反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第三回。ホメーロス「オデッセイア」はミケーネ時代を舞台にしながらも、アテネ時代の背景やヘレニズム時代の影響を受けた実に個人主義的人間的神々と人間の葛藤の世界。素朴な共同体伝承はみいだせない。

 中断した続き。
松岡正剛さん「千夜千冊」の「オデッセイア」の論旨に沿ってブログ記事を書いてきたが、その後、「イーリアス」と「オデッセイア」の成立した時代背景について別角度の説を参考にして
アレコレ考えた末、自分の歴史に対する基本姿勢である実証性重視という観点から、
松岡説のホメーロス語り部たちの伝承と総合、アルファベット文字による叙事詩実作説に疑問を持つようになった。
 
 さらに、最終結論になってしまうが、
ホメーロス作と称される「イーリアス」「オデッセイア」によって、古代ギリシャ全域に形態は違っても共通する民主性、平等性を検証するのは不可能であると解った。
 
 理由ははっきりしている。
イーリアス」「オデッセイア」は古代ギリシャの素朴な共同体の民衆神話に根を張った伝承から生まれたというよりも、(ミケーネ時代、暗黒時代の民衆生活を反映した伝承でない、という意味。)
 アテネ都市国家の神話、あるいは、その後のヘレニズム時代の要素が大きくいりこんだ神話世界であるという、結論に達した。
 
 従って、その神話世界のカバーする時間的場所的範囲はとても広い。
イーリアス」と「オデッセイア」の主人公オデッセイウスの小アジアトロイア征服と帰郷の10年間を凝縮した神話世界は
1)青銅器時代のミケーネ時代を舞台にしているにもかかわらず、
2)暗黒時代、古代ギリシャ都市国家繁栄時代、
3)アレクサンドロスの征服によって形成されてきたヘレニズム時代から、
はてはローマ時代の端緒も含むものである。
 
ホメーロスの「オデッセイア」の神話世界を現実の歴史物語を含むものと理解したシュリーマントロイア遺跡とミケーネ文明の遺跡発掘が事実ならば、
次のような実証性、重複性の確証のある指摘も事実であろう。
 
ペイシストラトス( 紀元前6世紀頃 – 紀元前527年、古代アテナイの貴族で僭主)は紀元前6世紀に最初の公的な蔵書を創設した。
A)論証。
キケロ(前106-前43。古代ローマの政治家・雄弁家・哲学者。博学・多才と雄弁で名声を得、三頭政治の開始以来共和政擁護を主張。)は、
アテナイの僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した。
 
B)論証。
ペイシストラトスアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。
筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。
ホメーロスのテクストは羊皮紙もしくはパピルスの巻物「ヴォルメン」に書かれ、読まれた。
これらの巻物は、まとまった形では現存していない。
 
C)論証。
エジプトで発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある最初にホメーロスのテクスト校訂版を作成したのは、アレクサンドリアの文法家たちだった。アレクサンドリア図書館の最初の司書であった。」
さらに、歴史的事実と大きく矛盾するシーンが描かれている。
 
証拠、その1。
ホメーロス重装歩兵戦術を詠っているがファランクスの導入は紀元前675年ごろ。トロイア戦争(推定BC1150年ごろのミケーネ時代)は絶対にありえなかった。
当該箇所を引用したかったがミスで削除。一番鮮やかに矛盾点が浮き彫りなっているところだが、再び探す時間がないので割愛。
証拠、その2。
戦車(二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている――英雄たちは戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。
詩人(W。ホメーロス)はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず<戦車対戦車で、投げ槍を用いていた>、
同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのである。
ミケーネ人の<戦車VS戦車の戦い>は集団歩兵戦の未発達な時代の戦法。古代中国春秋時代、インドヨーロッパ語族は戦車戦。戦車戦では兵士の大量動員と敵戦闘力の殲滅(きめ細かな殺戮)は困難。
 
証拠、その3。
ミケーネ時代のトロイア征服はヒッタイトの製鉄技術の東地中海に拡散する以前の青銅器時代鉄斧の火事場での焼き入れは絶対にありえない。
物語は青銅器時代のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。
しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている。
証拠、その4。
オデッセイウスのトロイア征服戦争出立の故郷であり、10年の歳月を経て100人の男に誘惑を何とか交わしてきた妻の待つイオニア諸島イタキ島ギリシャ本土
北北西の辺境地。北は現アルバニア
ギリシャの総大将オデッセイウスの故郷とするには根拠希薄。
オデッセイウスを神秘化するためと、帰郷後の人間臭い色欲と暴力のゴタゴタに差しさわりのない地を選んだ完全な作り話臭い。
 
さらに、次のような見解はホメーロス楽人、吟遊詩人説で、文字による著作があった、としていない。
>「イーリアス」。ウィキペギアより引用。
イーリアス』の作者とされるホメーロス自身も、そのような楽人(あるいは吟遊詩人)だった
ホメーロスによって『イーリアス』が作られたというのは、紀元前8世紀半ば頃のことと考えられている。
イーリアス』はその後、<<紀元前6世紀後半のアテナイにおいて文字化され>>元前2世紀にアレキサンドリアにおいて、ほぼ今日の形にまとめられたとされる。
 
(W。先にあげたアレキサンドリア云々は紀元前3世紀ココでは紀元前2世紀。時代背景が大きく違う。
紀元前2世紀は完全なローマ共和国の地中海支配の時代。
紀元前2世紀あれば、キケロ紀元前1世紀の人で「アテナイの僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した」という報告は重みを増す。)

>「オデュッセイア」。ウィキペデアより引用。
イーリアス』とともに「詩人ホメーロスの作」として伝承された古代ギリシアの長編叙事詩
紀元前8世紀頃に<<吟遊詩人が吟唱する作品として成立>>し、その<<作者はホメーロスと伝承される>>が、<<紀元前6世紀頃から文字に書かれるようになり>>
、現在の24巻からなる叙事詩に編集された。
 
 この<文字化の事業は、伝承ではアテーナイのペリクレスに帰せられる>。
(W。ペリクレス。紀元前495年? - 紀元前429年は、古代アテナイの政治家であり、アテナイの最盛期を築き上げた政治家として有名。この人はペルシャ戦争勝利後のアテナイ政治家。)
 
(W。「イーリアス」の文字化は紀元前6世紀とすれば、定説では遅れて製作されたする故郷への帰還叙事詩
オデッセイア」は紀元前5世紀近辺になり、この時代は通常、対ペルシャ戦争勝利後のデロス同盟から年貢?を巻き上げパルテノン神殿や市民にカネを分配したアテネ全盛時代。「オデッセイア」の世界がどこか人間くさくなっているのもうなずける。)
 
なお、ホメーロス実作説の 2003/10/07 masashi tanakaさん記事のような指摘もある。
ホメロス問題】
彼の作とされる両叙事詩は、原作のままで現在に伝えられているのではなく,前6世紀にソロンの改革の時代あるいはペイシストラトスによる僭主政治の時代に,
<<それまでに散乱していたホメロスの詩を結集させ>>,前3世紀にアレクサンドリアにおいて文献学的研究にもとづいて校訂されたものである。
<それまでに散乱していたホメロスの詩を結集させ>>。(W。ホメーロスの実作はあったが、散乱していたのを結集させた。)
 
 masashi tnakaさんの記事は要点を得ていて、ソクラテスプラトンなどの関連で引用を予定しているが、
この論のキーポイント。
<<~>>部分の実証性はアルファベット文字は紀元前8~9世紀には実現していたというだけで実作説の根拠に乏しい、と考える。
>以上から、自分の目論見であるホメーロス神話に古代ギリシャの平等性、民主性の奇跡を探求はお門違いだった、というほか無い。
イーリアス」「オデッセイア」は語り部の伝承に基づく民衆神話というよりも、都市国家アテナイの繁栄を基礎にヘレニズム世界の融合した実に人間的な物語である。
 
>ただ、以上を承知で松岡正剛さんの「オデッセイア」の物語そのものの解説を辿っていくと、主人公のオデッセイウスや神々たちは、徹底した個人主義的世界を持っているということである。
この点が日本はもとより、世界の神話世界と大きく違うところである。
具体例を挙げる。
>次回に続く。