければじぶんがそんをするだけだ。一生懸命仕事をしている姿など関係がない。仕事ができるかできないかの量と質の問題だけ。

その習性があるので今までの掃除のやり方でやっているとき頭の中でスイッチがぱっとはいり、作業進行具合と成果が合わない、と。

それでAMAZONで道具を探し適当なものが見当たらないので

倉庫の道具類の点検し改良道具を作り、量販店の塵取りを改良した。

>このひとたちは、日本の中小零細企業で働いてきた人たちだと思う。

>また本工ではなく下請け。

トヨタなど大企業の作業現場では<カイゼン>が行われた。日本資本主義の70年代以降の成長を押し上げたのはここにあった。

@その一方、同じ大企業でも役所みたいな形式仕事をしているところでも働いた経験がある。電話、ボールペンと紙、ハンコ、報告書、ヒエラルキーの世界である。全部、誤魔化しがきく。グルになった誤魔化しである。ただ傍から見たら忙しく働いているように見える。決められた通り仕事をすると給料に見合わないから、手抜きするように最初にいわれた。辻褄合わせも慣れるまで時間がかかる。

  @近所に名の通った装置産業の事務所があった。

殆ど仕事らしい仕事をしなくても済むらしい、とは掃除のおばちゃん仲間付き合いからの伝聞であった。さすが有名装置企業という結論になった。今から想うと余剰事務員を抱え込んでも巨大装置産業の会社の地位は変わらなかったのだ。

 

  @それからしばらく経って円高急進から日本バブルが始まった。

@株式市場の基本原理(安値で買って高値で売る。小銭で投資しても儲けは薄い。やっている感を感じるだけだ。)もはっきりしないひとが株を買いだした。

 >結局、80年代以降の日本資本主義は巡り合わせが悪すぎた。

>日本バブル前後に停滞する欧米は社会経済構造を改良するしか打つ手はなかった。

>日本資本主義は上記リアルに指摘した諸問題の改革をバブル前後にそのままにした。

 

>それだけであれば、まだマシだが

逆向きの不適切な改革(政治反動ですよ)をしてしまった。日本的家族主義復古制度、国鉄改革、小選挙区比例代表制法人税減税消費税導入。郵政改革論外。

日本の構造改革は円安演出の製造業大企業温存政策に尽きる。金融資本も一緒に何とかしたかったがバブルの後遺症で製造業と一体的にかさ上げできず、株式市場だけの手個入りに終わった。

日本人拉致事件も結局排外主義増長に収まった~あべさんは拉致事件がなければ首相になっていなかった可能性が強い。「美しい国、日本」では自分のようなものが~~云々と謙虚に書いている。

 

@東西冷戦体制の終結によって日本経済が成長してきた外部環境が取り払われた。

@同時にヒトモノカネの国境を超えた自由移動がはじまり、当然にも日本資本主義の対抗者が出現し交易条件が悪化した。

@中国というモノづくり条件の揃った国はすぐ近くに出現した。コレは日本的中小零細下請けの作業工程の慣習など吹き飛ばす。几帳面、真面目、忍耐強いの美徳はこの外部環境において非生産性の保守にしか機能しなくなった。良き美徳は合成の誤謬作用によって、非生産性に転化した(一人当たりのGDP急降下)。

日本の観光宿泊飲食の業態(フランスよりもGDP占有率が高いにもかかわらず生産性が低い)は言ってはわるいが公共事業費削減、海外資本輸出(工場海外移転)国内金融寡頭制委縮経済構造 ~~に並走する自力救済のような側面がある。しかもインバウンド率は極めて低く、東アジアからのインバウンドである。

したがって、下層から貧困が溜まっていった。

 

「原因があるから結果がある。

主原因に見て見ぬふりをしてテロに遭遇した一言論人の言説がある境遇の人たちを刺激するから直せ、というのは、完全に本末転倒である。

 もちろん発信主体側にも至らぬところはある。

しかし反俗日記はそれを芸風の一種と流している。

門切り型の反対運動にも問題はある。

あのやり方の文言、スローガン、運動形態を60年安保闘争以来続けてきた

かれらにとって全学連の国会突入も60年代後半から70年の叛乱も無いことになっている。

一方、我々も自身にも問題がありすぎたから古すぎるいわゆる<左翼>政治が残った。

安保法制のときのシールズもそれ以前の戦いから切断されていたから参加者一人一人の実存に迫るモノでなかったから、大衆動員ができる運動期間が短すぎる動員数と持続期間がマッチしない。

課題は同じ安保体制であるが、安保法制の方が今後の日本にとって重大問題である

1960年代後半の戦いの参加者のかなりの部分はその後、10年ぐらい各部署で戦いを継続できた。

 

 沈みゆく日本といっても周りが成長度に比較してほんの僅かしか経済成長しないから、沈んでいるという表現が当たっているように思えるだけだ。

船は沈んでいない。ゆえに日本は良いとこ、とおもえる。

周囲航行中の船が急に大きくなったから、こちらからの目線が変わっただけだ。

この相互現象は日本固有のファンダメンタルズ国境を越えて近隣広域のヒトモノを平準化するグローバル資本主義の特性につきる。

 

 経済基盤の激動期には一種の<構造主義>に徹しないとオタオタする。

しかし、構造主義に徹する>人は近現代史においては少数派にとどまる。

チャンスが回ってきたこともあった。しかし激動状況を通じて「平準化」した。

 

 投稿主はヨーロッパコンテナ航路3万キロのロマン<Wにはありふれた通常業務とらえるが)と中東への海上自衛隊艦船の覇権に反対する人にぜひ見ていただきたいなどというコメントをホームサイトで述べておられたが反俗日記の結論は別のところにあった。もっともこの業界のことは実体験やコンテナ船は反俗日記の一分野でもありかなり知っており、新鮮ではなかったということもある。

       引用 反俗日記の講釈

NYKコンテナ船ヨーロッパ航路の動画①②は、様々な角度からの解釈ができる面白く貴重な資料を提供していると思います。

この動画から得られる最終結論はただ一つです。

グローバル資本主義の進展はこの地球半周船便貨物輸送に対して、

>近隣地域内の交易のコストパフォーマンスを比較すると

>後者で間に合うのなら後者が断然優位。

@巨大コンテナ船一日平均消費重油(多分ヨーロッパ海域は特A重油)550万円。

スエズ運河通行料、4000万円。

@航路往復費用約3億円。

 

@したがって、近隣諸国との経済連携好むと好まざるにかかわらず強化される。

遠く遡れば、脱亜入欧で、先進文物を取り入れても、その結果において日本資本主義にとって東アジア地域が生命線になった(日本資本主義の原始蓄積は日清戦争による賠償金)。

消費地、現地工場建設という資本輸出の手段もある。超過利潤は得られるなら多国籍企業はその道を選ぶ。⇒多国籍企業は本国との間で企業内の貿易をする。この意味でも近隣優位。

コレは資本主義というシステムに内在した問題系の展開です。

ソ連邦崩壊、改革開放以降の典型がEU東方拡大です。

そのためEU本国中間層は分解し、東ヨーロッパ圏にエレファントカーブの図、現象が生まれた。ウクライナロシア戦争の経済的な動因はこれです。

 

>グローバル資本制は基本法則はヒトとモノの地球規模の平準化(カネとは指摘しない)ですが、

>その場合、近隣諸国、諸国民同士のヒト、モノの平準化作用が先行します。

2023年編集追加⇒東アジアの韓国、台湾、中国の急速な経済発展と日本との並列化も結局、グローバル資本主義のこの特性によるところが大きい!

だからそれに対して国民レベルでヤキモキしても、トレンドへの無駄な抵抗。事実を知って受け入れること。

 @しかし、他方で、そうした地域の国境を超えたヒト、モノの密交流化に対する国民国家の枠組みに至上の価値を見出してきた近現代史によって形成された「歴史的国民」層同士の相互反発は避けられない

>それを回避するための一助は庶民同士としてお互い<多重的>に知り合うことである。

You Tube動画は最適のアイテム。

庶民レベルで撮影しアップしているので映画、ドキュメンタリー、マスコミ報道に比べて編集加工度が低い。

W、「赤い大地」とは四川盆地の赤い土壌のことである。

白ねぎを片方の手出て手づかみしかじりながら四川風味付け料理を食っている。

このヒトの活動しているところは四川省の首都成都ではない。4代重点都市で四川省から分離した重慶でもない。中国の田舎の手軽な業務用運輸手段はオート三輪車である。

 概要

「説明
赤いほこり(四川盆地土煙)の中で古いものを追いかけないでください。香りのよい道はねじれ​​て曲がりくねっています。
それはもっと勤勉でなければなりませんが、最終的にはQianmoを通過します。
私は普通の労働者であるファットドラゴ​​ンです一生懸命働き、一生懸命生き、3つの簡単な食事をし、普通の日を過ごし、そして単に毎日生きています!
あなたが私を好きなら私に会いに来てください!

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 ポピュリズムはいつまで海外市場を差別するのか? 民主主義は人々に酔ったふりをさせ、益州を中国のように扱う!

W。復古主義である。日本人である自分はまだここまでの理解はできない。

益州 - Wikipedia

「   先秦時代

殷代には巴人と蜀人の居住地であった。近年、四川省徳陽市広漢市三星堆遺跡が発掘され、3・4千年前にこの地に存在した古代文明の存在が明らかになった。戦国末期が巴と蜀を滅ぼすとこの地に巴郡及び蜀郡が設置された。」

W。要するに古代中国の戦乱の舞台であった中原の西端であり歴代王朝の地方統治の栄華盛衰の舞台であった。四川盆地とその北方

三国志地図|中国にも九州があった?州について分かりやすく解説 - はじめての三国志

 

W」。復古調中国ナショナリズム。孫文中華民国を理想化しているのか?中華民国政府が重慶に移ったころ、四川省はなかった。いろいろな考えの人がいる。

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空前沉重的中日《馬關條約》 - YouTube

 W動画の解説である。台湾問題への歴史的な見解であるが、肝心の19454年以降の記述がない。

  引用 翻訳アプリ使用

「1895 年 4 月 17 日午前 11 時 40 分、清政府を代表して、李鴻章は馬関春帆ビルで日本との下関条約に署名しましたが、これは屈辱的で屈辱的でした主な内容は次のとおりです。列島(W台湾と島々)と遼東半島が日本に与えられ、日本は2億3000万テルルの銀で補償され、沙市、重慶、蘇州、杭州が条約港として開かれ、日本人は条約港に工場を開くことが許されました。 1895 年 5 月 8 日、中国と日本は志府(現在の山東省煙台)で両国の皇帝からの批准書を交換し、条約が発効しました。

     「下関条約」は、「南京条約」、「天津条約」、「北京条約」以来、最も重い不平等条約です。 それは現代中国社会に深刻な害をもたらし、中国を前例のない深刻な国家的危機に直面させ、中国社会の半封建的、半植民地的な度合いを深め、中華民族にとって前例のない重い足枷となった。

下関条約」の5大項目のうち、中国は土地の割譲、開港、条約港への工場設置の3項目で領土と主権を失った。 その結果、中国は固有の土地の所有権を失い、沿岸港に対する独自の管理権も失いました。

      第一次アヘン戦争後、「南京条約が調印され、清政府は約1500万両の銀を補償として支払った。 アヘン戦争後、清政府は「天津条約」と「北京条約」で合計1800万両の銀を支払った。 下関条約」の賠償金は2億3000万テルル銀に達し、この巨額の賠償金は日本の年収の3倍以上に相当し、その85%が日本政府の軍事費として使われ、将来、中国に侵攻するための日本軍基地。

     それどころか、巨額の賠償金は中国の財政に深刻な損害を与え、中国国民の負担を大幅に増大させ、長い間中国の「首の束縛」となっています。 当時の清政府の財政収入は、年間 9000 万テール未満でした。 賠償金を支払うために、清の裁判所は国内債務を発行し、税率と種類を引き上げました。 勇敢な人員削減、米の値下げ、旗兵の給与控除、塩の値上げ、局員の給与削減、タバコとアルコール税の再導入など、国内のビジネスの不況、国民の苦情、およびどこでも戦争。 しかし、国内債務の借り入れは、巨額の補償のバケツの落ち込みです. 下関条約」は、帝国主義者が中国でさまざまな軽工業と重工業を運営するための条約基盤を提供しました。 帝国主義勢力は「利益の衡平」条項を引用し、中国の条約港に工場を設立し、中国の資源と労働力を奪って莫大な利益を得たが、台頭する中国の国営産業は苦戦していた。

     遼東半島北陽の玄関口であり、山東半島と隣接し、渤海を取り囲んでおり、南端は旅順軍港であり、遼東半島の割譲は国のこの部分を失っただけでなく、直接的にも北京・天津地域の安全を脅かした。 ロシア、フランス、ドイツが介入した後、遼東半島は切り離されませんでしたが、代わりに日本は「遼東手数料」のために清政府から3000万両の銀を強要しました。

     強盗の性質は略奪することであり、日本の成功は中国をさらに分割しようとする西側諸国の野心を呼び起こした。 列強は「三国干渉と遼還」を契機に互角の戦いを繰り広げ、清は列強間の利害対立と対立の犠牲者となった。 ロシアは遼王朝の英雄であると主張し、強奪の爪を中国北東部にまで伸ばし、一連の不平等な秘密協定を通じて、東北鉄道と中東鉄道の道路建設権と土地の占領、採掘、森林伐採を奪いました。 , 軍事駐留と鉄道沿いの管理. 地方行政の特権と海軍基地を建設するための旅順の占領は、北東ロシアの影響範囲を作りました. ロシアの中国東北部への進出は、日本に大きな刺激を与えた。 もともと日本は、日中戦争を通じて北朝鮮の併合を図り、ついには中国東北部を占領したが、三国の干渉によってその悪意は破綻し、日本はこれに大いに動揺した。 日本は秘密裏に準備を進め、10年後、中国の権益を奪うために日露戦争を挑発し、中国人民は再び窮地に立たされた。 盛景将軍の概算によると、この戦争中、東北では 20,000 人が戦争で死亡し、財産の損失は 6,900 万テールの銀に達しました。 清王朝の王族の先祖の神聖な古い宮殿、霊廟、および多くの宗教的および文化的建造物でさえ、避けられず、両国の軍隊によって配置され、略奪され、破壊されました. ロシアは敗北し、日本は中国東北部におけるロシアの勢力範囲を掌握し、日中戦争の目的を達成し、将来の更なる侵略の基礎を築いた。 それ以来、半世紀の間、中国東北部に平穏な日はありませんでした。 ドイツも英雄を名乗って報酬を求め、ついに膠州湾を手に入れた。 西側列強が中国に侵入・侵略し、清政府の支配を強め、民衆の暴力的な外国人排斥を引き起こした義和団の乱をきっかけに、八カ国連合軍が中国に侵攻し、事態は悪化し、中国は完全に半封建体制に陥った。そして半植民地。

     台湾省中国最大の沿岸島であり、台湾には澎湖諸島などの大小の島々が70以上あり、台湾海峡を隔てて福建省から遠く離れており、非常に重要な戦略的位置と経済的価値を持っています。 . 日本の台湾占領は、貴重な資源を略奪しただけでなく、台湾をわが国の東南沿岸地域への侵略の拠点にした。 日本が1894年から1895年の日中戦争を通じて台湾を占領した後、日本は「統合計画」を実行し、計画的かつ段階的な方法で経済的略奪、文化的奴隷化、政治的抑圧、および軍事的侵略を実行しました.

     台湾を永久に分離するために、日本の入植者は台湾で帝国化運動を実行しました。
社会的慣習として、日本は春節などの伝統的な祭りの廃止を命じ、台湾の家族は日本の風呂と畳を使用しなければならず、女性は着物を着なければならず、食事は日本食を食べ、日本の神の前で結婚し、葬式をしなければならない.大和埋葬様式を採用する必要があります。
文化的には、日本の当局は、中国人が漢字を書いたり、中国語を話したり、学校で日本語を教えたりすることを禁じています。 中国人の中国ルーツを掘り起こすため、1940年代から日本の植民地当局は、台湾人が中国人の名前を使用することを禁止し、彼らの姓を日本のものに変更しました.

     日本は50年間台湾を占領しており、台湾は50年間いじめられてきました。
日本政府は戸別訪問して民間資金を探し、1944年だけでも台湾は日本のために1億1500万元の軍事費を調達し、そのすべてが日本の侵略戦争に使われました。
台湾は日本の南下の拠点として、日本向けの軍需品を生産しただけでなく、日本に多くの徴兵を提供しました。 戦争中、
20万人以上の台湾人が日本軍に徴兵され、そのうち3万人以上が戦死した。 この数字は日本政府が算出した数字であり、実際の数字はそれをはるかに超えています。
経済的には、台湾の大産業は日本の資本家によって独占されており、輸出入貿易は日本人によって完全に支配されています。

     台湾は古代から中国の聖霊の領土でした。 1624 年、オランダは台湾を侵略し、占領しましたが、1662 年、国民的英雄である鄭成功がオランダの侵略者を追放し、台湾を取り戻しました。 1684年、清政府は台湾政府を設立し、福建省の管轄下に置きました。 1885年に台湾省に改称1895年に日本に盗まれました。 抗日戦争が勃発した 1937 年、当時の国民党政府は中国の対日宣戦布告において、日中関係に関わるすべての条約、合意、契約を破棄し、下関条約を破棄することを明確に宣言した。当然廃止。 1945 年、14 年間に及ぶ対日抗戦の末、中国人民は最終的な勝利を収め、失われた台湾の領土を取り戻しました。 台湾の同胞は爆竹を鳴らし、先祖を敬い祖国への帰還を祝って喜んだ。」

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>もっと深い意味を付け加えると、

@欧米的歴史発展コースを比較対象の物差しとした刷り込みをリフレッシュすることである。

@入門レベルの<学問>=結局は<学的>書籍、を検討しなければわからない。感想排除、事実を項目別のまとめている。

 

その場合、圧迫してきた民族と圧迫されてきた民族の差異を念頭に置くべきです。⇒ロシア、ウクライナ関係には間違いなくその政治関係が歴史的にあった。

>この仮想現実的あるいは実存的相互依存、相互反発の戦争手段を経由しない政治解決を政策で行動で実行するのが、政治家の役目だと考えます。

 

人間は伝聞よりも体験したことや実際に目撃したことが、一番脳裏に焼き付く。その意味で動画はフィールドワークできないものにとって良い研究材料である。

1950年代から1960年代初期、日本映画黄金時代の映画に魅かれたのも、そこに戦前社会文化の残滓と戦後の成長、共存、そして葛藤を画面を通じて観察できる楽しみがあったからだ。初めて映画館で1950年外のモノクロ、スクリーンに映し出される当時の風景、俳優の仕草、言葉使いを見たときは衝撃だった。今は亡き銀座の並木座だった。それ以降、ココに通ってほとんどの名作をみた。成瀬巳喜男に魅かれていったのもここだった。

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W。①共産主義者、②マルクス主義者、③レーニン主義者のいずれでもなかった。

①は党派活動、政党集団活動を伴い政治の世界を生き抜かねばならない。

マルクスには当初より疑問があった。マルクスは「資本論」だけと決めていた。同時代、マルクスは教科書的に研究されていたが、竹中平蔵がいうようにマルクスは学者であると割り切る、コレが多くのもののやり方だったし、ほぼ読み切った自分の最終結論だった。

当時のいわゆる新左翼マルクス以外の共産主義社会主義を探し求めていたが、総合的に理論化できず活動家レベルでは急進民主主義的+実存主義的徹底行動主義を武器にしていたが、上の世代が党派の枠組みでタガ嵌めしていた。共産党社会党協会にとってマルクスは「聖典」のごとくだった。だから両者は活動形態が違う。新左翼の党派の学生活動家の活動形態は不適切な表現かもしれないが統一教会のようなもので一人一人の活動家の活動量がものすごく要求され普通の人がやらないことをやる異次元空間であった。加藤登紀子さんの夫が活動していたグループは上の世代からの党派の枠組みが緩く(そもそも活動家の量に比べて上の世代が手薄)急進民主主義的+実存主義的徹底行動主義の典型であり、その気のあるモノには入りやすく離れやすいところだった。こういう体質が党内分裂における行動特化の赤軍派を生み出した。

その後、資本論の世界の哲学的読み込みが流行っていたが感化されることはなかった。そもそも資本論1巻の三分の一はイギリスの状況分析であり理論に純化した本ではない(理論部分と状況論が交互に配置されている)。

経済理論とは本質的そういうものだ。

レーニンは尊敬する人物である。

1917年10月ペテルブルグの蜂起はレーニンがいなければ、蜂起までこぎ続けることはできなかった民衆の力がそうさせたのだが政治指導者と民衆の転倒した関係が、1920年代から30年代にかけての世界金融資本主義の行き詰まり凶暴化(イタリア、ドイツ、日本~今でいえばG7~)という外部環境もあって、スターリン主義という歴史上固有の社会経済体制を生み出した。

さらに自分を左翼であると今まで一度も思ったことがなかった。曖昧な居場所はなかった。

最後の方にゴルバチョフの話が出ているが、意見は全く違う。

「中国は社会主義か」かもがわ出版

という本はコーディネーターが共産党の政治家、理論家なので(マルクスレーニン共産党路線にのっとっての仕分け作業につきる)寝ぼけたタイトルになっているが、5人の中国分析学者~物差しがはっきりしているので自分にはわかりやすい~によるスターリン主義とは何か?中国の体制は具体的にどのようになっているのか?実に示唆に富む内容がある

イロイロ中国について語っても基本的なことを知らない場合が多いのではないかな。

スターリン主義というのは、先示した二つの理由以外に

農業(農村農民=多数派、食料供給源)工業(都市、労働者市民、工業製品製造)をどういう政策で上手く回していくのか、という厳しい時代に

政治独裁が強権発動を背景に強引に農産物を安く抑え工業製品を高くし、同時に一時期、農業の一部の生産、産物の販売の自由化もあったが、集団化を進行させる工業優先政策をとったところに発する。レーンの有名な文言にソビエトとは電化である」というのがある。革命後存命中のレーニンの文言(包囲された実験国家~過渡期社会一国社会主義を標榜するスターリンよりもまだマシだが青写真は描けない)を神聖視し一面的猪突猛進で実行したのがスターリンであり強権バックの号令で急進的工業化政策を推し進めようとした。当然にも反対派の暴力大量排除、人民の委縮で生産は低下した。そこに第二次世界大戦ナチスソ連侵攻が始まった。毛沢東大躍進政策は党内粛清はなかっ方位相は同じである。

スターリン主義とは先進工業国との連携抜きの世界革命とまでは今更いうつもりはないが)一国社会主義達成可能論でありそのための政策と要約できる。もともと無理筋のことをやろうとしているから矛盾をためる。

ソビエト社会主義連邦共和国が1990年でつぶれて(70年余り持った)

中華人民共和国がまだあるのはどうしたことか(計算上、2025年ごろ潰れる)

@現ベトナムの正式名はベトナム社会主義共和国というらしい。

@「「中国は社会主義か」かもがわ出版

にはこういう目付は一切ない。

一国社会主義だからダメなんだという文言は一切ない。

一国で社会主義は達成できない!資本と商品は古代よりあった。社会主義理論が産声を上げたのは19世紀。源流をたどっても18世紀後半。資本主義が社会主義を生み出したといって過言ではない。加藤登紀子さんの明るいマルクス話と社会主義に付け加えるのはとりあえず以上である。反俗日記は気難しい。彼女に直接会って話をしたことはないが、ある時、横顔は見たことある。コレと思うところには出かけ歌う凄い人だとその時感心した。言っている内容はフレキシブル、Wと違って頭柔軟。容姿も瑞々しい。

関西の引退した有名司会者は今までインタビューした中で一番頭が良い、と思った人は加藤登紀子だったと回想していた。兄は住友金属の副社長だったとは知らなかった。噂で活動家と思っていた。

しかし、なぜかYou Tubeを途中まで聞いていると照れ臭くなってやめたくなる最後まで聞いたのはこの回だけだった。芸能人、歌手として入り込めない(好みとは言えない)が、身内意識がある。

この前別のところで、偉大な母親の子供として、女として妻として母としての常民の<思想>みたいなものを滔々と語っていた。大地に根を張った自然流の考え方である。

 そういえば近所の高齢者女性は毎朝、3キロを30分でウォーキングし5Fの自宅まで階段で帰る。声はソプラノみたいによくとおる。ある時話し合ってみると82歳とはびっくりした。若くして離婚し4人の子供を育て上げた。自分の周りの80代女性は老け込まない。人生100歳は女性に当てはまる言葉である。女性の年寄りは何となくかわいい。現生人類はそうできているのだろうか。

加藤登紀子 - Wikipedia

1943年生まれ、80歳。満州からの引き上げの記憶はないだろう。しかしそのころのことはよく語っている。後から学んだのだろう。

80にして難しい分野の本を枕元に置いて読んでいる。歌手、俳優、作家は職業柄不規則、集中生活をする人が多くそれが原因で体調を崩すが、規則正しい生活を心掛けているとも思えない。

これといった運動はやらないという。母親は101歳没。