反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

井原西鶴、松尾芭蕉、東洲斎写楽は中華文化の影響拭いされない近世上流文化を脱した日本独自に発展した下流文化の偉大な芸術家。

 前日は突風吹き荒れる異例の春の大嵐。
4月4日(水曜日)。早朝、ウォーキングでは防寒対策をしたほど、サムイ朝だった。
この日の予定は、歩いて大阪城天守閣までいくつもりだった。かなりの距離がある。
 処が、早朝、ウォーキング前のストレッチで右足の筋肉のこり具合を見て、断念。
生駒山、山歩きの下りで足場が悪く、足元を確保するため右足を使すぎたためだろう。
自転車で、
となると、天守閣以外に二か所回る時間ができる。
成正寺の大塩平八郎の墓。
 
 共に何回も訪れているのだが、井原西鶴の事は生前、住居としていた大阪市中央区鑓や町の句碑間まで探し出して確かめた事があったが、実は作品についてホントは何も知らない。
 
 「好色一代女」は溝口健二によって、映画化されたモノを、ズット以前にテレビで何気なく放映されてのを見た。
 
 題名は「西鶴、女一代」。
由緒ある家柄に生まれた姫君の人生の行く先々で、不幸に次ぐ不幸に見舞われ、最後は天王寺の一心寺の高い床下を根城として、ゴザを抱えて春を売る女に落ちていく物語である。
 
 溝口健二の名演出で、田中絹代演じる名家出身の一人のか弱い女の身の上に、コレでもか、コレでもか、と云わんばかりの不運、不幸が連続していくのを見せられると、最後の一心寺に落ちぶれた姿と周囲の殺伐とした風景描写の中に、何か神々しい宗教的雰囲気さえ漂う。
映像による悲劇もあそこまで絶妙な演出力で徹底されると、悲劇を超え、神々しい領域に昇華された感情が自然と生まれる。(「山椒大夫」の佐渡島のラストシーンに通じる)。
 
 が、西鶴の事は実際に何も知らない。
 
>ネット上の井原西鶴評でよかったのは二つ。
松岡正剛さんの千夜千冊「好色一代男井原西鶴
手短に西鶴の文学的位置づけが現代的視点から、まとめられている。コレを読むと西鶴の文学作品としての斬新さ、ハイレベルはなんとなく納得できる。
 後は、実際に読んでみてどうかと云う事。
高校時代の教科書か参考書に載っていた記憶があるが、世之介主人公の「好色一代男」ではさすがマズすぎるのか、「日本永代蔵」だったように想う。
 あまり面白くなかった記憶がある。
 
>もう一つは、在野の有名な江戸時代考証家による、西鶴作の浮世草子は「好色一代男」のみで、他の著名作品は彼が監修しただけ説。
文体、使用言語、作品内容を綿密に調べてた結果、「好色一代男」以外の作品には全部、共通性があるが、「一代男」にはそれが見当たらない処からそういう結論に達しざるえないと。
他の作品は平凡過ぎて、「好色一代男」のレベルにとても達していない、弟子の作品を西鶴は監修しただけと。
 
 多分、当たっていると想う。 
 
松尾芭蕉井原西鶴は江戸初期のヒトで、活躍した時代は元禄の同時代人。
 
 以前、浮世絵展で見た元禄時代の浮世絵と東洲斎写楽の歌舞伎役者大首版画のでた江戸後期の文化文政の時代では版画の制作技術がまるで違って、前者は余りにもシンプル過ぎて芸術的鑑賞に耐えないシロモノ。
 
が、江戸文化が最高潮に達したと云われる文化文政時代の写楽作と称される浮世絵さえ、後半のモノは作風が余りにも平凡過ぎて、前半の作品と違い過ぎて、別人作が定説となっている。
しかも、そもそも東洲斎写楽とは何ものだったか、謎の人物のまま、未だに諸説入り乱れ、書店に行けば、写楽の素性を巡る著作は何冊もある。
 
 >井原西鶴の同時代人だった、松尾芭蕉の素顔も有名なプロの俳諧師ではなく、幕府の隠密説がかなり説得力を持って、語られている。
江戸初期の時代に奥の細道の長旅などは俳諧師では金銭的に無理とか、長旅の行程記録から勘定すると、常人ではとても考えられないスピードで歩いていると。
単なる俳諧師が猛スピードで東北地方を旅してどうする。
仙台伊達藩の内情探索の使命を帯びていたとかいう説はかなり説得力がある。
そもそも、仙台藩を開いた伊達政宗自身が徳川幕府開闢当時、幕府への反抗の機運を警戒されるほど、実力を持った人物だったが、その後、全国第3位の大大名で北上川流域開発、運河開発、石巻港建設などによって、江戸に流通するコメの半分は仙台からのモノだった。
 当時、中央政府が地方政府の生の情報を得るためには、当地で見聞きした情報の取捨を含めて、キチンと情報分析できる教養のある人物をインフォーマルに派遣する必要があった。
 伊賀上野忍者の里、出身の有名俳諧師松尾芭蕉は適任である。
 
 4月2日のブログおいて、1694年の芭蕉の最後の旅、伊賀上野を出発して、奈良を通って、生駒山中の暗峠を越え、大阪の宿で没する記事を書いた。
書いていてなんだか不思議な気がした。どうしてそこまでして旅をしなければならないのか?
中世に旅をしながら、和歌を詠んだ西行法師の宗教性と芭蕉では時代背景も心の在り方の次元が違う様に想う。
 やっぱり、旅をしての情報収集と詩作が無理なく、芭蕉の中で溶け合っていた、としか思えない。
 
 >>しかし結局、井原西鶴松尾芭蕉、そして、東洲斎写楽に共通するモノがある。
 
彼らの作品は庶民を対象としたモノであり、武家や公家、有名寺社の嗜み、を対象としたモノでない。
上流文化ではなく、下流文化である。
 
江戸封建時代の鎖国と、そこにおける生産力の発展が相まって、日本独自の庶民文化を形成し、その具体的創造者が井原西鶴であり、東洲斎写楽だった。
 
 彼らに権門お抱えの上流文化の創造者の様な、作家生活は保障されるまで、至らなかった。
彼らの作品が庶民を対処としていたように、彼らの日常生活が、まさに庶民そのものだった。
作品は高値を呼んだ訳ではない。庶民の間の移ろいやすい人気を頼りに作品は量産された。
 
 >が、江戸時代の鎖国を背景として、これまでの中国文化圏影響力から隔絶した日本文化の独自発展の可能性をくみ取ることができたのは、庶民の人気を頼りにその息吹を作中に反映した彼らの作品群だった。
 
 >上流芸術作品は所詮、中華文化の亜流の観を拭いされない。
重厚荘厳な日本画に描かれるはずの虎が真似にまねを重ねて終いには、猫の様に描かれてしまうのは軽い文化的悲喜劇である。
実物のトラとは全く縁遠いから、模倣に模倣を重ねると、元のモノからはかけ離れて写実性を失って、最後は美的約束事の様になり、猫の様な虎に成る。
 
 >松尾芭蕉はどうなんだという事に成るが、基本は井原西鶴東洲斎写楽と同じ下流相手の地平にいると解釈する。
 ネット上のある芭蕉作品評は彼の俳諧の短いセンテンスに中世の西行法師まで引き合いに出して、深淵、高尚な宗教性思想性を帯びた、意味づけをしている様だが、その説はどこかちぐはぐな、無理がある。
 
 芭蕉西鶴写楽に近いポップな要素のあるヒトであり、鎖国日本近世が生み出した日本独自の文化発展が生み出したひとである。
 
 自然体として無理なく、日本の特殊にあって、普遍性に通じる道を開いた本当の芸術家である。
 
強引に結び付けると、グローバリゼーションの時代だからこそ、日本を失っては、世界の普遍性に到達できない。普遍性の実存は具体的である。
 
 卑近な例として、東洲斎写楽の浮世絵版画の27バージョンの大首絵。
当時は版元であり、プロデューサーでもある蔦屋重三郎によって、短期間に大量生産されて、江戸中にばらまかれ、終いには江戸ミアゲの包み紙にもされるようになったそうだが、今実物がオークションにかけられると、4000万円ほどらしい。
 円山応挙、早川雪舟の掛け竺。海外では4000円の値は付かないと想う。
似たような本物なら中国、東アジアにあるという事じゃないかな。
 絵の解らない私だからこそかもしれないが、同じ美術館で見た応挙の絵と写楽の浮世絵版画を比べると、断然写楽だ。写楽の大首版画は、シンプルだが悪魔的でさえある独創的なオーラを発している。
 
 ムッソリーニは生前、日本人は何でも真似て、取り入れることにかけては素晴らしい、と云った。
でも、その挙句の果てに、戦前は途中でプッツンした。
現在もプッツンする道を歩んでいないか?
平成の開国=TPP。プッツンの仕方がが変わっただけで、庶民にとって、結果は同じになる。
戦争をやらなくても戦争と似たような結果がもたらされることもありうる。
それほどまでに金融寡頭制の破壊力は大きく、歴史の時間の歩みは歩を速める。
それに多数派国民は呑み込まれていくのではないか。
 
  <間違い訂正と追記>
伊達藩は江戸時代第3ではなく、第4の石高の大名らしい。しかし、北上川流域の開発によって、実質、100万石とも記されている。江戸に出回ってたコメの半分が伊達藩からのモのだったことは注目に値する。
当時のコメは貨幣に等しい、交換物。関東に続く東北の地理的要因も重なって、中央政府にとって伊達藩の潜在的力への警戒心は当然働く。情報収集の必要ありだ。
 
早川雪舟はデビットリーンの「戦場の掛ける橋」の日本軍捕虜収容所所長役を演じたハリウッド日本人俳優。
雪舟の絵は見た事在る様なない様な。
あの辺の絵は紛らわしい。
(とは、見っとも無い開き直り!)知ったかぶりすんじゃないよ、ともう一人の自分が言ってます。反省!!
謙虚にいこう!
 この前の生駒山山歩きの記事の中で暗峠を頂点とする奈良街道に触れた。
大阪城天守閣の説明では「奈良街道」ではなく、「奈良道」と表示されており、正式な奈良街道は近鉄電車の三重方面、JRの関西線の通る二上山生駒山系の両方が途切れ、その間を大和川が流れる開けた谷を通過するほぼ平坦の道。
 ただし、この道はそのまままっすぐ向かえば、奈良の都の方角のずっと南に成るはずで、奈良に向かうには、何処かで北上する必要がある。
 従って、浪速の都と奈良の都の近道は暗峠を抜ける「奈良道」である。
特に奈良側から登った場合、傾斜角のキツイ大阪側とまるで違って、比較的なだらかな坂道となっている。
松尾芭蕉が大阪行きでこの道を選択したのは当然である。
ただ、荷車を曳いたりして上がれる坂道ではなく、物資の運送には奈良街道を利用したと想う。
 
 
>>大阪城天守閣のテーマから、絶対に、以下の二点について書く記していきたい。 
 
 天守閣陳列の諸品で仙台藩伊達政宗徳川家康の近親宛の、関ヶ原合戦以降の情勢分析と施策提案。
豊臣秀頼とその家族を江戸に人質として、確保すべき。そうでないと関ヶ原の残党が結局、秀頼.を担いで謀反を起こすであろう、という書いた長い巻物の直筆の書状を目の当たりにする。
達筆だが、意図的に詠みやすく書かれており、見てくれ抜きの、直接相手に諄々と説い長文。
コレを目の当たりにっすると、戦国の世で容赦なきふるまいをした武将でである同時に他者を納得づくで、説得する姿勢のあった、政治家、伊達政宗の実像が彷彿としてくる。
まさに戦国の世も教養あるンモノにとって、文は人なりであった。
 
>>大阪城天守閣所蔵の有名な「大阪夏の陣屏風絵図」重要文化財ん実物を見たが、絵としの芸術的価値は乏しいモノ。後は戦史的資料価値と、敗者逃亡の生々しい姿の描写の特異性。しかしこういう描写も中世絵画(一遍上人絵詞、等々)に伝統があり、綿密だが、その芸術的次元まで至らず。
東軍、戦勝者、黒田家が戦後ただちにお抱え絵師に書かせたものだから、当然で、戦と女子供を含めた敗者逃亡の生々しさの図も、リアル描写を装っているが、セーブされいて、鎌倉時代の蒙古襲来図の範疇を出ていない。時代は進歩したが芸術的な本質に置いて進歩はあったのかどうか?
 
 であるが故に、修復作業もその点は承知の様で、夏の陣当時の事物人物を際立たせる様に、露骨に上塗りされている。もうぬり絵の域に達している様で、余りに見年月が過ぎて、ぼやけた日本画への上塗り修復作業の跡が酷すぎる。アレではまるで油絵の如し。
 
現代に通じる政治家、伊達政宗の在り様が彷彿される。
 
 >>抽象的に云えば、日本のズット続いてきた政治、文化には「正」「反」「合」がなさすぎる。
なし崩し性は決定的欠陥に成る時代がある。
時すでに遅しが宿命で、そのため選択肢は狭まる。
 
 私から見ると、欧州経済危機は表面的には深刻そうに見えるが、国民的視野に立てば、中身は日本の方がずっと深刻。