反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

戦後民主主義「日本国憲法」と国民多数の労働生活、現場とのギャップ、二重性。丸山、福田、の著書をとりあえず、引用。

 最近は自公政権時代の<B層民主党政権交代経由、新市場原理主義次期政権<F層>誕生論を生煮えのまま展開しております。
 
テレビでは連日、日本人論、「がんばれ日本!」的番組が組まれています。
 このような単純な宣伝扇動番組に相槌を打ち、その気になる方々が<F層国民>であり、かつての小泉竹中政権以降、政権交代選挙に際しても新政権を拒否した38%の有権者層が政権交代後の様々な事態を経過しての国民各層に膨張し、B層国民の発展的形態としての<F層(ファシズム受容国民層>となっている。
 
 大震災原発事故に遭遇した支配層は戦後の政治経済路線への根底的批判と純然たる己の戦後史的政治責任問題を素早く回避し、国民のあり方、復興、原発処理問題の目の前の政治ステップを国民的政治課題と押しだす一方で、
かましくも、大資本減税、庶民増税=成長戦略(貧欲、強欲資本蓄積保障ーイデオロギー統合とその他は野となれ山となれの新市場原理主義)プログラムを社会保障の名のもとに目暗ましをし、どさくさまぎれムード的国民合意に持っていこうとしている。
 
 こうした大きな政治方向に対して、自分たちの生活と権利、命健康、平和を守るためには、まず、日本国民の過去現在のあり方を知る必要がある。
それは同時に日本を取り巻く、諸国と国民との関係で自分を知ることである。
 
 知識ある方の著書を参考にするしかない。
タイトル冒頭の問題意識は丸山真男の1946~49年対談集の一説を参考にした。すでにこの観点を応用して記事を書いた。
 
 彼がそこで云っているのは、煎じつめれば、明治以降の「近代化」は知識階級と国民大衆の間に非常なギャップがあった、と云うこと。
 
具体的な説明にリアルに納得できる。
 
 「現代の明治期的な人間と云われる人たちは、ウルトラ、ナショナリズムが明治以後の国家、社会体制の必然的発展として出てきたモノだということを、どうしても承知しません」
司馬遼太郎の小説や評論に表れている観点も大枠はそうした中の一種。
 
 以前の記事で司馬遼の様な手前勝手ないいとこどりのつまみ食い的歴史解釈よりも、福田アリツネの明治以降の国家社会体制の必然性をそれはそれとして認め、擁護すていく方が一貫性、体系性があってそれなりの歴史観として成り立っていく、と書いた。
 
 彼は欧米列強に抗していく日本の国家社会体制の遅れをはっきりと意識し、そこを日本的特質と押さえたうえで「血を流した父祖の絶望的みじめさ」として、
先行して近代化した欧米が掲げる成熟した民主主義の世界普遍化からの各国史への歴史的裁断、価値観の統合に各国個別独自の発展段階擁護の観点を対置する。
 
 となれば、当然にも、「日本の近代化は軍に独走の危険を許す体制を前提として初めて可能であった。言い換えれば、軍は日本の近代化するための防波堤たる役割を演じたというのが、私の日本近代化に関する定理」
 
 こうした、軍を要とする近代化の必然性の根拠は
第一、外敵の脅威。 第二。内乱への対処。「ヨーロッパは近代国家としての確固たる硬度を持っていたが、日本がそれに対抗する硬度を有する近代国家になるためには、中世騎士道的な内乱線などに日を送る暇がなかった」
第三。明治政府は文民政権ではなく軍事政権だった。
 
 かくして、欧米民主主義普遍化、個別歴史裁断、統合に個別発展史観を対置すれば、以下の論法になる。
 
「軍事政権といえども、時と場合によっては民主主義近代国家建設の第一歩を踏み出し得るのみならず、軍事政権でなければ、それができない国々も今なおアジアアフリカには存在する」
 
こういう福田氏であれば、韓国の朴独裁政権へのアメリカン、リベラリズムの人権からの批判は韓国史の発展段階と生きた事情を理解していない迷惑妨害となる。
 
 >片手落ちの現状維持主義者とでもいうべき頑迷さだが、悪い意味で一貫性、体系性を追求するとこうなる。
 
 自分が好みで是認する治者には生きた歴史の流動性の中でのたち振る舞いは許す。その中での被圧迫者への政治的軍事的行為も容認されたり擁護されるが、それに反対する側の行為、存在はあくまでも隷属下のモノでなければならない。あるいは眼中になく抹殺される。
 
  しかし、朴政権以降の韓国史が政治的自由を勝ち取ったのは人権自由を目指した戦いが一方にあったからだ。それがなければ、日本の戦後の様に与えられた民主主義と人権になり、今の韓国の民主主義とは違った内容になっていただろう。
 歴史は双方のストラッグルの中から前に進んでいく。
 
>日本の敗戦は日本国民の代わりにアメリカの軍事力による強制が必要だった。
極めてぜい弱な内なる反対勢力の代わりにアメリカの軍事力が日本を変えてしまった。
 
内の力ではなく、外国の力で国が変わった。
しかし世界の歴史上こうしたことはよくあることである。
ただ、征服したモノはその果実を手放さない。自分の都合のいい様に征服先の体制を変える。現地支配者との利害の相互浸透が始まり体制となる。
 
戦後民主主義の体現された「日本国憲法」は支配層の経済至上主義の迷妄に換骨奪胎され、資本蓄積が過度になりグローバル資本主導になって、桎梏と化し、支配層に投げ捨てられようとしている。
 
多数の国民が労働の果実の制度的政策的分配に十分に与れなかったから、経済至上主義で資本は強蓄積できた。
 憲法に謳われた人権や民主主義が国民の生活労働の現場に全国民的行き渡っていなかったから、資本の生産過程で生み出した付加価値の分配は十分に為されなかったのだ。
支配層と一部労働官僚、労働貴族のための民主主義であって、多数派国民は傍観者の位置にいた。
 特捜検察が独自に動きをしてあくを摘発するのも、支配層と国民の間に大きな亀裂が生まれる構造を偽の正義で覆い隠すためだ。検察民主主義なのだ。
 
 そいう現状にズットあった国民多数派は市場原理主義で不安定なところに追い詰められていき、動揺し、国家民族を強調する偏狭なイデオロギー洗脳されやすくなっている。
 
 であれば、支配層の押し流そうとしている日本国憲法の中には国民にとって大切なモノが詰まっている。
8条に特化して問題視ばかりしていては、事の本質を見失う。国民の抵抗権、民主主義と自由、人権は国権との対比で民権としてきっちりと擁護される必要がある。
 
支配層の改憲論は産湯とともに国民にとって大切な赤子を押し流そうというたくらみである。
日本を労働監獄にするたくらみである。