反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

松尾芭蕉(江戸前期)ー小林一茶(後期)。正岡子規(明治時代、発句として芸術化?)の代表作が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」程度じゃ。、大衆化?衰退?本質?今でも衝撃残る桑原武夫の俳句ジャンル第二芸術論。

 柄に似合わない格好をつけて、松尾芭蕉だの平家物語、木曽の義仲、粟津のくだり、など、己の生活実態とまるでかけ離れた自己欺瞞である。
その上で、東アジアなんだかんだを持ち出して、理屈をこねて村上春樹を批判したつもりでいる。
 
 日常生活でカントリーミュージックの定番に安らぎ見出し、バックグランドミュージックにしている。普段、思わず口にする音楽が横文字ばかり、youtubeで何時間もカントリーを聞いても飽きない。
 
 ま、そういう事態をそのままにしていてはいけないという、ゆり戻しが働いた。
生活実態に遊離した論理破綻に気づかせてくれた小林一茶さん、正岡子規さんに感謝せねば。
やはり理屈や知名度、買い被り、よりも実際の作品の如何である。伝聞よりも目撃である。
 
 一応、この間の企画から、西行法師ー芭蕉ー一茶の系譜をたどって、日本独特の定型詩の世界を平安ー鎌倉ー江戸の社会経済実態とできるだけパラレルに論じようと企画していた。それで、ネット上で資料を収集してきた。
俳諧が近代日本担って行き着いたさきが正岡子規であること程度は知っていた。
中世、近世の俳諧の系譜を踏まえ、理論的に統合し、俳句として独立させたのが正岡子規である。
 
 西行のやっているのは今で云う短歌であり、朝廷の命を受け、天皇が選者、作者として自ら関与した新古今和歌集に一番和歌を採用されているのが西行法師であった。
 
 従って、グーグル記載論者の云う次の指摘は完全に正しい。
 
「出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが~当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する。しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。」
 
 が、江戸初期の芭蕉が薫風俳句の新境地を西行に見出したのは「室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたこと」(グーグル)、に大きく影響されている。
 
 しかし、平安末期、鎌倉初期の西行のように、室町時代連歌に親しむ人たちは、仏道を求めて歩き回る必要はなかった。鎌倉時代に勃興した新興宗教が本格的に大衆化し巨大教団に発展したのは室町時代であり、仏道は多様性と追及の場が与えられていた。歌と仏道の両得の道は必要なかったし、意味もなく不可能だった、のである。和歌の道の大衆化と仏道の道の専門化であろう。
 
 そして、和歌の道の大衆化は通俗化、形式化に陥ったのである。
江戸初期元禄の芭蕉室町時代西行新評価(旅、歌、求道)をすくい上げることによって、連歌の落ちいっていた通俗化形式化、遊戯化の歌壇の現状から脱出できた。
それは同時期の大阪で西鶴が1昼夜何万句を詠んで話題を集めていたのとは好対照である。
 歌壇のマンネリ化を西鶴は奇矯の迸りで打破しようとした。結果、そのあまりにもの饒舌は浮世草紙「好色一代男」「日本永大蔵」等々の散文として結実した。
 
 一方、芭蕉西行の旅と和歌にヒントを得た新開拓の道は行動の徹底化の中に新境地を見出し、俳句の完成を希求したモノであったから、結果的に西行仏道の替わりに俳句道を求道するものになってしまった。
納得する俳材を求め、対象に心を没入し、表現を極めるためには、己の人生を常に旅の途上に置かなければならなかった。そうしなければ自己昇華と表現の完成の合体はなかった。
 
 芭蕉の詠んだ俳句は俳句の形式の中での熟考による推敲を伴った完成形態であると、実感できる。
短い中にぎりぎり状態の中での個性的生ありかたをキッチリ浮かび上がらせているものまである。
 
 旅に病んで夢はかれのをかけ廻る。
 
 その他た各種の俳句にも、俳句形式に純化完成しなければ、表現できないものがある。
 
>ところが、小林一茶の俳句になると、下世話な、よく言えば、庶民的な視点にどっぷりと浸かったものになる。はっきり云ってこの程度が2万句も詠んだ一茶俳句の代表作であれば、それ以外のレベルは押して知るべし。
 代表的な句
  • 雪とけて村いっぱいの子どもかな
  • 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
  • めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
  • やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
  • 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
  • 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
  • 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
  • やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
  • 名月をとってくれろと泣く子かな
  • これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
  • うまさうな雪がふうはりふうはりと
  • ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
字数オーバーのためこの項、削除。
 
 >というわけで落胆して、正岡子規にやっと、たどり着いて例の「柿くえば~」の句に遭遇した。
あの句は知っていた。
もっとも、どこかの無名俳人が面白おかしく、詠んだ句が伝承されているのかと思っていた。
 
時代の英才であり、近代俳句を確立した人はもっとましな俳句はできなかったのか。
正岡子規俳諧師としては芭蕉一茶には遠く及ばないが、俳句理論の確立者であったとみる。
 
この句を読んだとき、西行芭蕉ー一茶ー子規の系譜を理屈でまとめようとする企画は放棄した。
 
俳句第二芸術論はとっくの昔から頭にこびりついていた。中身の一部は読んだような気がするが忘れていた。
 
桑原武夫の問題設定が大げさすぎなだけである。戦後の既成の権威が自らによって否定される時代の貴重な声であり、この志の高さは継承しなければならない。いいモノはいい、悪いものは悪い!
どうやら、松尾芭蕉だけが例外だったようだ。
芭蕉約1000句。蕪村3000句。一茶3万句。子規24000句。
一茶や子規と芭蕉や蕪村の俳諧観が違っていたと見る。
~削除。
 
が、日本人の日本語の特徴を利用した言葉遊戯の世界だから、芸術云々に関係なく、貴重であることは確かだ。
生真面目、几帳面、重箱の隅をつつくような日本人のともすれば陥りがちな、弩壷からの軽妙洒脱を含む言葉による脱出口があるとすれば、そのひとつは俳句形式である。しかも、大衆が参加できる。
 
 以下、<今も続く第二芸術論の衝撃>サンの貴重な記事を引用させていただく。
 
「日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧があるだろうことは、すでに書き、また話した」
「私は試みに次のようなものを拵えてみた。手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある。こういうものを材料にして、たとえばイギリスのリチャーズの行ったような実験を試みたならば、いろいろ面白い結果が得られるだろうが、私はただとりあえず同僚や学生など数人のインテリにこれを示して意見を求めたのみである。読者諸賢もどうか、ここでしばらく立ちどまり、次の十五句をよく読んだうえで」優劣の順位をつけ、どれが名家の誰の作品か推測を試みてもらいたいと、以下の15句を記した。
   1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
   2 初蝶の吾を廻りていずこにか
   3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
   4 粥腹のおぼつかなしや花の山
   5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
   6 鯛敷やうねりの上の淡路島
   7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
   8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
   9 終戦の夜のあけしらむ天の川
   10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
   11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
   12 囀や風少しある峠道
   13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
   14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
   15 柿干して今日の独り居雲もなし
 
 「これらの句のあるものは理解できず、従って私の心の中で一つのまとまった形を取らぬからである。・7・10・11・13などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。
私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。
これらが大家の作品だと知らなければ(草田男、井泉水、たかし、亜浪、虚子)、誰もこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではなかろうか」
 
 「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない。現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を解説したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象である。
風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、そして詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られているということは、よほど奇妙なことといわねばならない」

 「こういうことを言うと、お前は作句の経験がないからだという人がきっとある。
そして『俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである』という(水原秋桜子
ところで私は、こういう言葉が俳壇でもっとも誠実と思われる人の口からもれざるを得ぬというところに、むしろ俳句の近代芸術としての命脈を見るものである」
 
 「十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家のうちにすら、『小説のことは小説を書いて見なければわからなぬ』などといった者はいない。
ロダンは彫刻のことは自分で作ってから言えなどとはいわなかったのである。
映画を二三十本作ってから『カサブランカ』を批評せよなどといわれては、たまったものではない。
しかし、俳句に限っては、『何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはないと思う』(秋桜子、同上)というような言葉が書かれうるのは、俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事だということをよく示している。
 
「私と友人たちが、さきの15句を前にして発見したことは、1句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である。
『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない。
またこの2句は、私たちには『粥腹のおぼつかなしや花の山』などという草城の句より詩的に見える。
 
真の近代芸術にはこういうことはないであろう」「私はロダンやヴルデルの小品をパリで沢山見たが、いかに小さいものでも帝展の特選などとははっきり違うのである。
 
ところが俳句は一々俳人の名を添えておかぬと区別がつかない、という特色をもっている。
そこで俳壇においては、たとえば銀供出運動に実にあざやかな宣伝文句をたちどろこに供出し得た大家たちが、いまもやはり第一流の大家なのである。
芸術家が社会的に何をしても、それが作品そのものに何の痕跡ものこさぬ、俳句とはそういうジャンルなのである。
 
「俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である。
芸術は自分たちにも楽にできる。ただ条件がよかったために作句に身を入れたものが大家といわれているので、自分たちも芸術家になり得た筈だ、芸術はひまと器用さの問題だ。このように考えられるところに正しい芸術の尊重はあり得ず、また偉大な芸術は決して生まれない」