作者のローラ、インガルス、ワイルダーの実体験を膨らませて書いたもので出版当時、全米で人気を得た。
>ローラには娘がいる。
この娘もジャーナリスト、作家として結構、名をなす。
が、この娘。ローラとはかなり趣が違う。
ローラは身近な開拓者一家と周辺の生活を素朴につづっただけだったが、この娘はそれをイデオロギー的に純化させて、我の強いアメリカンポピュリズムに昇華する。今でいえば、ティーパーティーに通じる思想。共和党大統領候補だった?ロン、ポールに通じるところもある。
アメリカではあのような(池田信夫の要約した部分によれば)アダムスミス幸福論以下的な経済思想の成立する根拠が歴史的に在り、それは、ローラとローラの娘が辿った道のりが、さらに打ち固められたモノに違いがない。
確かにアメリカ的グローバル資本制の世界化のイデオロギー的使徒ではあっても、そこに普遍性がどこまであるかと云えば、大いに怪しい。池田信夫の引用してる部分など<ジャングルのバーバリズム>容認と云うか、促進する様な思想そのもので、一定以上の現在の文明人が読めば想わず拒否反応を起こすような代物だ。
リバタリアンと云おうか、個人のエゴ、自意識をそこまで拡張しても、そのぶつかり合いの調整作用の効く民族と国家、国土もあれば、それに元々不適な環境で共生を主眼として生きていかねばならない、国家民族がこの地球上には厳として存在する。グローバリズムと云うが、それはアメリカの風土を何処まで肥えたものか怪しいモノだ。
にもかかわらず、素直に受け止める人々は、日本に沢山いる。
戦後日本の伝統的な外国思想の輸入屋の系列に連なるモノだがかなり今までの人たちと違っている。
今は間違いなく昔より、アメリカ経由のイデオロギーをイロイロ加工して、一派に解り易くお手軽にばらまく事を商売にしているヒトが多くなっている。アメリカの経験主義の伝統からか、そういうヒト騙しのテクニックとワンセットになっている処が特徴。彼らは、大手を振っている。羞恥心と云うモノの欠如が共通しているから声もデカイ。
だから、近づいてくるモノには洗脳力がある。しかし、離れた立場のモノにはごみくず同然だ。
>アメリカより1000年以上前の文明の先進地である東アジアの古代国家から始まり中世、近世と云う歴史の継承の上に在る日本。
>一方、彼の国は旧大陸で食い詰めたり、訳あって追い払われたりしたモノどもが、白人一神教のバーバリズムで、インディアンに暴虐な仕打ちをしたり、騙したりして、豊かの地から放逐し、処女地と称して良い様に私有化し、町ずくりをして、その積み重ねが州、その上の国家となった。
両者の歴史環境の違いはハッキリと自覚する必要がある。
この辺の違いをはっきりと踏まえてないモノが余計な地方分権を主張し、結局は住民無視、より一層の国家主義への道を掃き清めている。戦前も、軍部独裁まじかの政友会、あるいは軍部独裁がこういう指向を持っていた。
少なくともヨーロッパでは、歴史と伝統の視点からのアメリカに対する醒めた眼差しがある。
失望した政権交代の民主に替って、公平に見てまだ海のモノとも山のモノとも正体不明、国政担当能力大いに疑問とする、政治の常識さえ、蔑にしている人たちが多過ぎる。
大衆運動での憂さ晴らし、不平不満のはけ口は解るが、国政に一票を投じる時、コレをやったら、取り返しのつかない事になると云うのは最低限の確認事項にならないのか?
政権交代後イロイロ大事件が重なって、歴史の歩みは凝縮され、歩を速め、1年が過去の何年分にも相当する様になっている。
だから、日本の歴史の転換点になりうる。
歴史の転換点からは後戻りできない。政治選択としては政権交代とは次元が違う。それを悪いステップボードにした別次元への跳躍になる。
>>橋下維新やみん党は国政未経験であり、党として個人として検証を受けていない。
>若者はある意味仕方がないと想う。
また自分の若いころを想えば、社会一般の風潮に流されるのは解る。
この局面での冷静な政治判断を若者の多くに要求しても無理がある。
かつても郵政選挙において、小泉を躍進させたのも、なんとなくムードに煽られて、若者が一票を投じた事が大きい。
だから、せめて、いい年をした大人が、冷静な審判を下す必要がある。
個々ががカギを握る。
次回の国政選挙は日本国民とって、選択を誤っても、後戻りできない選択になる。
>なぜならば、小泉後の政局の様に揺り戻しを可能とする将来の政治実体関係が現時点で、予測できない(政党個人団体)。橋下維新は間違いなく奴らと手を組む。民主の大半の立ち位置もハッキリとした。
全部、市場原理主義政策制度、政治戦略の大枠で云ってしている。
マスコミどもは究極、大騒ぎで売れれば良いと云う次元にいる。
戦前も戦争報道で大きく発行部数を伸ばした。橋下を持ち上げるは、そこには商売のネタがたくさん転がっているからだ。