反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2012年、3月16日。吉本隆明、死す。時代の大衆的風俗に迎合する立場から、戦後民主主義とその構造物を破壊してきた反革命分子。彼の批判的する方向は日本支配層、アメリカではなく、反政府勢力。

 吉本隆明さんがなくなった。86歳。今年1月に風邪をこじらせて、肺炎で入院先の日本医大病院で死亡したという。
タイトルは厳しい見方だが、敢えてそういうモノにした。
 
 若いころ、吉本の小難しい本をわざわざ何冊か買って読んだことがある。
共同幻想論」「言語にとって美とは何か」は買い込んで真面目に検討してみた。その他、彼の雑誌に載ったエッセイ?評論本などなど、は本屋で手にとってザット目を通す事が多かった。
 気になる存在であったことは間違いない。
 
 共同幻想論」などのハードな理論本は、それなりに検討するに値すると想っていたが、バブル期に時代風俗を理屈で正当化する様になって、何を馬鹿なことをやっているのだと完全に見限った。
 
 この前後の時期はソ連東欧のスターリン主義体制の崩壊、天安門事件を超えて、中国の「改革開放」があり、以降、一時的なアメリカ、一極世界支配とコレを軸とする、ヒト、モノ、カネの世界的流れが定着していった。
 冷戦体制におけるアメリカの勝利がマスコミに喧伝され、様々なアメリカ思想が世界に流通し、外来思想に従属する日本の思想界?の潮流は急速に戦後的枠組みの崩壊から、この時代風潮を肯定し、意味付けするモノに変転した。総転向の時代と称された。
 
 吉本はこの時代風潮に迎合竿指す形で、時代風俗肯定と従来からの戦後旧左翼批判の立場から、踏み出して、グローバル資本制によって、新たな時代が始まった、と解り易く理論的?に書き上げた。
 
 言い換えて、単純図式化すると、もっぱらの旧左翼とその構造物批判の彼の評論は新しい左翼の創造に向かう実践的理論的構造になく、その内実は政治反動の要素を多く含んでいた。
 
社会党共産党を左翼用語で批判したと云って、新しい左翼とはいえない。批判だけに結果的に終始すれば、戦後民主主義とその実体を消滅させ、自分たちの都合のいい資本制社会を出現させようとする、戦前戦後の継続に立つ支配層の呈のいい手先である。
 
 が、左翼用語を保持し、その世界の枠に置いて評論していく以上、風俗としての左翼風である。
 60年代後半から80年代にかけての吉本の政治的帰結はそれであった。
 
 ところが、反核運動批判から反原発エコロジー批判を通じて、バブル期風俗の理屈をこねての肯定に到達した段階で
風俗左翼の装いも脱ぎ捨てたのである。
 旧左翼とその政治、その構造物を左翼用語の範疇で批判していた時の底にあった政治反動と旧左翼の単なる裏面に過ぎなかった思考停止が表面化した。
 大学などの機構に属す丸山真男に典型的な旧左翼知識人に対して、在野のままであった吉本の実存が、敵愾心(ルサンチマン)を呼んだ、と云われているが、一理ある。1950年代はもとより、1960年代後半まで旧左翼を批判する左翼に知的エスタブリッシュメントに連なる機会は与えられなかった。
 
 吉本の旧左翼の裏返しのルサンチマンは今になって、証明できる。
吉本の死によって、書店では吉本、本が積み上げられるだろうが、丸山真男吉本隆明を公平に比較して、思想的に核心に置いて、雲泥の差がある。後者は風俗に迎合し、メジャーの流通に載った分だけ、何か中身がある様に勘違いされているだけだ。
 丸山真男はその思想的ガイストを私が度々引用している様に現在でも使えるが、吉本は使えない。
多分、時間の経過と共にエピソード的存在として忘れ去られていく。
 
 >バブル期から、彼の書いたモノが出版界で、<戦後思想の大巨人の如き>キャッチフレーズと共にもてはやされるようになった。
 
 その時期、私はオイオイ、吉本隆明って、そんな凄い人かよ!と思った。
吉本隆明、程度のヒトは沢山いる。コレが私の認識。
 
勿論、それは彼の「共同幻想論」など何冊かのハード本を一応真面目に読んだ評価を基準にしている。
 
 正直言って、彼のそれらの本の中身は読んでも理解できなかった。
 
>確かに「共同幻想論」は国家論であったと記憶しているが、レーニンの「国家と革命」の暴力装置論に基軸を置いた、実践家である私にとって、彼の持ち出す、対幻想から、共同体幻想、発展させた国家への共同幻想の論証の道筋はただ次の様な短いフレーズ
(国家とは支配階級の被支配階級を抑圧する暴力装置であり、共同幻想性も付与する)に集約されることをクダクダト、駄弁を要しているに過ぎないと理会した。
 
 読んでいて、理論としての、ワクワク感が全く認められず、読みとおすのに難儀した。
 
左翼文献によくある様な難しい言葉を駆使している訳でない。
 
 それでも理解できないのは、中身に問題がある。吉本の本の中身について、こんな凄いことが書いてある、と議論の対象にするに全く値しない。
吉本の難しい本を読んだという知的ファッションに過ぎない。
この意味で当時、結構流行った、埴谷雄高ドストエフスキー的「死霊」という超大長編小説の世界に似ている。
あの小説の中身をキチンと評論できるヒトが果たして何人いるか?
ドストエフスキーの長編小説は論評できても、「死霊」は無理。
 
でも、読書界には出回っていた。
 
 国家論をレーニンの様に暴力装置の実体に切り縮めるのは誤りは、ズット前からの常識として指摘されていた。
吉本の様にイデオロギーによる国家幻想、民族幻想による国民統合を論じる著書は欧米でたくさん出版されている。
 日本の論壇はズット旧左翼の影響が強いままだったから、出版されても、読書界に広まっていなかっただけ。
 
 「国家とは階級支配の道具であり、共同幻想性を付与する」で吉本がクダクダ述べた全ては表現できている。
 
 ちなみにこのフレーズは若くして自殺したある活動家の日記に記されていた。
私はコレに目を通したのは18、9歳の頃だったが、吉本の「共同幻想論」など全く知らなかった。
だから先入観が読んでいる途中で湧きおこってきた。
 
 メジャーな流通ルートに載って、連発される彼の本は「共同幻想論」や「言語にとって美とは何か」の理論本の体裁ではなく、一般受けを狙った、バブル期の流行の時代風俗の先端を解り易い言葉でナントカ、理論の装いを持って、肯定しようとの意図が透けて見えるモノ。
大方のヒトが読んで吉本を云々しているのは、こちらの方。
彼の死によって、多分、難しい方の本も店頭に並ぶだろうから、読んでみるがいい。
何となくわかったような気になれば、大したモノだ。
 でもそこから向こうには進めないはず。
それが彼のハードな思想本の限界。
繰り返すが、吉本程度の思想本を変えるヒトは沢山いた。
彼はバブル期から、率先して時代風潮に迎合したことで、一般的に名を売ってきた。
 
 が、その後の日本と世界の時代経過のリアルな現実を踏まえて、彼は評論?内容に修正を加えることができなかった。
 なぜなら、吉本隆明はバブル期に馬脚を現し、バブル風潮に添い寝しのであって、再び思想的にナントカ屹立しようと誠実に想えば、自己反省は欠かせない。
老いた吉本の心身にその体力は残されていなかった。
 
彼が亡くなったのは2012年3月16日。
 が、思想的にはもうとっくに死に絶え無残な残骸があった、だけ。
 
小沢一郎さんの「日本改造論」が出版された時、一理あると評価したと云う。
私は当時も評価しなかったし、今も評価しない。
が、今の小沢氏を限定つきで評価する。
現実政治に妥協はいるし、国家権力に弾圧されている政治家は支持しなければならない。