反俗日記

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高校世界史教師、金岡新のネット公開「世界史講義録」中国史編は勘所を押さえて、面白く。一番、難解な魏晋南北朝時代、抜粋。

 第32回 魏晋南北朝(一般的呼び名)
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 南方の政権に着目して六朝(りくちょう)時代という言い方もあります。
三国の呉、東晋南朝の宋、斉、梁、陳、全部で六つの王朝があるでしょ。だから六朝
この六つはすべて都が現在の南京にあったので、ひとつづきのものと考えているのです
 
後漢滅亡後(AC220年)隋の統一(AC581年)までの370年間が大分裂時代。

>なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したかというと、
1、三国時代三国志ー(229年までに(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った)
のところでも話したように
豪族の勢力が強かったから、ということになる。
豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れなかったのです。
2、もうひとつは異民族の流入がある。
前漢後漢の時代に積極的に対外政策をおこなった結果、北方の遊牧民族のあいだに徐々にではありますが、中国文明が浸透していく。匈奴の中にも中国国内に移住して生活するような部族が出てくる。
>>華北の場合はかれらの活動がさらに混乱に輪をかけたということです。
 
  北朝
魏に代わるのが晋。晋が蜀と呉を滅ぼしていったん中国を統一します(265)。
しかし、混乱がおこって短期間で晋は滅びます。
 
  魏から晋へ。
魏は曹操曹丕は力がありましたがそれ以後はだらしのない皇帝がつづき、いつの間にか司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てたというわけです。
 
 余談。<魏志倭人伝朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入る。そこにやってくるのが倭の邪馬台国の使者です。
 
 八王の乱(291~306)。
280年には呉を滅ぼしなんとか天下が統一されたのですが、かれが死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きる。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱をはじまてしまったのです。
 
 >この王たち、ライバルを倒すためには自分の軍事力を強化すればよいわけです。
で、そのための手段として周辺の異民族の力を導入したんですね。
遊牧系の民族は中国兵よりも強い。各部族の酋長たちと話をつけて呼び寄せ、配下として戦わせた。
 
遊牧部族の者たちは、はじめは晋の王族のもとで戦うのですが、中国人は弱い。なにもかれらの命令を聞いていなくても、自分たちの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考えはじめても当然だね。
 
 やがては、晋の王族に呼ばれていない部族までどんどん移住してきて、晋国内は大混乱におちいります。結局晋は滅んでしまった。
 
>>この時に中国内に入ってきた異民族が五胡と呼ばれるのです。
匈奴鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)です。テイ、と羌はチベット系の民族。
 
鮮卑はモンゴル系。
 
匈奴は不明ですね、羯は匈奴の別種といわれています。 
 
 遊牧系民族が国を建てるので当然ながら華北では農村荒廃がすすみます。
>WACWAC遊牧民国家の特徴。「中国史概説」より。
遊牧民は牧畜を基幹産業とするが急速な経済発展は望めず、略奪が尤も手っ取り早く、魅力的な富の獲得手段!!。
コレを効率化しつつ!!さらには農民や商人を支配下において徴税交易などを組織的に遂行する!!遊牧民による政治権力」。
 
 五胡どうしの戦争もつづきますしね。
 
華北の豪族たちは配下の農民たちを引き連れてどんどん南に逃れました。
 
東晋南朝華北から華南、南京逃亡政権)(317~420)
東晋と区別してその前の晋を西晋(Wこの命名も混乱の元>
><異民族の政権ができたのは華北だけ>
で華南にまでかれらの侵入はありませんでした。
崩壊した晋の王族の一人が南に逃げてここに晋を再興します。
 
華北五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(316~439)。
五つの異民族によって十六の政権ができた時代、という意味です。華北は大混乱の時代です。
 
 北朝。(華北漢民族の伝統的政治センター騒乱の地、黄河流域を含む)
>やがてその中のひとつ北魏という国が華北を統一する(439)。
北魏はやがて東西に分裂(534)して東魏西魏が成立。
 さらに東魏北斉(ほくせい)(550~577)、西魏北周(556~581)に代わります。
 北魏から北斉北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権なので、これをひっくるめて北朝と呼ぶ。
 
 南朝。(揚子江=長江流域を中心。政治センターは南京)
華北北朝と対峙する恰好。
 東晋晋王朝華北から華南への逃亡政権)。

 南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)という人が逃れて東晋を建てます。
都は建康。華南にはまだ開発されていない土地が結構あった。
東晋政府はそういう土地を逃れてきた豪族たちに割り当てていきます。そして、かれらはアッという間にそこに地盤をきずいていくのです。
 
 華南には華南土着の豪族もいます。かつては呉政権を支えた人びとです。
土着豪族と新来の豪族はあまり仲が良くない。
東晋の皇帝はこういう豪族たちの微妙なバランスの上に立って政権を維持していったのです。
しかも、北には五胡の圧迫があるしね。大変だったね。
また、五胡の政権はしばしば南方に侵略してきます。
一方東晋政権はこれを防がなければならないし、
>チャンスがあれば華北を奪還したい。
だから、どうしても軍事力を強化しなければならない。
この軍人たちが政治的な発言権を持つようになるからさらに権力は不安定になる。
 東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を奪って建国したものです。
東晋を滅ぼしたのが宋、このあと、斉、梁、陳という王朝がつづきます。この宋から陳までの四つの王朝をひっくるめて南朝と呼ぶ。
 
  <北朝の隋による統一>
589年。北周が隋に代わり、この隋が南朝最期の王朝陳も滅ぼして再び中国全体を統一する。
      後漢滅亡後、隋の統一までの370年。
3、北魏
鮮卑族拓跋珪(たくばつけい)が建国者。拓跋氏という部族のリーダー
(省略)
 
>魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(位471~499)の漢化政策
孝文帝は当然鮮卑族なんですが、かれの母親は漢民族。かれのお祖母さんも漢民族
だから、人種的に何民族かということは実質的にはあまり意味がなくなってくるね。
北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することなどできないのです。そこで、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました
都を従来の部族地域から鮮卑国人たちの反対を押し切って洛陽に遷都。
 
>>4魏晋南北朝時代の政治の総括
1)どの王朝にしろどんな経緯で皇帝になったにしろ、皇帝は国家権力を強化したいと考えます。
そのための邪魔者は豪族勢力です。
豪族の勢力を押さえて、皇帝権力を強化するにはどうすればよいか
2)土地です。
豪族よりも広い農地を直接皇帝の支配下におくこと。そうすれば、単純に豪族よりも強くなれる。
 なぜならば、そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。
そういうことが皇帝にとって可能になるからです。そうすれば豪族に頼らない軍事力と経済基盤を持つことができる
3)さらにこの政策の決定版が北魏の均田制です。
自作農民を育成する仕組みだ。これは国家が人民に土地を支給するのです。
人民は土地を支給されて自作農になることができる。
そのかわり、かれらは国家に対して租庸調(そようちょう)という租税を納め、兵役の義務も果たすことになります。
 これによって北魏は強力になったともいえます。
この均田制は北魏につづく王朝にも引き継がれました。
北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制はおこなわれました。
>唐の時代に日本から遣唐使がいく。遣唐使がこの均田制を日本に伝えました。
これが班田収授法という名前で日本でも実施されたわけです
 
>>>4)皇帝権力強化のもうひとつの課題が官僚の登用。
が、皇帝に忠実な官僚の採用にはほど遠いような感じですね。
 
>>>国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのはさらにあとの隋、唐の時代になってからです。
>>>以下、WACWAC。
 この指摘は中国古代統治機構の決定的変更の結節点を示しているが、さらに唐代中期以降の律令制の矛盾を乗り切るために中国専制国家機構の大きな再編がなされていく。
それを明らかにしたのが、
内藤湖南(1866~1934)唐宋変革論。
「中国史概説」(白帝社刊、熊本崇編)も同じような歴史視点。

 隋、孝文帝の華北(遊牧騎馬民族の戦闘的軍事態勢を含む)華南の中国統一政策を途上とし、唐帝国の成立以降の中国各帝国の専制支配統治機構の完成。
 「中国史概説」より。
 
 「政治形態でいえば、貴族政治から君主政治へ、 あるいは軍事国家から財政国家へ、の変質。
財政国家とは財源確保を最優先とし、武力も平和もカネで構う国家をいう。
律令制の諸矛盾を露呈した唐が、その後なお150年余りも命脈を保ちえたのも財政国家に転進したことによるものであり、
5代宋以降の強力な皇帝権力を支える基盤となった。
 藩鎮の軍事力も中央に吸収され兵力100万の<大常備軍=禁軍>が誕生する。
 また、これを支える巨大な国家財政を動かす<3司使>は宰相に次ぐ重要なポストとみなされ、<計相>と称された。
 つまり、節度使に代表される藩鎮体制と3司使に収束する財務官僚とは<唐、宋変革>の過程で現れた双子の兄弟だった。」
>>WACWAC。隋、唐統一華北華南帝国を歴史的結節点にする中国専制国家体制は唐代中期以降の律令制の破綻を通じて、
官僚支配の合理的政治軍事機構を皇帝権力に集中する君主独裁中央集権制に独自進化していった。
>>だが、このような官僚中央集権支配機構に基づく君主独裁体制は人民掌握力に大きな限界を絶えず孕み、国家と社会の分裂を常に内包するものである。
 解りやすくいえば、封建中央支配者に分権され、人民を掌握の自由を与えられた地方封建領主による人民掌握の方の住民支配はきめ細かく厳しい。
 
 
 中世惣村(それ以前の荘園公領制において、土地所有によって、モザイク状態に分散)を経た封建ムラ社会の強固な団体性(=異分子排除)は
領域の自主的自治というよりも、一定の領域に閉ざされた流動性のない閉鎖的生産、上からの強制による年貢供出最優先の自給的経済優先の閉鎖社会のもたらしたものである。
 
 中央官僚支配機構の末端まで届かない中国、朝鮮のムラ社会の方が遥かに流動的であり、個人主義的である。ここでは本質的に国家と社会は分裂し個人の地域からの遊離性が強い。土地所有形態も不明確なまま慣習により放置される場合がある。
 
 近代化を急ぐ明治維新政府は歴史的に上からの強固な団体性を強制され続けてきた日本のムラ社会の経済効率的組織的側面を温存、利用したした。
 
 そこにさらに、古代習俗的天皇制による国家共同幻想儒教的家族国家観に塗りこめることで、軍隊へ工場労働への動員の基盤とした。
 
プラザ合意バブル崩壊を大きな歴史曲がり角として、グローバル資本制を通じたTTP事態が本格化すれば、日本的団体社会の上への重層は、地域住民の基底部分において崩壊するだろう。
 
 すでに、そういった事態は大きく進行しており、そこにおける戦後的自律性の欠如は反動として、架空の共同政治幻想でしかない団体性に脱出口を求めてきている。
この過程の進行状態が民主党政権交代から昨年暮れの衆院選挙にたち現れている。
きわめて純日本的な政治過程がただ今進行中。
 
 人々が無意識に求める団体性が、形としてきちんと存在するのは、機能的に純化した中央地方の行政機構、国家機構、政党、企業団体だけに限られる。
その他は全部、共同政治幻想の分野になる。
 
 だから、支配層は本来原子的に分散する必然傾向にある個々人、最低単位の家庭を自らの政治意思の統合するために、国家と社会の共同政治幻想を手を替ええ品を替え煽り立てるしかない。
 
>>一元支配は本質的に多元社会の深化をはらんでいる。
>>これは日本の現在と将来と同質次元のもの。