反俗日記。
根来寺に行くことにした。過去の日根野「庄」への小旅行の続きだ。
歴史
「天福2年(1234年)に九条道家が開発を申請したところ官宣旨が下り、日根荘が成立するに至った。九条家領は寄進地系荘園が多く、九条家自らが開発した日根荘は特異な存在であった。」
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W。以下の観点からの小旅行であった。
「中世当時の様子は『九条家文書』や、文亀元年(1501年)3月から永正元年(1504年)12月まで九条政基が入荘した際に記した『政基公旅引付』などの古文書から窺い知ることができ、
戦国時代、日根荘の領主であった九条政基が長福寺に4年間滞在していた時に記した日記。村の生活や人びとの様子がいきいきと記されている。
W.日本中世の庶民生活(荘園農民)を知る重要古文書である。研究書を読んでも楽しい。下線部分に根来寺が出てくる。根来寺の僧兵は結構深い紀伊山系を越えて紀州方面から攻めてきた。日根野庄の奥の取水口に近接し寺と寺院がある(地元の桜の名所でありこの一帯な結構なしゃれたところ。小歴史空間で中世に想いを馳せることができる)。渓流沿いの車道を遡ると犬山地区の開けた小盆地が有り、小旅行ではそこも訪れようと歩いてみたが、時間の都合で断念した。
引用
「戦国時代、日根荘は和泉両守護細川氏や地元の国人衆、根来寺などによる略奪が続いており、九条家への収益が途絶えるようになっていました。それを解決するために、文亀元年(1501)九条政基は日根荘へ下向し自ら直接支配を行いました。政基の直接支配は永正元年(1504)に帰京するまで続きましたが、その間に政基が残した日記が『政基公旅引付』です。⇒古代、中世の貴族は学者さんでもあった。その点が武士(封建軍事貴族?)とは違う。
引用
「甲乙丙丁戊」と五巻ある日記には、政基の日常だけでなく当時の日根荘の風習や暮らしが活き活きと描かれています。また、現存する寺社堂や日根荘の祭礼、人質事件、戦乱、水害・旱害、疫病、犯罪などの記述も残されており、地方に下向した貴族の暮らしだけでなく、16世紀初頭、戦国時代の地方社会の生活や風習、また和泉国を含む畿内の政治史を研究する上で大変史料的価値の高いものとして評価されています。」
⇒W。村掟が凄まじい!残酷な暴力と同調圧力に裏打ちされている!
飢餓に備えてムラで貯蔵しておいたドングリをシングルマザーと子供が内緒で食ったからと云って捕捉し斬首の刑に処している。
W.ムラと近在の連携は疎外されている。その実態が端的に表れたのが人質事件である。
市が立つ和泉方面(戦国大名細川氏の支配下、隣の熊取は国人衆の地侍、二重に年貢を払わされる荘園農民もいたから九条の年貢が減る。)に行った村びとがいざこざに巻き込まれ捕捉されたことに端を発する騒動が人質事件である。
『政基公旅引付』を大きな視野で読むと中世貴族の権威に頼った荘園支配が武士、の軍事力によって切り取らて行く推移がリアルの描かれている。
>根来寺(70万石を自称している)の僧兵(根来衆)の基本的動態は戦国大名勢力、国人衆(地元の侍)と変らない状態であったことが山を越えての日根野庄への軍事圧力からもが解る。
九条家。
東福寺に行けば、中世貴族社会で摂政など要人を輩出した九条家の権威の大きさが解る~西本願寺よりも大きな寺である。威圧感がある。
『日根野村絵図』[2]に描かれた寺社・ため池・丘陵などの景観配置は現在まで保持されている。」
下図の下の方にJR紀州線、(関西空港線~~空港線は日野駅を過ぎて急カーブを切って人工島の空港に向かう~~)日根野駅があり、上の寺らしき絵の脇の渓流にムラの取水口がある~~「旅引き付け」に取水口が水害で流され村びとが力を合わせて復旧<合力>する様が描かれている~~(5M以上の下にそこそこの水量の渓流。一帯は整備されているがウィークデーは訪れる人はいない。ユックリ日本中世の歴史空間に想いを馳せることができた。)。この渓流が山中を遡ったところに開けている小盆地が犬山地区。
>小盆地の奥深い山の向こう側、南東方向に根来寺がある。根来衆は山をこえて日根野庄に度々侵入してきた。
>寄進系荘園の多い九条家では珍しい単独で立荘した日根野庄は和泉側から戦国大名細川氏の圧力、紀伊山系をこえた側から根来寺の僧兵の切り取りの脅威にさらされいた。
そこで九条家当主の元摂政、九条政基が下向し直接荘園を管理しようとした。日記はその4年間の出来事を細かく描いている。ちなみに本人は殺人案件で摂政を解任されている。
>下図(昔の日本史の教科書に載っていた)の下にJR日根野駅。右側の道を辿って取水口のある寺(寺院付属)に向かった。
この道はおそらく下図のまま近世を超えて現代まで残されていたのだろう。道中に日根野庄時代の面影を追い求めた。ある門標に記された苗字は荘園管理の役職そのままのものだった。真っすぐな道ではない。家々も連なっていなくて要所に点在している。家並みが無いところが素朴に大昔の荘園の名残を感じた。一車線よりも少し広めの路は田畠の在り様に合わせて適度に曲がりくねっている。そういった道中の光景を眺めていると想像力が掻き立てられた。歴史を想像する旅は時間がゆっくり流れていくようにしたい。
>以前、訪れたときは日根野駅前は大型スーパーなどがあったが少し歩くと家並みは疎らで宅地開発は日根野一帯に及んでいなかった。今はすっかり変貌しているだろう。
@根来寺探索は別の日にすることにした。
>ただしこの寺は歴史のハイライトをどのあたりに持って行くのかが難しい。徹底した俗人なので宗教には関心が向かわないところがネックになる。
高野山(旧仏教)の高僧が分派し(高野山系新興仏教?真言宗は原始仏教の名残である密教的要素が強いので新興宗教の分派は生まれ難い?)根来に寺を構え、兵力を備えた勢力を拡大していく。
その時代は、大阪に本願寺(今の大阪城跡)の巨大勢力があって戦国の雄、織田信長の長期戦を構えた。この時期の本願寺勢力の陣形に根来寺は入っていたのか、同じ紀州の雑賀衆は記憶にあるがその一列に根来寺が入っていたから、後に秀吉の絶滅の標的にされたのか。この辺を調べてから根来寺に行こう。
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粉河寺縁起絵巻
美的感覚が無い絵巻である。省略。
「鎌倉時代には天台宗の寺院として550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。
戦国時代の天正元年(1573年)には境内南側の猿岡山(現・秋葉山)に猿岡山城を築き、寺の防衛を図ったが、天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州征伐にあい、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失し、猿岡山城も陥落した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損している。」
反俗日記。この項は中身の濃い長文であり、興味のある分野の史実が記載されている。コレまで知らなかったことが多すぎる。この辺の史実はあまり一般に知られていない。日本中世の日本列島の分権体制が戦国の内乱を通じて最終的に信長、秀吉の軍事勢力の勝利によって中央集権化していくリアルな過程をこの紀州討伐の各項目は表している。とりあえず項目のタイトルと解説の要所を記す。
引用 導入部分である。
「信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。
>根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。」
中世を体現する国、紀伊
ルイス・フロイスによると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆[1] の名を挙げている
15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。
治外法権の地、境内都市 W面白い!日本中世の地方分権の実態である。本願寺VS信長のもう一つの視座である。前者が武装制圧されたことの意味は日本民衆の自己統治能力喪失に繋がった。ヨーロッパ中世史の教権VS世俗権力の在り様は日本人には感覚的に解り難い。。
引用
「中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない聖域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった[7][8]。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性[9] と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市、宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である
「惣分」と「惣国」
「当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶と寺の実務を執り行う行人があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏[11]、杉之坊が津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉・河内・大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人[12] たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた[13]。つまり、実態としては根来寺の看板を借りた地侍の連合による統治だった[14]。地侍らは境内都市根来の富力を背景に和泉南部へと勢力圏を拡大していった[15]。」
雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓[16] 持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった[17]。地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」と呼ぶ。雑賀惣国の範囲は海部郡から名草・那賀郡の一部にまで及んだ
雑賀攻め
「元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである。」
開戦から「降伏」まで
その後、ゲリラ戦に持ち込まれ戦局は膠着状態となったが~~~信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し、信長と戦うことになる。
再起と近隣への報復
70,000 - 80,000人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。
翌天正6年(1578年)5月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を1か月にわたり包囲攻撃(第一次太田城の戦い)したが、落城には至らなかった。
石山開城後 雑賀の内紛
天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった[27]。
天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平尉(平丞)・平次兄弟は逃亡、根来寺泉識坊[28] は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した
高野攻め
天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝[35] は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された[36]。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。
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6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃し勝利した。高野山は危機を脱し[38]、8月21日には恩賞が行われた。
秀吉の紀州攻め
W.なかなかの戦国、軍事リアリズムである。
「根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に8か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など5,000人以上が居住していたとみられる[42][43]。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて留守の岸和田城を襲うなどしたほか、大坂への侵攻の動きも見せていたため、秀吉に強く警戒されており、秀吉側は根来寺を攻略する機会を伺っていた[44][45]。
本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し[46]、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。
以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、それまで領土の境界線などをめぐり関係の際どかった根来・雑賀の協力関係が生まれた。
鈴木 孫一(すずき まごいち)は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀 孫一(さいか まごいち)や平井孫一(平井は孫一の居所)という名でも知られる
孫一やその一族のことは分かっていないことが多く諸説ある
大坂襲撃
根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒は日高郡の湯河・玉置氏の加勢を得て和泉へ出撃。さらに淡路の菅達長[50] の水軍も加わり、18日には水陸から岸和田・大津を脅かした
住吉や天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らと戦った。未だ建設途上の大坂の町は全く無防備で[52]、紀州勢は大坂の街を破壊し焼き払いつつ侵攻した[53]。また盗賊が跋扈し略奪が横行し、その治安の悪化は安土炎上時に匹敵したという。
この攻勢は秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に行われ、秀吉は一度は予定通り21日に大坂を出立したもののその後また大坂に戻るなど出鼻を挫かれることになった。
またこの時期、根来・雑賀衆は四国の長宗我部氏とも連絡を取り合っていた[58]。
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和泉の戦い
吉は木食応其を使者として根来寺に派遣し、応其は拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋した。斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、このため応其は急いで京都に帰還した[60]。
ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。
根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計9,000余人の兵を配置して迎撃した。
防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁[64] 以下根来衆の精鋭1,400 - 1,500人、他に婦女子など非戦闘員が4,000 - 5,000加わっていたとされる。傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて8,000人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に進撃を阻まれた。
またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約1時間)の間に1,000余人に達した
この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか馬や犬猫に至るまで全滅した。
積善寺・沢城の開城
ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。
根来・雑賀衆の敗因
戦うたびに大きな犠牲を払うような不経済なことは極力避けたいというのが戦国大名の心理であった。ゆえに戦闘において前衛が大損害を被れば、それ以上無理押しをしないのが彼らの一般的な対応だった。そのため、根来・雑賀衆は、相手がどれほどの大軍であっても、先陣を切って攻めてくる敵の精鋭さえ撃ち倒してしまえばそれで敵を退けることができると考えていたと思われる。
だが、この時点で既に他大名を圧倒する国力と兵力を有していた秀吉は、兵力の損耗をさほど重んじなかったため、根来・雑賀衆側の思惑が外れた、との見方がある
根来・粉河・雑賀炎上
根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった[1]。残っていた僧侶は逃亡し、根来寺はほぼ無抵抗で制圧された[2]。その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。根来寺は3日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという
土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し[1]、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た
高野山降伏
高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に1万石の所領を安堵された
*************W。以下の史実と歴史の見方は知らなかった。
>日本中世、最末期の紀州の地において「強大な権力者を頂点とする中央集権体制」に対する地方分権、自治、人々の無縁を主張する苛烈な戦いが展開された。
@信長秀吉の天下統一以降、民衆の顔が歴史の舞台から消えていった。
中世と近世(意義)
紀州征伐はその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。
「無縁」の否定
織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。
信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した⇒W.世俗権力に対して教権の自律社会が無ければ宗教は世俗社会に侵犯される。山の中にこもって自己修練するしかないが「方丈記」の最後の鴨長明のつぶやきが大方の心根の真相である。本質的に神のいない日本的仏教系信仰では世俗を脱しきれない。オウム真理教はこの問題意識を持っていたが、権力志向に出口を求め挫折し、暴力に至った。
*****
これは外部に対する独立・中立性の放棄であり、無縁の思想からすれば受け入れられないものだった。こうして比叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。
>天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制(W.ヨーロッパの封建制は「分権」。日本の封建制は中央集権制。似て非なる体制である!さらに中国王朝の専制王朝体制もまた別タイプの統治機構である。)にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の思想は相容れないものだった。
一揆と地侍
戦国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかったW天下布武。
>信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。
太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。
続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、
すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、
>単なる被支配者である農民とに
>国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。
その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり(W人格的には領主の私的所有の土地と不可分な農奴<その意味で保護を受ける身分でもある>と百姓身分の違い<古代の身分支配の名残り>(Wヨーロッパ封建領主との違い)、惣国一揆が再び芽生えることはなかった[1]。やがてこうした体制は、徳川政権の時代に入ると士農工商による強い身分制度や藩制度などへと強化された。⇒W。調べる余地がある。
原刀狩令
寺社勢力や惣国一揆を存立せしめたのは、彼ら独自の軍事力による所が大きい。これらを解体するためには、寺社や地侍、そして農民をも武装解除することが必要だった。秀吉は太田開城時に指導層の地侍を処断する一方、一般農民は退城を許したが、この時農民の武装解除を命じた。この武装解除命令は、後年の全国の刀狩の嚆矢として原刀狩令と呼ばれる。
次いで2ヶ月後の天正13年6月、紀州惣国及び高野山に刀狩令が発せられる。武装解除させられた高野山にもはや権力の介入を拒む術はなく、寺社の中立・独立性は否定された。そして天正16年(1588年)7月8日、全国に刀狩令が発せられた[1]。⇒W.刀狩は武装したヨコのつながりに対する分断と武装解除であった。
結語
海津一朗は「太田の決戦は、中世を象徴する宗教的な民衆武力と、兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった日本史上のクライマックス」であり、「紀州は「秀吉の平和」、すなわち日本の近世社会の発祥の地であり、それに抵抗した中世終焉の地だったことになる」と述べている[2]。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、武家による一元支配の近世が始まる。
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反俗日記。2024年10月17日。10,16記事に挿入した。
根来衆と雑賀衆を調べていて、一番面白い情報だった。詳しく簡潔、深堀している。この記事一本で紀ノ川の河口の雑賀衆、上流の根来衆のリアルな実態が解る。
引用
共同体ごとに特色があって、宮郷・中郷・南郷の三郷は土壌も肥沃で田畑を多く有しており、住民はどちらかというと土地に根ざした生き方をしていた。だが海沿いの十ケ郷と雑賀庄は、当時は湾が陸地奥深くまで入り組んだ地形だったので、耕作可能な土地が少なかった。江戸期の史料ですら「田畑は砂交じり・潮入りの地を耕す・沼田多し」とある。なので彼らは生きていく術を、海上通商などに求めていかざるを得なかった。そういう意味では、雑賀五組はいささか性格が異なる2種類の共同体によって構成されていた、ということになる。
惣国内でも田畑や水利権などの争いなどはあり、組同士の争いは頻繁に行われていたようだ。」
~~
「
根来衆と雑賀衆の関係性を象徴するユニークな例として、泉識坊があげられる。根来を代表する行人方子院・根来四院のひとつであり、規模と実力的にはNo.2の座にあった泉識坊だが、この子院は雑賀庄にある土橋氏が設立した子院なのである。雑賀庄に本拠を置く土橋氏は、泉識坊を通じて根来にも強い力を保持しており、雑賀と根来、両地域に跨ってその影響力を及ぼしていたのである。
こうした例は他にもあって、中郷にあった湯橋家などもそうである。1486年にはあの蓮如がしばし逗留した、というエピソードを持つこの湯橋家は、敷地内に真宗の寺庵を設けているのだが、根来に威徳院という子院を持っていた。そして湯橋家の当主は、代々神主でもあったという。現代の日本人も顔負けのいい加減さ、よく言えば宗派に囚われない鷹揚さである。
なお、根来における筆頭子院、泉識坊のライバルであった杉乃坊の本拠地は那賀郡小倉荘であるが、これは雑賀の中郷・和佐荘の隣にあった。そうした関係で、中郷に対してかなりの影響力を持っていたのは間違いないようだ。(※誤りがあったので、11月22日に内容を修正しました)
双方とも各地で傭兵働きをしていた点でも、共通点がある。元根来法師で二十歳頃に還俗し、故郷の雑賀に戻った佐武源左衛門は、1560年頃から1580年にかけて、四国から畿内に渡って幅広く傭兵活動をしている。その彼の記録には、多くの根来衆が登場しているのだ。」
「その時々で味方だったり敵だったりしているのは、傭兵の宿命なのだろうが、互いに顔見知り同士で、戦うこともあっただろう。戦場で相対した当人たちは、別に悲壮な感じでもなく、もっとドライというか、南国らしいあっけらかんとした感じだったと思われる。そもそも雑賀にしても根来にしても、ご近所さん同士で日常的に出入りが行われているわけだから、昨日の味方が今日は敵になったとしても、特に感じることはなかったに違いない。(続く)」
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『路線バスと徒歩で根來寺へ。暑い日で体力を消耗するが、街並みや風景に和む。』岩出・紀の川(和歌山県)の旅行記・ブログ by fly-jinさん【フォートラベル】
反俗日記。旅慣れている。要領がよい。JR関西空港、紀伊本線、紀伊駅下車で根来行きのバス(バスのフロントに近畿大学行!)が1Hに3便ぐらい出ている。車以外の大方の根来寺紀行はJR和歌山市駅乗り換え紀伊線で紀ノ川を遡り岩出下車、バスで20分(1H2本?)根来寺バス停下車。
>近畿大学和歌山キャンパスなるものが根来寺の東側のできたおかげで通学生をもとより岩出市民もJR紀伊駅下車のバス路線を利用している。Wが最初に閲覧した根来寺紀行は上のパターンを利用していたのでバスの便数不足で苦労していた。
2016年(平成18年)市制へ。和暦は紛らわしい。
歴史はキチンと西暦に修正しなければ縦横の比較ができない。特に横の国際的比較が全球一体化の時代には必須。和暦で歴史を見ると日本列島閉じこもりの歴史感覚に陥る。
引用
「古来、岩出市を含む紀伊国(熊野地方)は、出雲民族が移住し早くから開け、日本最古の国を形成していたことが、「日本書紀」にも記載されています。
⇒W。この伝説は承知しているが(東大阪市の歴史資料館にもこういう伝説が文章化されていた。古墳時代の傍証。熊野ー明日香村一帯ー大和朝廷と出雲神社のある一体を大和朝廷神話の路線に沿って無理やり結びつけようとしている。真贋のほどが怪しい。歴史検証できる「考古学的」資料が無い。紀伊国は熊野地方であり紀ノ川一帯とは100キロぐらい離れている。山深い紀伊半島は海上交通でなければ紀ノ川一帯に出てこれない。熊野路は古代にはなかった。論外。東大阪の歴史資料館はこの説をとっている。
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大和に近いという地勢から長期にわたり中央政権とも密接な繋がりがあり、本市と紀の川市にまたがる国分荘には、国分寺が建立され、古くから栄えてきました。W注国分寺 - Wikipedia
古代、国分寺のおかれた地域は海岸からかなり離れた山を背後に頂く水利のある内陸部の平地である。
当時、沿岸地方の平坦地は田畑の水利ができる土木工事の技術が無く利用できなかった。山間から自然に流れる水利に向く背後に山が控えた内陸部に国府と国分寺がおかれた。全国の国分寺の地理を見ればわかる。奈良方面や京都に都があったのもそういう理由がある。
>その他の決定的な理由はエネルギー源と建築など様々な用途に必要な森林が身近にあることである。
@レバノン、パレスチナ地方の森林(レバノン杉など)は古代に伐採し尽くされた。
@アテネの周辺もはげ山になった。壁は石でも天井は木材、エネルギーは木。
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岩出市ホームページ
引用
「中世以降は、新義真言宗総本山「根来寺」が高野山、粉河寺、太田党、雑賀党とともに勢力を張り、豊臣秀吉に滅ぼされるまで、戦国時代の一時期を象徴する存在であり、戦国時代の根来寺の勢力は、大阪府下の岸和田付近まで及んだと言われています。
江戸時代は、紀州藩領となり、徳川御三家の領地として着実な繁栄(W??真言宗の分派は天台宗⇒浄土宗⇒浄土真宗のように各々確固たる地位を築けなかった)を築いてきました。」
W注
「①狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、②広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成W??までに行われた一連の改革」
⇒W.律令制度の法はあっても国司による地方権力の確立は実質的に旧来の地方支配者である古代豪族の支配力に頼っていた。律令制度後進地域の日本列島ではコレがリアルな中央ー地方支配体制の実態であった。
⇒W。大化の改新に対する戦後噴出してきた本当に実行されたのかどうかを巡る疑問に関して狭義の大化の改新、広義の大化の改新などと云うごまかしをして実際に大化の改新は実行された、と歴史を総括しようとしている。昔の日本史の教科書はストレートに大化の改新、リアル実行説を唱えていた。その後、発掘された木簡の文字などから日本書紀などの記述とつじつまが合わないようになった。
>なぜ日本の歴史(戦後は日本史、戦前は国史である。国史の伝統をじりじりと復活しようしている。)「学者」は大化の改新に拘るのか?
大化の改新が天皇制の革新性を含む連綿とした歴史を正当化する肝になるからだ(明治「いしん」
⇒敗戦後の日米安保体制下の親米反中天皇制の一貫性を匂わせる今日的国史主義者にとって天皇制の革新性を含む連綿とした歴史は肝中の肝・大化の改新、なかった説は削除したい。明け透けに言えば古代日本列島の天皇制統治機構の先進中国王朝に比べての後進性はできるだけ否定したい(国史的史観は形式主義。歴史の当たり前を修正したい)。
事が演じられたのは今の明日香村一帯(飛鳥時代 - Wikipedia区分されている)で蘇我氏物部氏が古代「王朝」の実力者であり古代王一族と「権力機構」を形成していた時代である。結局、この権力機構は王一族による蘇我氏の暗殺で崩れ、いわゆる聖武天皇なる人物の主導権による明日香村一帯から奈良盆地中央への遷都が行われた(その中間に遷都はあったと記憶しているが省略)。
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>正確な歴史知識が必要になった。気になる史実を逆算して記す
694年(持統天皇8年) - 藤原京に都を移す⇒W。明日香村と橿原の間の地域
672年(弘文天皇元年・天武天皇元年) - 天智天皇没する。壬申の乱。飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)に遷る。
645年(皇極天皇4年) - 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で殺害する。蘇我蝦夷自殺する(乙巳の変)。軽皇子が即位。孝徳天皇となる。
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>628年(推古天皇36年) - 推古天皇没する。遺詔を巡って群臣争う。
反俗日記⇒ここから先の歴史は怪しい!そもそも推古天皇36年が怪しい。中国の隋書など大陸の歴史書で検証するしかない。
なお、韓国の高校歴史教科書の和訳本を通読したことがあるが、歴史を遡れば遡るほど怪しい盛りすぎの人物や「史実」が記述されていた。ただし異常に細部に拘り日本史の教科書よりも難しい。韓国では歴史教科書」は近現代史と韓国史に分けて教えている。
近現代史は応答形式(討論)で授業が進行するようにできている。日本でいいうところ反日の歴史記述ではない、という感想を持った。日本帝国主義支配の歴史記述は避けて通れないので反日闘争を戦った史実は前面に押し出されているのは当たり前である。
それしか書きようがない。立場を逆にすれば納得できる。
日本史も似たようなものと想えばよい。検証に耐えられる一次資料が無いということだ。ヨーロッパ史も似たようなモノ。ましてや新大陸の南北アメリカには日本中世史が好きな自分にとって歴史は無いとの同じだ。
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607年(推古天皇15年) -『日本書紀』によれば、初の遣隋使(大唐国と記載)。『隋書』では2回目と記載。
「『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成」
「現存する日本最古の書物である。その序によれば、和銅5年(712年)」
「現在では家持編纂説が最有力。
巻1の前半部分(1 -53番)万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
平安京遷都(794)
20巻本万葉集
- 延暦2年(783年)ごろに大伴家持の手により完成したとされている。
- 皇室御物。平安時代中期の書写と推定されており、現存する最古の写本
- 鳥草木を描いたきわめて美しい継色紙が使われ、紙背継目の花押から伏見天皇の御物といわれる。その後、前田利家室芳春院の所有となり、子の利常が桂宮家に献上した。名はこれによる。1881年(明治14年)、桂宮家断絶により皇室に入った。万葉集の編纂に関わった持統天皇
- 645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)
593年(推古天皇元年)- 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となる。
W。実在が怪しい人物。検証に耐える一次資料は有るのか?
- 十七条憲法制定。
「日本最初の成文法。『日本書紀』、『先代旧事本紀』に、「皇太子
「平安時代初期に突如現われ、現在では偽書であることが学界の通説となっている[2]。しかし、平安中期以降長らく「我が国最初の史書」として信じられ、『古事記』や『日本書紀』と並ぶ重要な古典として扱われてきた[3]。とりわけ一部神道関係者の間では神典として尊重された[4]。また、後代の人物による創作ばかりではなく内容の一部には平安以前からの伝承を伝えたものもあるのではないかとして、今日なお研究対象として評価する学者もいる」
「序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に今井有順、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らからは偽書とされたが、国学者の橘守部は『旧事記直日』で「元本があったはずであり、それは偽書でない」とし、伊勢神宮の社家出身の御巫清直は『先代旧事本記析疑』でやはり『先代旧事本紀』を擁護している」
>「本文の内容の多くが『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』を元にしたものとなっている[8][11]。
江戸時代にまず水戸光圀が中世の偽書とし、国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによっても偽書とされた」
@総括
日本古代の歴史書は平城京から平安遷都、直前に記された「古事記」(712年)「日本書紀」(712年)出典である。
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平安遷都はエネルギー問題だった!―地形で解く日本史の謎 | PHPオンライン|PHP研究所
「桓武天皇が遷都した理由は何か?」である。
平安京への遷都の理由は、歴史家の間でも諸説ある。
1つは、道鏡をはじめとする仏教の影響力から遠ざかるため。
1つは、桓武天皇は天智天皇系だったので、天武天皇系の奈良から離れるため。
1つは、藤原一族などの在来貴族の影響を遠ざけるため、などである。
歴史の専門家は文系である。そのため歴史の解釈は政治、経済、宗教など人文社会的なものとなっていく。人文解釈は実に多様であり、決め手がないまま果てしなく論議が続いていく。そのため謎は謎として、いつまでも残されてしまう。
W.奈良盆地周辺の山系の樹々をエネルギー源や建築その他に用材としてとして切り尽くし、洪水などの問題が生じ多た側面を遷都の要因に付け加えている。
奈良盆地は大和川系の水系しかなく、水利が乏しいという問題ああった。
W.時間が無いので古事記、日本書紀と藤原氏一族の関係を調べたかったが止めることにする。
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「日本の国分寺・国分尼寺の先例として、隋を建国した文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。その後の唐では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった[1]。
聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた」
封戸(ふこ)は上級貴族(皇族・寺社などを含む)の俸禄である食封(じきふ)に指定された戸(50戸〈一里〉を単位とする)のことです。
以下、古代律令制のリアル実態。国分寺を管轄する国司=隋唐を真似た中央派遣朝廷貴族。は郡司という称号を耐えた地方豪族の地方統治権力(古代的政治暴力支配)に乗っかった存在。
中国王朝の律令制度は古代日本列島の地方土地支配の実態に即応して修正された。
「国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。 天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。」
「@国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。
>また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた」
以下全て引用とWのコメント
「@スタートは天王寺駅から。関西空港行の関空快速に併結している紀州路快速に乗車。⇒W。関西空港行に乗ればOK(紀州路快速が連結~~日根野駅で空港行き連結車両を切り離すのか?
>①関西空港行は混雑していたが、②紀州路快速はそれほどの混雑ではなく、座席を確保できた。⇒W。JR天王寺駅で①と②の連結車両を乗り間違わないようにしなければ!
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天王寺駅から約1時間、紀伊駅に到着。⇒W.スマホではなく本でも読みながら1Hを過ごそう!
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OK 紀伊駅 和歌山市駅への道中、トンネルを超えて和歌山より
大阪府と和歌山県の境の駅。
和歌山市の駅だが、利用者の大半は岩出市民が占めるといい、最近では近畿大学和歌山キャンパス(W.どうせ学生さんの姿ばかり見るのだろうから何学部が有るのか調べてみよう。近畿大学は世耕一族の利権なんだよ。今回の選挙では裏金問題で和歌山1区無所属出馬。)の通学駅になっている。⇒MAPで大学と根来寺の所在確認した。
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「 近畿大学和歌山キャンパスは生物理工学部(W。時流に乗ってバイオテクノノジー)だけのキャンパスなのでそれぞれの学科に特化した施設 ...」なお近畿大学和歌山中学高校というのもあるらしい。所在地は根来ではない。和歌山市の北。教育は利権そのモノ。
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路線は和歌山バス那賀の路線で近畿大学行。昼間でも15~20分間隔での運転。
ただ、通学路線なので時間によってバラツキがあり、土休日は本数も減ってしまう。
乗車したバスも9割が学生さんでした。
根來寺への最寄バス停は根来。
このバス停から徒歩で向かいます。
>根来寺への道の光景
観光的ではない生活感の残る道・・・
*****こういう方法もあるが~~
「岩出市内を循環するバス停。
市内循環バスは本数も限られていて利用するのは困難だが、住民の足の確保にはなっているようだ。」
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バス停から街並みを抜け、そのまま歩いていくと・・・
根來寺大門。
ここから伽藍まではかなりの距離があり、根来寺の大きさを実感する。
古い歴史を持つ寺院、現在は新義真言宗総本山。
>W。GOOD!半寂れ具合が。
駐車場、資料館方向へ進む。⇒資料館は大事だ。混乱し易いので位置関係を確認する。
①バス停根来紀伊駅からの大学「スクールバス」?。15分~20分間隔。岩出市の一般客もこのルートを利用している!
②バス停根来、JR岩出駅から出発⇒止めた方が良い。
根來寺の駐車場、岩出市民俗資料館への入り口。バス停の根来寺もここにある。
先ほどの、根来バス停からは20分ほどかかる
根来寺バス停というのがこの場所。
>ただ、根来寺バス停は本数が極めて限られるので、利用には注意が必要。
>一般的には本数が多い、根来バス停が便利だが、寺までは徒歩
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根来バス停。
紀伊駅行はバラツキはあるものの1時間に3~4本、まあ、このくらいの本数なら十分でしょう・・・そんなわけで・・・バスで紀伊駅へ。やはり車内は近畿大学の学生さんでほぼ満席。
紀伊駅到着後大阪方面行の紀州路快速に乗車・・・天王寺駅まで・・・
車内は座席が埋まるほど・・・
短い時間だったが、根来の街並みと根來寺を楽しんだひと時・・・
賑やかな学生さんと、静寂が包む根來寺の対比が面白かった。
外国人、他の参拝者にも会うことなく、一人だったし・・・
初秋の小さな旅、でした。⇒W.寺の建造物の外観だけのHOTOだった。内部は撮影禁止なのだろう。建築構造物は秀吉に攻め立てられて焼失した、再建は江戸時代。
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日本仏教の宗派の違い① | ハートフルセレモニー - 神楽坂・江戸川橋・早稲田のお葬式
仏壇の装飾は大きく分けて、2つに分かれます。1つは金箔をあしらった「金仏壇」、もう一つは木目を生かした「唐木仏壇」です。
「金仏壇」は主に浄土真宗で用いられることが一般的です。仏壇全体に金色をあしらい豪華絢爛な様子になります。
「唐木仏壇」は多くの宗派で使われている仏壇になります。シンプルなものから、細かな彫刻の施されているもの、漆で全体を塗り重厚なイメージのものまで種類は多い