反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

村上春樹嫌いは春樹ワールド創造に負けている。春樹ワールドと司馬遼太郎史観は日本と世界の主要イデオロギー。批判するためには評論の志がいる。

 村上春樹に読者層に一般受けする活字世界があることは十分認める。
が、好き嫌いの次元の問題、嗜好の問題ではない。
 
 もっと云えば、そもそも、遡って文学という翻訳語に問題がある。
 
「A)中国・日本での「文学」の古代より書物による学芸全般を意味したが、B)今日のような言葉による審美的な創作を意味するようになったのはlittérature, literatureの訳語として「文学」が当てられた明治時代からである日本の近現代文学史を参照)。」グーグルより。
 
 前者A)は古代中国、朝鮮の学芸全般の書物を含むものである。後者B)はその中での限定された分野である。
従って、煎じ詰めれば、明治時代の文学という翻訳語をした時点で、日本の文学は東アジア的パノラマから切断された本来のA)理解から日本的B)への一国主義的反東アジア的文学解釈に落ちっている。
 
 これは同時に脱亜入欧政策によって欧米帝国主義の尖兵になる道を選択した当時の基本政策の反映であった。
文学なる用語に何の疑問も持たず、胡散臭さを感じない感性で、文学を論じることが連綿と継承されて、習性になってきた。
 
 論理が飛躍するが、日本的現象としての私小説、純文学への嫌というほどの批判も、結論的に云えば、欧米翻訳語としての文学理解に端を発している。
日本的私小説翻訳語としての国粋文学理解に端を発しているとすれば、批判する方も同根の、メダルの裏側として、欧米崇拝、脱東アジアに陥っている。
両者はともに東アジアへのパノラマではなく、人種的民族的歴史的国家的により断絶性の強い欧米に向けた不条理なパノラマの展開である。
 
 全地球一体化の現在将来であっても、いや、そうであるからこそ、このような文学理解を修正したい。
A)切捨て、のB)の発展形態である。
そう考えるから、とりあえず、芭蕉を取り上げた次第である。西行芭蕉ー一茶ー正岡子規の系譜とたどれば、B)に行き着いた歴史的必然性が理解できる。しかし村上さんを批判する場合、この系譜の掘り下げがいる。
 
 村上春樹さんの現状のあり方は以上のような視点によれば、典型的な日本的文学者である。逆説でなく。
又、春樹さんを嫌っている人たちも典型的な日本的文学観の持ち主である。自覚に乏しいだけだ。
 
 ネット上の村上春樹嫌いの90%の批判は「言葉による審美的な創作」という明治維新直後の翻訳語の文学という限定視点から論じている。
だから、好き嫌いの領域で論じるのもうなづける。日本的文学理解に素直に従っているだけである。
しかし、そのような方法に日本的限界が含まれている。
(あえて政治軍事的問題に拡張すると、日米中韓露支配層による支配と強収奪体制維持のための東アジア情勢の緊迫化の将来を踏まえると、特に必要となってこよう。)
 
 >ネット上の春樹批判は自分の批判と重なる部分が多かったが、ちっとも面白くなかった。
 
 なぜか?
評論とは何かという原理原則的問題を蔑ろにしているからだ。
 
 何はさておき、村上春樹サンは春樹ワールドを創造した。
ところが、ネット上の春樹批判者のやっていることは評論としての屹立に乏しい。
よって、春樹ワールド創造者の村上春樹サンのある種の体系性、独創性に負けている、部分、けち付けに終わっている。
 
 >コレと同じような感想を持ったことがある。
 
 司馬遼太郎「史観」批判と称する大学のセンセイの本を読み終えたときである。
 
 このセンセイは戦後の平和と民主主義の素朴な信奉者のようで、戦前体制は第二次帝国主義戦争敗北によって、否定されたという、歴史的結節点を現在に至っても、自らの思想的原点にしているお方である。
 
が、そのような脆弱、他力本願的な歴史認識では、とてもじゃないが司馬史観という、戦後日本庶民の底流に刷り込まれた、間違った常識の巧みな表現力は批判できない。
 
 >私は戦前と戦後の庶民と支配体制における歴史の継承性を、事実問題をキチンと押さえて重要視し、根本的に批判しようと試みる立場にある。
 
 当然、自己流だが、明治維新への独自視点も一応持っていて、その一端を記事で繰り返している。
 
 日本古代社会制度の後追い性の歴史展開としての日本の内乱内戦ー日本的封建社会ー内戦ー明治絶対政府樹立ー東アジア侵略と日本資本主義の原始的蓄積。
この延長線上に二つの世界帝国主義戦争、敗戦を位置づける。
この歴史過程の戦後敗北的裏返しが、戦後日本資本主義の奇形的発展コースであり、
その経済膨張は戦前の歴史スパンを含めて鳥瞰すれば、歴史の必然として修正されていくのである。
先進国の中で日本だけが例外であるはずがない。
 
 日本経済は世界において占有率を後退させていくのである。
 
 だからこそ、巨船の舵取りいかんが問われ、最悪事態を想定し、胴体着陸のあり方が仮想される。
大きく云えば、この歴史理解から、現状の財政の不均衡が問題にされているのである。
 
 先のセンセイのような戦後民主主義の過大視、固定視する歴史観では司馬遼太郎のいい加減な国民常識的歴史観払拭できない。どこに何に基盤を置いたものであるかも今から問われていくだろう。
 
 司馬史観は云わば、戦後日本国民の常識、底流となっている歴史認識の作家としての巧妙な表出である。
 
 この意味で言えば、村上春樹さんが創造しているかにみえる春樹ワールドは、とりもなおさず、敗戦日本の国民に対してアメリカによってもたらされた制度とイデオロギーの作家としての実に現在的で巧妙な表出である。
 
>同時に、これは戦前戦後の歴史の継承性に焦点を当てている立場からすると、基底の司馬史観に対する表層である。表層の厚さ範囲が問題にされるが、日本では表層雪崩現象は今後、常にあり得る。
 
さらに云えば、この日本を覆う民主制的表層は欧米に本家本元がある以上、世界的広がりを持っている。
ココに高度技術職人、村上春樹さんが日本400万部連発、世界で読まれる制度的イデオロギー的基礎がある。
 
 >また、グローバル金融制の現状からすると、春樹ワールドは出版大資本によって、捏造された側面が強い。
 
 初版が店頭に配置された時点で、出版資本力で買い占め、売り手市場を形成することは可能(評判に煽られて書店にいったが本店頭になかった、との報告もある)。
ネットの村上批判を丹念に調べていくと、店頭で買い占めていると思しき、多数買いの場面に遭遇した報告がある。事実だろう。
私も村上さんの場合と違うが、駅の新聞スタンドから、週刊誌の大量買占めを目撃したことがあり、とぼけて質問して、その意図をはっきりつかんだことがある。バブル競馬大手馬主早坂太一サンの持ち馬のダービー出走前の週刊誌スキャンダルへの対応である。対象はアサヒ芸能だったと想う。全部買っていた。
 
 マスコミ広告の影響力は強い。話題につられて、読まない、読めなくても買う人はたくさんいる。
 
 そもそもが、難解といわれる「IQ84」のような分厚い本を二冊も最後まで読み通せるお人どれほどいるのか大いに疑問。
テレビキャスターをしているTBSの金谷さんでさえ、ニューヨーク駐在の折、キューバグァンタナモ基地のイスラム兵士収容所を取材に訪れたとき、同書を持参して、やっと読み終えたと、ネットのスレッドに載せた記事にわざわざ記している。
あの方もそれっぽい良心的な記事を載せており、共感することもあった。
アメリカを戦争国家だとはっきりと書いていたっけ。
そう云う意味で村上春樹さんの読者は私に言わせると司馬遼太郎ファンより、自分とは共通項が多い。だからキチンと批判したい。
 
 が、ネット上の90%の批判者は春樹ワールドを批判する場合の原理原則である<評論としての自己屹立意識に乏しい>あるいはまったくない。
言い換えると、評論として、批判的観点を掘り下げていこうとする執念にかけている。
それができるできなくても、その道を志すことに自分は大きな価値を認めている。
 
 又、そうでないと本当に春樹ワールドを批判したことにならない。
 
 >村上春樹は<内外に通じる基盤を持った社会現象>であり、コレに対して好き嫌いの個人嗜好の視点で、論じても底が浅い。
 
 >同時に彼の小説は一読者として読めたモノじゃない自分は思うが、「遠い太鼓」というギリシャ紀行文をラジオで聴いた限り、それなりの価値はみとめる。
が、ギリシャVSトルコの戦争の歴史的背景を持った民族と宗教対立、キプロスに至っては、島の分割の歴史、これら全部にリアルな殺し合いの歴史がある。
それに対して、村上さんには反応する政治的感性の不足を感じる。
現地の島に数箇所に長期滞在しているにもかかわらず、
ギリシャはやけに兵士をみかける(町に出没する彼らへの日常のギリシャ的な生態へのすばらしく文学的な描写がある)のに、新聞種の両国間の小競り合いによる発砲事件の双方含めて3人の兵士の死者に対して、戦争は馬鹿らしいとか、死ぬのは若者、程度である。
 
 現在の世界的作家として、それで済ましていいのかどうか。
尤も、その手の言及と、アテネラソンの由来の説明のアンバランスといおうか春樹ワールド的には絶妙バランスはきになる。マラソンの始祖は軍事政権に抵抗したギリシャで有名なランナーであり、第一回に出場した際に、走行中、逮捕され監獄に入れられたと述べる。
この手の絶妙なバランスを持っているのが春樹ワールドの強みである。
 
 が、同じ敗戦国ドイツの作家ギュンターグラスなどに春樹ワールドはあるのかどうか。
確か、彼はノーベル賞作家だったと、想うが。
そしてまさか、イスラエルの賞を受賞して、現地に赴いて、壁にぶつかる卵の側にたつは絶対にないだろう。
春樹ワールドは全地球一体化時代の世界的作家として(世界を股にかけて文学的?御商売をされていると主パン資本的に自称する真の作家<つまりは世界的真ーハリーポッターじゃなかろうーの戯作者>として)としてどうなのかということだ。
 
 さらに、2011年東日本大震災福島原発事故を受けたバルセロナでの受賞スピーチ。
これもまた、彼の基本的観点と姿勢は一応、了解するが。
これらの本質的問題は受賞スピーチの先にあると考える。
彼が作家として本気、根っから、受賞スピーチのような表面的な日本および日本人論の次元でとどまっているとしたら、私の問題意識のありようとは齟齬がかなりある。
 
 そして彼の発言、紀行文、小説に限定的に接する限り、彼はあのスピーチの見解の奥にあるものを、問題意識として常に意識しているが、その領域から、逃亡しているように推認?!する。
 
 日本および日本人であることから、逃げたい衝動に駆られるのは解る。
突っ込んで思考していくと。弩壷にはまる。
 
 日本政治思想史の丸山真男小林秀雄の日本、日本人の抽象的原点の領域での開き直り感情論の領域に突入し、暗礁に乗り上げた。
吉本隆明にも確か、そういう問題領域を強烈に意識していたはずだ。
以前記事に取り上げた自由民権運動研究者、歴史家、色川大吉も自分史と日本の経済発展に自己正当化を図った、とみる。
ヨーロッパの都市の歴史と日本、東アジアを同列で比較すること自体が方法論として、ずれている。
 
 以上の次元の問題意識は村上春樹さんの視野の中にあるはずだ。
知らないわけがない。
でも表現しない。できないことをも知っている。
そこで、海外に雄飛する。体の方も雄飛した方が、弩壷にはまらなくてすむ。
 
 が村上春樹さんは大胆にもドフトエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を課題に挙げているらしい。
ドストエフスーに限らず、ロシアインテリゲンチャと作家は当時のロシアを問題にした。逮捕されたり、迫害されても踏みとどまって自分の課題とした。
ドストエフスキーなど、長ったらしく面倒でまともに読んだ事はないが、あれらの全小説は観念遊戯じゃない、抽象でもない、当時の政治のリアリズムの上に構築された生きた人間描写であったと理解する。
ならば、この日本において、読むより実行する方がワクワクするじゃないか。
 
 ナロードニキから、レーニンの道における物語世界にドストエフスキーはいる。