JR関西空港行、和歌山線(先頭車両は空港行~日根野駅で連結切り離し、待ち時間5分余りで、和歌山市方面の車両出発する。紀伊駅は紀伊山系の渓谷を過ぎトンネルをでて紀ノ川沿いの和歌山の平野部を眺望するところにある。駅の背景の山並みは低いが山間部、電車で10分ぐらい走行するほど深い。
>下の駅の風景は根来寺訪問のブログと全く同じ。画像処理する時間が無い。スマホ写真は縦長すぎる。修正する。2024,11,4。
近畿大学生物物理学部、和歌山キャンパスができたおかげて和歌山バスの便数が増えたのか?バス停の時刻表を見ると、学生さんの登下校に合わせて4~5本/1h、日中は2本/1h
駅前に飲食店やコンビニの類のある気配はなかった。
>帰りのバスで学生さんが思想の雑誌<ユリイカ>を読んでいた。今頃の学生さん、と一括りにできない、と思うところはあった。
この道路自体が紀伊山系から紀ノ川に緩やかに下る扇状地のうえにある。根来寺に向かう道は緩やかな坂道。背後に紀伊山系を抱き小川が流れる農耕に適した最高の土地だ。坂沿いに江戸時代の庄屋があり今も住居になっているようだ。中世の根来寺は豊饒なこの地域一帯を寺領としていた。境内に8000人もの僧侶、僧兵が居住していた。その昔は岩出市の隣の紀ノ川市に国府と国分寺が置かれていたことから、この一帯は下流に雑賀の港を控えた豊穣の地であり、紀州の政治と文化、軍事の中心地だった。
>種子島に漂流した南蛮船(ポルトガルだったかな?)によって鉄砲は伝来したが、最初に火縄銃の現物を持ち帰ったのは雑賀衆であり、鋳造場所は根来寺の門前町だった。
>芝辻何某が鋳造し、この家系が雑賀衆、根来の僧兵にいち早く火縄銃を供給した。
@そこからすぐに堺に鉄砲鍛冶が複数現れ、数年後織田信長の鉄砲隊が生まれた。
@しかし、雑賀衆(今の和歌山市一帯の4郷)根来衆の銃器の武装と射撃術は先行していた。雑賀衆に支援された織田信長兵団の大阪本願寺攻めはかなりの年月がかかった。
>根来寺に向かう標識から県道を500mぐらい行ったところに地元の大きなスーパーがあるが道路沿いに広い駐車場があって表に看板が出ていないので気づかなかった。
ここより上は自動販売機しかないと察知。コンビニ発見!時間不足で歩きながら食べられるバナナとカロリーメイトを買った。
地図に載っている大谷川。8000人居住の根来寺を水源。
池の向こう側に見えるのが根来寺に向かう坂道の目印になる図書館。道標を見落として真っすぐ道なりに歩いてしまった。500Mぐらい歩いて泉南市(大阪府)の大きな標識を正面見て流石気づき引き返し、目印の図書館を想い出した。事前に現地のMAPを確認しなかった。
>現時点のこの地域は想像以上に根来寺を中心に人的経済的に回っていない、事を想定しなかったのだ。
知る人ぞ知る、典型的な根来寺は今はなくなっている。観光寺でもない。
が、真面目に寺の運営をしている、とみる。そういう目で見てこの一帯の雰囲気から日本中世史を想像するのも面白い。スマホ撮影は歴史の想像行には邪魔になるとつくづく思った。
抜群の地形。中世はこんなに草深い一帯ではなかったはず。ヒトの往来は今よりももっとあった。
この標識を見落としていた。大阪方面から車で来る人向けの標識で下から上がってきて見落とした。今から振り返ってみると写真の背面に大谷川が流れ、その上流の水源に沿った正しい位置根来寺がある。人間の居住、農耕にはまず水だ。ところが反俗日記の<日本のファンダメンタル>で取り上げたように日本列島原住民一人当たりの利用可能な水量は決して多くない。急斜面の山地多く狭隘な平地、急流の川で保水力が少ないからだ。台風はともかく、水害、地震と津波、火山噴火に対する備えに国力の一定部分を消費することが大前提である。
道端の雑草。中世とは随分、種類が違っただろうな。景色が違っていた、とおもう。今日本全国の道端の草は繁殖力の強い外来種。
完全な江戸時代の建築様式。
向こうに大門。中世は両脇に僧坊が一杯あったのだろう。紀州の有力地侍の息子たちは出家して各坊主になったのだから、根来寺の僧兵が強いのもうなずける。
寺は学僧と行人に別れ行人が寺の実務の主導権を握るようになった。通称70石の寺領があるのだから、当然の成り行きだろう。
飲食業が成立しない。
寺内部(宗教)の事はさておいて、訪れるひとが少なくなったことは間違いない。昔は日本史の教科書に段落を割いていた時代が有り、その方面の関連本の出版の影響もあるのか雑賀衆と共に根来寺と云えば知る人ぞ知る、だった。グローバリズムの影響下、織田信長、秀吉の華々しい栄光と挫折にだけスポットライトを当てるように日本史を単純化してアレコレ語る風潮がその陰に隠れた緻密で現代にも参考になる歴史を覆い隠している。結果、根来寺や雑賀衆は顧みられなくなっている。
秀吉が籠城し抵抗する雑賀衆の一般兵の武装を解除し放免したのは<原刀狩>⇒まだ歴史用語になっていない。大きな歴史的事案には事前に予行演習がある。
>即物的な歴史観が大切な想像力のある歴史探訪を閉塞させている。
観光寺としては厳しいな、と現場でおもった。
良い写真が獲れたが撮影前の思案が歴史探訪の想像世界を萎えさせることが分かった。旅は自分のためにやるものだ。
秀吉軍の侵攻で焼失しなかったと云うが、自分が今まで見た寺院のなかで九条家建立の東福寺。あんな巨大な威圧感のある寺とは全く予想していなかったので当時の貴族の権勢の凄まじさを想いびっくりした。
反俗日記の根来寺、探訪の前に参考にした方は先に歴史資料館に行っている。よく解っている。来館者は誰もいなかった。撮影は気軽にOKされた。
ココではデジカメで撮影した。
> 発見をした!次回、デジカメ写真をコピーする予定だ。
根来鉄砲年表
1543年天文12年種子島に鉄砲伝来
堺橘屋又三郎 種子島に来島
種子島八坂金兵衛 最初の国産銃製造
↓
1837年 天保8年 大塩平八郎の乱 芝辻長左衛門連座す。⇒名門の鉄砲鍛冶も乱に参加していた。
大塩の乱には庄屋クラスの豪農、商品作物で成功した農家、など富農層と陽明学の私塾の門下生が主体となったが、根来寺の門前町で最初の鉄砲を作った芝辻氏の末裔が参加していたとは。コレまで乱の文献にはふれられていなかった、と記憶している。
なお、当時の火縄銃の模造品?が展示されていたが、ちょっと前のモデルガンの改造拳銃みたいな簡単な作りで着火部分、火薬の入手、管理が銃大量実用化の肝であろう。
日本史コンテンツ「系図・地図・年表で学習する日本史重要事件」[火縄銃の撃ち方]
■ 第63話 ■ 火縄銃できたけど火薬がない - Onlineジャーニー
■ 第64話 ■ 火薬一樽、娘50人也 - Onlineジャーニー
「硝石は、火薬の原料として使用されました。黒色火薬は、硝石に硫黄と木炭を調合して作られます。」古土法 培養法
岩出市歴史資料館前の駐車場。以前は根来寺の境内だったのか。背景の紀伊山系の風情がなんとなく中世の根来寺を想像させる。最高の場所に根来寺はあった。中世の荘園の原風景である。
寺の焼失の跡、長い江戸時代があった。下の写真は民家である。
かつての門前町に古い大庄屋ができた。金田家。古い庄屋屋敷を金田という人が買ったのか。元から金田家という庄屋がそこにあったのか。日本の古い農家の家柄は最大に遡って1700年代、拡大家族から独立自営百姓ができた時代。地侍層は兵農分離で解体され帰農組と城下町組に別れた。
鶏の倍ほどもある大きな鳥で近づくと頭を足下に下げて威嚇しにくる。
なぜか3匹、一緒にいる。顔当たりの表情を見ると怖い。飛べない鳥である。
レストラン風閉鎖。この店の作りを見ると以前はそれなりの来店客がいた。この時代の変貌は何故、と問わずにいられない。
隣の敷地に経営者が住んでいるようであった。ポスターは「いしん」2024年衆院選区候補者だ。
国分屋営業中。
帰路の下り沿道に金田家跡が無かったので、道を間違えていると勘づいたが道なりに行く。路を下って県道?にでると、しゃれたスーパーがあったがバス停が見当たらない。客らしきおばさんに聴くとまったくしらないという。この辺のヒトの脚は自家用車なのか。親切に丁度出ていた若い男の店員さんに聴いてくれた。店員さんは道まで乗り出して親切に教えてくれた。県道をバス停方向に歩くがまだ見えないので今度は若い女性に聴く。一緒にバス停方向に歩きながら、「ここはいいところですね~」と何度も言うと「ありがとうございます」と応えてくれた。正直な感想だった。この一帯は本質的に人間の住むべき環境である。だから中世に国府と国分寺、根来寺ができた。そういう含意をもっていったのだが。
実景は都会でもなく田舎でもない、日本のありふれた無秩序に開発が進んだ地域だった。何も見るべきものが無い普通の土地柄であったが、よく風景を観察すると背後に奥深い低山を抱え空が開け小川が低地の紀ノ川方面に流れる農耕地としては絶好の地形であり根来衆の拠点であったのは頷ける。
覗き込むと小さな魚が一杯いる。
次回出来たらデジカメで撮った歴史資料館の展示資料をアップする。
結論、
こういう写真を撮る作業を頻繁にやっていると気が散ってただでさえ目の前にない日本中世の風景を調べた事をもとに現地で妄想できない、とわかった。
外でめしを食う前に写真を撮っているのと変わらない。
現日本の景色、風情に古代や中世の残り香は無い。
想像や文字の世界にあるだけだ。そういった幻想世界を原思想に取り込もうとしていた反俗日記の過去記事は何だったのだろうか?否定感がうまれた。その意味で司馬遼太郎は正しかったのか?根来寺一帯からヒトの足が遠のいた。全文でぐずぐず書いたのは理屈であり、一般客には関係が無い。江戸時代紀州藩に庇護されていたとあるが、それほどでもなかったと思われる。大きな寺の割には近隣に神仏習合神社が無いのも不思議な現象である。