反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

ニッポン沈国、原住民(ネイティブ)の現状。小泉竹中政権の市場原理主義を受容したB層国民は民主暫定政権下の激動、混迷に耐えきれず、<F層国民>に転化(日本的ファシズム受容国民層)

 1)人間50年、化天の内に比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度、生を得て滅せぬもののあるべきか。
                                           ー幸若舞(敦盛)よりー
 
2)なにせうぞ、くすんで、一期は夢ぞ、ただ狂へ。
                            ー閑吟集よりー     
 
1)は織田信長桶狭間の戦いに出陣前にまった舞唄として、ドラマでも何回も放映されて、お馴染み。
舞唄を舞って、立ったまま茶漬けをかき込み、総大将自らが我に続けとばかり先頭を切って出陣していくシーンはドラマのハイライトである。
 軍事状況としては圧倒的に優勢な大兵力の今川軍を前に、一点突破全面展開の血路を切り開くため、捨て身で先頭に立って突進していく総大将の姿に、兵たちも心を一つにつき従っていく。  
 
 が、ドラマが描き上げる信長の捨て身の英雄主義は戦国を生き抜くため戦う武士たちに共通する当たり前の世界観だった。殺し殺されの戦闘が常態の世であれば、武士個人の世界観も捨て身の覚悟を根底に置く。
 戦国の世をはかなむ、無常感では、戦場から逃げまどう、流浪、遁世にしか繋がらない。
 
 そうではなくて、別の次元のこの世、観。
 
 敦盛の正確な解釈は
「人の世の50年の歳月は下天の一日にしか当たらない」と云う意味らしい。
「人間の一生の50年は宇宙の永遠からすると夢や幻」、と云う解釈は現代の人間主義の感覚による間違った解釈となる。人間とは信長の時代、人の世(社会?)を意味しており、人間ではない。16世紀の日本に人間と云う近代的概念はなかった。
 
 ここから、さらに込み入った解釈が必要になる。
中世日本に個人、エゴを社会や自然から独立した存在とみなす、二元論の世界観はなく、人の生涯は会い見える社会と自然と一体のものであり、生が閉じれば、一体である社会も自然も目の前から消えていく。
つまり生涯=社会と自然=現世と理会できる。
 
 であれば、人が死ねば、社会も自然もジ、エンド。
つまり、その現世観(目の前にある人社会、自然)は言い換えると、徹底した個人の主観に基づく、世界観であ り、リアルな現実である。確かに生の閉じ個人にとって、客観的世界は終わっている。無でしかない。
 
 ジエンド、無への恐怖感の反動として生への執着が生まれる。
末期がんの患者で頭脳がはっきりと働いている間、夜の暗闇が怖くて、灯りを消さないでくれと云う人の話を聞いたことがある。死=暗闇=無に吸い込まれていく恐怖感がるのだろう。
 盲目のベートーベンの死の直前の有名な言葉に「もっと光を」と云うのがある。死=無への恐怖感、生への執着であろう。高尚な哲学的解釈はイラナイと想う。
 
 翻って、中世戦国武士の世界観。
死ねば、現世は終わる、無になるというだけだったら、ただの無常の確認であり、恐怖感、逃亡の論理しか沸いてこない。
 
 捨て身の超前向きな戦闘精神、行動主義は彼らのどんな観念に宿るのか?
 
 やはり、死ねば、そこに揚がれる天上に現世とまったく異なった時空の世界があると想定していた。
生涯=社会、自然=現世とまったく時空は違うと区別されていたが、天上も現世と一繋がりの世界であり、一体の世界を形成している。
 
 以前この辺のことを書いていた時、小沢一郎さんの「お天道様が見ている」と云う発言を自分なりに解釈したが、今想えば、彼の発言は現代人の天=神と人間を分ける二元論である。
 
 中世武士にとって天は死ねば揚がれる、現世とは時空は違っても、そこで再び生き返ることのできる現実に存在する「永遠」の支配する世界である。
 
 徹底した主観主義にもとずく、一貫性、体系性のある一元論である。
 
 この徹底した主観主義の一貫性、体系性ある一元論と云うだけで現代風個人と社会、自然を対比する二元論の近代思想の日和見主義を絶対性において凌駕している。
 
 生涯=現世と繋がったあの世の永遠を形而上学的に仕分けしたのが、「敦盛」に唄われた「化天」であり、「下天」とも表現している記述がある。
 
 「化天」の一昼夜は人間界の800年。そこの住人の寿命は人間界の8000歳、と。
天上界の最低ランクの「下天」の一昼夜は人間界の50年。住人の寿命は500歳。
 
敦盛の正確な意味は従って、「人の世の50年は下天の一昼夜にしか当たらない」となる。
 
 だから、現世は夢幻のごとき、仮の宿であり、夢幻にすぎないが、この凝縮された瞬間を何事にもとらわれず、完全燃焼させていこう!ヤッテやろうじゃないか!となる。
 
 2)の「この世は夢ぞ、ただ狂へ」
 信長が活躍した時代の庶民の小唄を集めた「閑吟集」に載っているモノ。
「思想論理」の背景は信長と同じである。
 
 つまり戦国の世は武士も庶民も現世を生きる上で捨て身の行動主義が生活実感として定着していた。
 
>>>翻って今現在。
 昨日の民主党代表選の中身。
内外の時代基調とかけ離れている捨て身の行動主義のかけらもない民主国会議員の皆さんであった。
 
 日本の大方の庶民は民主国会議員が勝手に描いている政治世界と大きくかけ離れた世界に立ち至っている、と想う。
 
 これから、そんな性根では政権末期までいくら、忙しく立ち働いたとしても、決して彼らは受け入れず、むしろ、事あるごとに反発を強め、自分たちの進んでいく方向に向かう。それを振り向かせることも、ましてや止めることもできない。
 
 民主政治指導者に政権交代を経て<B層>turn to <F層>へ!という危機感が全く欠如している。
 
どの立場に立って政治を行うかと云う、政治思想の問題である。
 
完ぺきに現段階の日本帝国主義政治委員会の一員として統治者の立場にたって見下ろしている。
己があくまでも暫定的で二流の、その場しのぎの使い捨てとしてしか支配層に見られていないのに、統治者の立場に立って、その気にさせられている。ワイマール時代の末期の政権党ドイツ社民に心境はよく似ている。
 
 ハッキリ言って立候補者の演説を聞いていて、立場をわきまえず、その気になっている分だけ、仮初の分在としてのウソっぽさが透けて見えた。
 
 会場を埋め尽くした400名の議員。
 
一体次回の衆参選挙で何人が生き残れるのだろうか?過半数を大きく上回る人たちが2年後、ただの人になっていることは間違いなかろう。
 
 <B層>TURN TO<F層>はこの間の選挙結果を見ても明らかじゃないのか?
 
今現在の民主政権下で生まれている<F層>の上部に相応しいのは民主現政権ない。
自民党公明党、みんな、有象無象のファシストたちだ。
 
<F層>はファシズムさえも受容する層である。かつての小泉政権下の<B層>の発展転嫁した国民広範に広がる政治層である。
 
 小泉政権に追随した政治層が多くの国民に行き過ぎた市場原理主義の惨禍をもたらした。
それで世界経済危機も相まって、国民多数は「国民生活第一」を掲げる民主政権を選択した。
そして民主政権下でイロイロナ政治軍事事態があり、終いには大震災、原発事故にまで立ち至った。
 
 その政治過程の中で生まれたのが暴走する<F層>である。
 
彼らは多くの国民を小泉時代を何倍も上回る惨禍をもたらす政治を選択するだろう。
 
私の云う日本国民敗北説の大きな一階梯が踏み出されようとしている。
 
 もう小泉時代から民主政権への揺れ戻しは内外環境からして不可能。
さらに酷い選択をするであろう。
 
>>そういう政治に打ち勝つためには政治思想がいる。
だから、冒頭から、長々と信長まで引き合いに出した。
一端、ファシズムと規定したら、戦後の平和と民主主義の枠内の言論だけでは対処できない、と想うからだ。
<F層>はファシズムさえ受容する層>と云う意味である。
宣伝扇動されれば、簡単にその政治に乗ってしまう。
要は煽動者の存在と支配層にとって危機がどの程度深化し、内外にそれに対する反対者がどの程度存在するかだ。この三つの要素でファシズムを支配層は選択する。