反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

背伸びし、国民に無理をさせてきた日本支配層は大儲けの内外環境が厳しくなって国民をイデオロギー幻想で絡め取ろうと画策。

 想えば、国民にとって、民主党政権政党になってから、イロイロな事がありすぎた。短い期間に政治経済軍事の課題、問題が凝縮したように集約され、終いには大災害まで立ち至っている。
 
以上を一括して一連のリアルな厳しい政治過程の進行とみると、そのただ中にあった国民の多数派の現状及び将来の現状認識とマスコミやネット上の「世論」の隔たりは大きくなっているように想われる。
 
 結論を先に提示しておこう。
 
 戦後利権癒着勢力の一角を形成し、その役割の比重を増したマスコミが政権交代による利権喪失の危機感やら、激動の政治過程への元来の保守的反動的、予定調和的本質を露呈させ、国民を煽りまくった結果、国民多数の政治意識はもう後戻りできないとんでもないところに立ち至っている。
 
 情報を流す側のマスコミ自身は主観的にはバランス感覚を維持しているつもりかもしれないが、トータルとしてあまりにも一方向の報道の洪水状態に丸裸同然な国民を晒してしまった。
 日本人は本当のところ、近代化以降、個人として内発的な思想的服を身にまとったことがない。最も服がいらない人が大半だったが。天皇主義は仮衣裳だったから、戦後になって、簡単に脱ぎ捨てられ、経済第一主義と云う裸同然の仮衣裳を身につけることができた。
 
だから、丸裸で同然で情報に晒されている。洪水に抵抗する術がない。
 
 マスコミ自身の情報伝達の主観的現状認識は未だ、「不偏不党」とか「社会の木鐸」とかの範疇に留まっている、と想っていおり、そのための努力をしているつもりかもしれない。
さらに事実は編集の仕方によって一定方向へのイデオロギー煽動になるという側面もある。
 
これがマスコミの主観的自己認識(マスコミを評論するマスコミは存在しない)による彼らの得手勝手に想定する世論である。
 
ところが、この間、トータルとして偏向報道に晒された続けた多数の国民はマスコミ自身の想定する世論とはかけ離れた次元に立ち至ってしまった。
 
 解り易く言えば、こういうマスコミが認識する得手勝手な世論形成と多数の国民の意識のかい離を象徴するのが、朝日新聞である。イロイロナ立場から、朝日に反発する人が出るのは当たり前だろう。
 
 政権交代後の国民多数の政治意識をあり様をはっきり表しているのは政権交代後の数々の選挙結果である。
一番、最近のリアルな出来事でいえば、大震災被災地宮城県知事に対する民主復興担当大臣の暴言辞任なる事態である。
 
 この問題の伏線を聞けば、ナントこの宮城県知事は復興計画を民間シンクタンクにマル投げしていたそうである。
宮城県の被災当事者が知恵を出し合って、コンセンサスを得て復興計画を練り上げる主体を放棄して、東京の民間シンクタンクに委託している。
 このような姿勢に対して民主大臣は憤りを覚えていた。これをマスコミは報じず、暴言問題にすり替える。
被災当該、宮城県民にとって、事実上犯罪行為であるはずが、県民は暴言を吐き、横柄な態度に終始する、として復興担当大事に感情をむき出しにして反発する。
 が、この感情の湧き上がってくる根っこは普段のマスコミの大震災報道による民主内閣の失政追及の仕方であろう。
 
 先の統一地方選
 
 ナント、東京一極集中の物的恩恵によりかり、数々の失政を繰り返した石原慎太郎が圧勝した。
次点はこれもナント、そのまんま東である。
 民主支持層の各候補への投票先は石原、東、ワタミ経営者に三等分されている。
 
 大震災の影響のまだ残っている時期で、人々は既成の強いモノに寄りそうとと総括している人もいるが、わざわざ選挙に立候補したにしてはお粗末な総括である。
 
 この方なんかは典型的なリアルな国民像を視野にいれず、アレコレいうネット世論と実際の多数国民との意識の隔たりの象徴である。
 
 名古屋の河村、大阪のハシモトはいつもブログで批判しているが、行き着くところは、どうして彼らが支持を得られるか?と云う次元だ。彼らを支持する有権者、支持していまう構造に興味があって、イロイロ拙い記事を書いてきた。
 
 個別の事情はある。
しかし、抽象的になるが、日本の置かれた内外環境とマスコミの宣伝扇動によって、遠くまで行ってしまった多数の国民意識が彼らの主張する中身を吟味せず、ムードによって選択している。
 小泉を選択した事が時間をかけて、変化して再現されている。
 
 戦前において、こういう国民は丸山真男によれば、軍部によって煽動された。
戦前、学生時代に特高警察に逮捕され、戦中は東大助教授として、徴兵されも、上級幹部になる道を拒否して二等兵ヒロシマ従軍中、被ばくした経験をもとに独自の政治学を確立した学者の戦前分析はリアルであり、信じるに値する。彼が指摘するのは、当時の知識人、マスコミの世界の「自由」と戦争を経て、資本主義搾取に晒されたリアルな国民の生活、意識のかい離だ。
 戦前、極端に拡大した格差社会の実態だ。虐げられた者に広範に広がる政界財界への潜在的不平不満が軍部を中立的存在とみなして支持を広げていった。
 
 この次元のことを視野に入れると単なるマスコミ批判だけに終わらすことはできない。
自分も多数の国民のその一員との自覚もある。
であれば、自分の足元をしっかりと見つめ、踏み固める作業に行き着く。
 
 
  <追記> 
 フジテレビ韓国ドラマ放送に抗議する人たちにも抗議する自由はある。
しかしその感情は無様な被害者意識一杯で哀れをもようする。
そこまでこころを閉ざさなければ、日本国民はやっていけない様になったのか?
日本経済が右肩上がりの時代、こんな奴らは庶民の生活力の渦の中に巻き込まれていた。
 
ただ、今の若い世代にこういう傾向は広まっている。
 
こういう国家や民族のもめ事を飯のタネにする思想に一端、被れるとなかなか抜け出せない。
 
目の前にある具体的な実体を理性によって分析し判断し克服するしかないからだ。
即自的な感情を根拠にし、感情に訴える行動パターンは動物次元のモノであり、目の前の具体的な眼に見える国家、民族、国境の様な具体的実体に依拠している。
 
動物次元のテリトリー意識と表現する人もいる。
 
 目に見えないモノ、理性的想像力の様な面倒なモノは素通りして済ますことができる便利でいい加減であるが故に環境さえ整えれば、国民多数を虜にできる可能性を秘めている。
 
世界市場への民族台頭の結果、二度も敗北し、ヒットラーによって痛い目にあったドイツ人は、この辺のリアルな事情が痛いほど理解できた。
 だから、偏狭な民族主義が国を滅ぼしてきたと総括して、法律でも政策でも規制している。
 
 第二次世界戦争敗北時点の日本の歴史の発展段階はドイツよりも遅れていた。
だから形を変えた天皇制ー官僚体制とユートピア的平和条項の共存する日本国憲法が必要だった。
厚地基地に降り立ったマッカーサーは日本人の精神年齢は13~14歳だと言った。
 
 未だ成人に達せず。
 
 例えば、アメリカ帝国主義国内でも単なる外国テレビドラマを政治的に深読みして、放映禁止を求める動きはありえない、と想う。あれば、アメリカ自身が国是を否定することになる。
元も近ごろではそのアメリカの普遍性も揺らいできているが。
 
 いづれにしても、この種の人たちの蠢きが、日本国民の政治選択を歪め、狭めていくというシナリオが私の日本国民敗北説の重要な柱となっている。
彼らを止める手立てが日本支配層にない。
 不平不満はどこにでもある。
しかしその発現形態に日本独特の最悪傾向がある。