第32回 魏晋南北朝(一般的呼び名)
この六つはすべて都が現在の南京にあったので、ひとつづきのものと考えているのです
>後漢滅亡後(AC220年)隋の統一(AC581年)までの370年間が大分裂時代。
>なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したかというと、
のところでも話したように
豪族の勢力が強かったから、ということになる。
豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れなかったのです。
2、もうひとつは異民族の流入がある。
>>華北の場合はかれらの活動がさらに混乱に輪をかけたということです。
八王の乱(291~306)。
280年には呉を滅ぼしなんとか天下が統一されたのですが、かれが死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きる。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱をはじまてしまったのです。
280年には呉を滅ぼしなんとか天下が統一されたのですが、かれが死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きる。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱をはじまてしまったのです。
>この王たち、ライバルを倒すためには自分の軍事力を強化すればよいわけです。
で、そのための手段として周辺の異民族の力を導入したんですね。
遊牧系の民族は中国兵よりも強い。各部族の酋長たちと話をつけて呼び寄せ、配下として戦わせた。
遊牧部族の者たちは、はじめは晋の王族のもとで戦うのですが、中国人は弱い。なにもかれらの命令を聞いていなくても、自分たちの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考えはじめても当然だね。
やがては、晋の王族に呼ばれていない部族までどんどん移住してきて、晋国内は大混乱におちいります。結局晋は滅んでしまった。
>>この時に中国内に入ってきた異民族が五胡と呼ばれるのです。
>鮮卑はモンゴル系。
遊牧系民族が国を建てるので当然ながら華北では農村荒廃がすすみます。
「遊牧民は牧畜を基幹産業とするが急速な経済発展は望めず、略奪が尤も手っ取り早く、魅力的な富の獲得手段!!。
五胡どうしの戦争もつづきますしね。
>華北の豪族たちは配下の農民たちを引き連れてどんどん南に逃れました。
><異民族の政権ができたのは華北だけ>
で華南にまでかれらの侵入はありませんでした。
崩壊した晋の王族の一人が南に逃げてここに晋を再興します。
五つの異民族によって十六の政権ができた時代、という意味です。華北は大混乱の時代です。
北魏はやがて東西に分裂(534)して東魏、西魏が成立。
さらに東魏は北斉(ほくせい)(550~577)、西魏は北周(556~581)に代わります。
北魏から北斉、北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権なので、これをひっくるめて北朝と呼ぶ。
さらに東魏は北斉(ほくせい)(550~577)、西魏は北周(556~581)に代わります。
北魏から北斉、北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権なので、これをひっくるめて北朝と呼ぶ。
南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)という人が逃れて東晋を建てます。
都は建康。華南にはまだ開発されていない土地が結構あった。
東晋政府はそういう土地を逃れてきた豪族たちに割り当てていきます。そして、かれらはアッという間にそこに地盤をきずいていくのです。
華南には華南土着の豪族もいます。かつては呉政権を支えた人びとです。
土着豪族と新来の豪族はあまり仲が良くない。
東晋の皇帝はこういう豪族たちの微妙なバランスの上に立って政権を維持していったのです。
しかも、北には五胡の圧迫があるしね。大変だったね。
また、五胡の政権はしばしば南方に侵略してきます。
また、五胡の政権はしばしば南方に侵略してきます。
一方東晋政権はこれを防がなければならないし、
>チャンスがあれば華北を奪還したい。
だから、どうしても軍事力を強化しなければならない。
<北朝の隋による統一>
(省略)
だから、人種的に何民族かということは実質的にはあまり意味がなくなってくるね。
北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなどできないのです。そこで、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました
都を従来の部族地域から鮮卑国人たちの反対を押し切って洛陽に遷都。
北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなどできないのです。そこで、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました
都を従来の部族地域から鮮卑国人たちの反対を押し切って洛陽に遷都。
>>4魏晋南北朝時代の政治の総括
1)どの王朝にしろどんな経緯で皇帝になったにしろ、皇帝は国家権力を強化したいと考えます。
1)どの王朝にしろどんな経緯で皇帝になったにしろ、皇帝は国家権力を強化したいと考えます。
そのための邪魔者は豪族勢力です。
豪族の勢力を押さえて、皇帝権力を強化するにはどうすればよいか
2)土地です。
豪族よりも広い農地を直接皇帝の支配下におくこと。そうすれば、単純に豪族よりも強くなれる。
なぜならば、そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。
なぜならば、そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。
そういうことが皇帝にとって可能になるからです。そうすれば豪族に頼らない軍事力と経済基盤を持つことができる
3)さらにこの政策の決定版が北魏の均田制です。
自作農民を育成する仕組みだ。これは国家が人民に土地を支給するのです。
自作農民を育成する仕組みだ。これは国家が人民に土地を支給するのです。
人民は土地を支給されて自作農になることができる。
そのかわり、かれらは国家に対して租庸調(そようちょう)という租税を納め、兵役の義務も果たすことになります。
これによって北魏は強力になったともいえます。
この均田制は北魏につづく王朝にも引き継がれました。
北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制はおこなわれました。
これが班田収授法という名前で日本でも実施されたわけです
>>>4)皇帝権力強化のもうひとつの課題が官僚の登用。
が、皇帝に忠実な官僚の採用にはほど遠いような感じですね。
が、皇帝に忠実な官僚の採用にはほど遠いような感じですね。
>>>国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのはさらにあとの隋、唐の時代になってからです。
>>>以下、WACWAC。
「中国史概説」より。
「政治形態でいえば、貴族政治から君主政治へ、 あるいは軍事国家から財政国家へ、の変質。
財政国家とは財源確保を最優先とし、武力も平和もカネで構う国家をいう。
律令制の諸矛盾を露呈した唐が、その後なお150年余りも命脈を保ちえたのも財政国家に転進したことによるものであり、
財政国家とは財源確保を最優先とし、武力も平和もカネで構う国家をいう。
律令制の諸矛盾を露呈した唐が、その後なお150年余りも命脈を保ちえたのも財政国家に転進したことによるものであり、
5代宋以降の強力な皇帝権力を支える基盤となった。
藩鎮の軍事力も中央に吸収され兵力100万の<大常備軍=禁軍>が誕生する。
また、これを支える巨大な国家財政を動かす<3司使>は宰相に次ぐ重要なポストとみなされ、<計相>と称された。
つまり、節度使に代表される藩鎮体制と3司使に収束する財務官僚とは<唐、宋変革>の過程で現れた双子の兄弟だった。」
官僚支配の合理的政治軍事機構を皇帝権力に集中する君主独裁中央集権制に独自進化していった。
>>だが、このような官僚中央集権支配機構に基づく君主独裁体制は人民掌握力に大きな限界を絶えず孕み、国家と社会の分裂を常に内包するものである。
解りやすくいえば、封建中央支配者に分権され、人民を掌握の自由を与えられた地方封建領主による人民掌握の方の住民支配はきめ細かく厳しい。
中央官僚支配機構の末端まで届かない中国、朝鮮のムラ社会の方が遥かに流動的であり、個人主義的である。ここでは本質的に国家と社会は分裂し個人の地域からの遊離性が強い。土地所有形態も不明確なまま慣習により放置される場合がある。
すでに、そういった事態は大きく進行しており、そこにおける戦後的自律性の欠如は反動として、架空の共同政治幻想でしかない団体性に脱出口を求めてきている。
きわめて純日本的な政治過程がただ今進行中。
人々が無意識に求める団体性が、形としてきちんと存在するのは、機能的に純化した中央地方の行政機構、国家機構、政党、企業団体だけに限られる。
その他は全部、共同政治幻想の分野になる。
だから、支配層は本来原子的に分散する必然傾向にある個々人、最低単位の家庭を自らの政治意思の統合するために、国家と社会の共同政治幻想を手を替ええ品を替え煽り立てるしかない。
>>一元支配は本質的に多元社会の深化をはらんでいる。
>>これは日本の現在と将来と同質次元のもの。