毎週欠かさず聴いているラジオパーソナリティーの一時間番組。
昨夜は久しぶりにデスクジョキーの夜で「男っぽい男性ボーカル特集」だった。
其々数曲ずつかかったが、ヤッパリノーサンキューだった。
体質的に受けつけない。
その前の時間はオールドジャズの一時間の長寿番組。
もう20年以上やっているらしい。
こちらの方は好みじゃないが、好奇心が先行して飽きない。
パーソナリティーの島崎敏夫の年輪の刻まれた自分スタイルのダンデジズムに好感が持てる。
アシスタントの女性シンガーソングライターはでしゃばらず、かといって、受身一方ではなく、当意即妙の掛け合いは、近頃では珍しい出色モノだと思う。
毎週楽しみにしている。
こちらはどうやら不定期放送のようだ。
先週は偶々、大岡昇平の4回分の最終回だったので、遡って聴けまいかと、ネットで調べたが、ホームページには過去に遡った音源の一般公開はされていなかった。
広く一般の興味という観点の価値判断からは、その必要はないとみなされるだろうが、ここが<コアな文化を受け継ぎ定着させる勘所>なんだと思う。大げさではなく。
たいした手間のかからない作家のアーカイブの音源のホームページでの開放は一部の専門家の知識の独占をもうちょっと幅広い面に拡散することであり、その量的拡大が専門分野の研究を生かす道でもある。
現代日本文学の専攻者ならば、研究課題に上ってもいいような作家ばかりである
一挙両得であり、それは大切な日本のコア文化の継承の実際の姿である。
前提として文化伝統はコアの部分しか継承されない、と思っている。
後は消費され忘れ去られる。
その点、島崎敏夫のオールドジャズの番組のカバーする年代は戦前の1920年代半ばから、1960年代まで幅広く、時にはモダンジャズがかかることもある。
時代背景、英語の題名の解説、日米文化論?もよくやっている。
アメリカ文化にできて、自分たちの日本文化に上手くできない現実が繰り返されると、負の文化的土壌が知らず知らずの内に形成される。
ちょっとした心遣い、積み重ねも大切である。
伝統=コア文化は新たに生み出されるものでもある。
天皇制と一般にほとんど縁遠い伝統文化が保守されておれば、後は外来モノを無節操に輸入するでは、歴史ある伝統文化は、迎合と反面の排外に傾く。
歴史の浅いアメリカでは各分野で華やかな名誉の殿堂があり、新しい歴史を残そうとしている。
例によって、池上流解説の増幅器の如き、サクラのタレントたちが配置されていた。
アレでは日本文化のコアが継承されているいえないだろう。
文化がコアの形で継承されていなければ、情緒の共有や「歴史」の現時点からの勝手な解釈の次元に留まるだろう。
コア文化伝統には担い手たちがいるが、アレラの所業は文化の担い手たちを作っているというよりも、今日の都合に迎合した歴史の修正ではなかろうか。
邦画の、森茂久弥、淡島千影の「夫婦善哉」をみているものにとっては余りにも無残な代物、としか言いようがない。
主演の男女の演技はとにかく下手過ぎる。役柄を掴んでないし演技の基礎がないから、大げさ演技に走っている。
もっともそうなってしまうのは演出の勘違いによるところが大きい。
あの夫婦善哉は井原西鶴にも描かれている浪速の大店商人の世界とそこから、ズルズルと後退する業を背負った遊び人で無責任なボンボン駄目男と、腐れ縁の芸者駄目女の、浪花節や義理人情、合理主義の世界には娶られない、あっけらかんとしたなかにユーモアさえ醸しだす、世界を存在論的に提出した物語である。
また、浪速の商人を取り巻く風景のなかで、数百年にわたって、大なり小なり延々と繰り返されてきた実話でもある。
井原西鶴以来の浪速商人を描く際の定番物語なのである。
それは野坂昭如に引き継がれている。
今日的に言えば、川上映未子の芥川賞作品に劣性遺伝している。
もう最初から物語りはマイナーな非常識で、かつハミだしリアリズムな世界を宿命付けられている。
主人公のボンボンは現実を直視できない、いわば逃避者である。
二流芸者にとって、男が生活力の欠如の業を背負ったボンボン駄目男と判っていても、寄り添って生活を全うすることが仄かな灯りとなって不思議でない。
コレもリアリズム。
つまり彼等は最初から似たもの同士、夫婦善哉だったのである。
しかもこうしたリアリズムの世界はカネとモノを商う本質的にあやふやな商人の世界では常に裏舞台として現実に存在し続けた。ここが農民生活とは違っている。
邦画はこの辺のことを汲み取って、淡々とした人間風景の描写に徹しており、大層な思い入れの場面は皆無だった。
ところがNHK演出者は大げさアップを多用、画面の色彩が暗く、おどろおどろしい男女劇に仕立て上げているようだ。ユーモアの欠片さえ何処にもない。
>冒頭の「思い出のグリーングラス」に帰る。
パーソナリティーの簡単な紹介は、田舎から都会の出て行った若者の懐かしい帰郷物語という森山良子の唄った歌詞に沿うものでトムジョーンズの死刑囚の故郷を思い出す歌詞は無視されていた。
以前の記事でこうした訳詩は原作への冒涜であると書いた。
ただし、他の一部ブログにあるような現実を直視できない日本人という、ところまで問題を拡張しなかった。
が、政治問題に強引に絡めて書いたことに間違いがなく、今ではもっと別な見方ができなかったのかと思っている。
少なくとも原曲の「思い出の」を紹介する時にどの程度に治めておくか、パーソナリティーは問題意識を持って欲しかった、と思っている。
例えばバイリンガルの人が聴けば簡単な紹介と歌詞の山場が余りにも違い過ぎる、と直ぐ判る。
大昔の自分でさえ、聴いただけでなんとなく、判りやすい歌詞だから、全体像つかめた。
ここは勘所なんだと思う。
マス、メデイィアでパーソナリティーを張ってうん蓄を毎回披露しているものが、短い紹介のなかにホンのちょっとだけでも原曲の内容を付け加えるだけで、聴取者には別な世界が開かれるし、事実にそった深堀の機会が与えられる。多言は必要あるまい。
何時までたっても森山良子の歌詞では、原曲とはかけ離れて勝手に日本限定の情緒に流されているだけである。
エルビス、プレスリーはラジオ、リクエストをしたとまで解説しているのだから、元々、カントリーのレーベル、サンレコードからデビューした彼にとっても、思い入れのできる曲であり、歌詞そのものの劇的要素が重要な役割を果たしているとちょっとぐらい言葉を挟めるはずだが。
この唄は元々、ナッシュビルのソングライターによって、作られたカントリーソングで、カントリーソングには、酒にまつわる歌詞と刑務所ソングは似たような次元の定番でさえある。
現在の刑務所拘束者人口230万、農業人口よりも多いそうだから、決して他人事ではなく、受け止め方も日本とは違っている。
カントリー史上に名を刻む歌手でこの領域を唄わないものはいない。
日本の芸能界と関係者には陽性引きこもりの特徴があるのか?
売れっ子局アナとして長く勤めたあげたものだから、歌詞の内容は知らないはずがないと想定するが、
もしかして知らなかったとしたら、それはそれで存在を疑われるコトである。
一事が万事ということもある。
いづれにしても、ヤッパリ現実を直視したくない日本人を土台にして、そういう所業は成り立つのか?
私の想いはたった二言三言付け加えるだけで、世界は開けるのに、なのだが。
>非論理的ということもある。
後者はマッタク知らないが、前者は二回ほど読んで全容は掴んでいるつもりだ。
作品の冒頭でいきなり炸裂する、船宿で二人で酒を酌み交わすもの周辺の江戸風情の執拗で丹念な描写は筆達者な作者が犯人独白モノの推理小説の定番スタイルから読者の目をそらすために巧妙に仕組んだ撒き餌と看過する。
当然、この描写とともに、近頃、鼠小僧という大泥棒が出没し云々、という相方の前振りの言葉が挿入されている。
読者は達者な描写力でこの小説の全体像が犯人自身の独白スタイルという推理小説の定番とは気づかされず、物語に引き込き込まれていく。
そして、本人独白の語り口にバトンタッチされて、江戸くだり中仙道の道中で偶然であった旅の道連れと八王子の旅籠の相部屋になった道連れによる枕泥棒事件に話を持っていく。
江戸風情だけでなく、この辺の描写力も不気味に真に迫っている。
むしろこちらのほうがマッタク無駄がなく、軌道に乗っている感がする。
本物の大泥棒の懐を狙った枕泥棒のこそ泥犯人は瞬く間に気配を察知され、鉄槌を食らって、宿のもの総出で取り押さえられる。
ところが田舎の旅籠の柱に縛り付けられた犯人の、強がり粋がりは次第にエスカレートして、自分こそは江戸中を騒がせた怪盗鼠小僧だと啖呵を切り出す。
切迫感のある語りの面白さに引き込まれた酌を交わす相手の、怪盗鼠小僧へのリアルな関心が頂点に達した最期に、
「おめぇーの目の前に入るこの俺が鼠小僧よ、」という最期の落ちが付く。
芥川の余りの筆達者な描写力、語り口が最後の最後まで犯人独白劇の推理小説の定番を読者に気づかなくさせたのだ。
もっとも明治時代の東京下町には江戸情緒、風情は色濃く残っていたと思う。
250年以上続いたものが僅か数十年の文明開化で消去されるわけがないのである。
芥川は見知っているものを紙面に再現した部分が多い、と見る。
それだけに描写は丹念で説得力があり、つい引き込まれるのも確かであるが、
やっていれば、江戸に匂いプンプンという解釈以上の、もっと広がりをもって理解されただろう。
私のような弩素人と違って、プロなんだから、手間は大してかからないと思う。
小説の全体像を掴みきれていない、つまみ食い、というほかない。