1)IWJー2013/11/11 「国会で廃案になると思っていた」 TVジャーナリストら秘密保護法反対会見ー
引用
秘密保護法はすでに今月7日、国会に上程された。
「(反対表明は)遅きに失したのではないか」――。
「(反対表明は)遅きに失したのではないか」――。
フリージャーナリストの田中龍作記者のこの質問に、毎日新聞特別編集委員の岸井成格氏は「国会で廃案になると思っていた」と語り、田原総一朗氏は「今月の朝ナマでまともに取り上げます」と話した。(IWJ・原佑介)
>壇上に上がった各TVジャーナリストの見解表明の後、田中竜作氏が質問した。
概略を次のようである。一回しか聴いていないので正確ではないが。
「今、各方面からバッシングを受けているある参議院議員の方は(山本太郎)9月から全国遊説して、秘密保護法の危険な内容を街頭で訴えてきた。 上程され可決されるような勢いである今、(反対表明は)遅きに失したのではないか。」
>現在、将来に渡る政治軍事経済過程に対する田中竜作氏のような基本姿勢は間違っている、と断言する。
遅きに失しようが、アリバイであろうとなかろうと、そうしてTVジャーナリスト個人として、記者会見をして見解を表明することが、いいことなのか悪いことなのか、という大きな判断がまず、最初に必要である。
壇上に上がった人たち其々の見解は情勢に即応したリアルな説得力があった。
おそらく一般的な立場のヒトたちも納得できる言説であろう。
他方、山本太郎氏に対する評価の高そうな田中竜作氏には果たして、彼等のような一般の人たちに対する説得力のある言説があるのだろうか?大いに疑問である。
そして、田中竜作氏の「遅きに失した」という断定だけでフォローが無いことから、何よりも、自分たちの側から、真っ先に彼等との間に溝を作っているようなものである。一線を引いたままに終わっている。
ということは、自分たちの言説に高い評価を与える小数の人たちだけで戦って?いくと宣言しているようなものだ。
彼等と一線を引いたまま、一体、誰と共同できるのか。独りよがりが過ぎるのでないか。
これらの主張を分類すると、政治的急進主義ということになる。
政治的急進主義者にとって、自らの立場を正当化するためには、あるがままの情勢を一面的に描きあげる必要がある。
情勢は危機的である、と訴え、それに対して戦う自分たちの正義を押し出して行く。
しかし、日本の急進主義者のこうしたワンパターンの危機煽りのズット常態化してきた思考を例えば、「帝国」戦争国家、アメリカやイギリスにそっくりそのまま、移してみると、彼等は発狂せざる得ないのではないか?
勿論、アメリカの情勢に合わせた変種が存在する。
フランスではどうだろうか?あそこも世界の常識的評価では民主政の国ということになっているが、対外戦争の事実のはコト欠かない。
ドイツではどうであろうか?少し複雑になるが、日本の政治機構とはかなり違っている。
上記の各国に移し変えると、彼等はどういう政治層に相当するのか、一度、想定してみる必要がある。
極めて日本的な固有種であることは間違いない。
エマニュエル、トッドはワンパターンの政治主義者に対して、壊れた時計でも、一回は正確なときを示すことがある、としている。
ワンパターンの物差しで計った将来の情勢もいつか合致することがある。
ただ一瞬、予想が当たったというだけであり、そのとき彼らが、反対する戦いの場で重要な役割を果たすかどうかはマッタク別問題である。
彼等のような危機意識の煽りに専念する思考行動パターンを支持する人たちは、その意思を持続することができず、アパシーの立場に移行して行く。
コレが繰り返されてきた運動的政治の現実である。
だから、危機意識の過剰な煽りは政治的罪なのである。
自分たちの見解を相対化する必要がある。
この政治現象を感情領域の問題とするのではなく、政治理論として考え、論理的に再考する必要がある。
2)IWJ。2013/11/09 【東京】どんぐりと民主主義 part5 住民投票と住民参加~徳島と小平から学ぶ~
共に今、とこれからに必要な戦い方である。
>徳島、吉野川だい十ぜき可動堰化反対運動を江戸時代に遡り、当地の特産品、藍栽培、藍玉生産する百姓の一揆と金融的農村工場制手工業者という典型的な前期資本家の発展、ブルジョアジーへの転化、藩経済の全体構造と民衆踊りの無礼講としての取り込みを関連付けた自己流の考察してみた。(内容は省略)
一揆ではムシロ旗を立てて、住民が群集となって団体圧力を加える、前段の条件、準備こそが重要な役割を果たす。
しかしそれは伝統、日常生活の延長線上にあるものだった。
思い切って、リダーたちを隠匿(決起書の円形署名でで誰がリーダーかわからなくしている)して集団で一線を越えただけだ。時代の条件に相応しい政治意思の伝達手段を選択しただけだ。近代と庶民の死生観も違っている。
結果、百姓たちが止むに止まれず自ら創造したのは異次元空間だった。
百姓側に天下のお百姓意識があれば、コレに臨む藩主ー武士勢力の対応には仁政意識がなければならなかった。
騒動を発生させる藩主に対する中央からのたがは目もあった。
江戸時代250年間、記録されているだけでも、4000弱の一揆は時代条件に即応した攻防であった。
そう考えると、山本太郎氏の手紙手渡しは、どういう意味を持つのか。
江戸時代にも劣る。
雑木林はなぜかヒトを和ませる。いや日本人といっていいかもしれない。
日本人の東アジア諸民族との違いは、縄文人のDNAが僅かばかり持っているということらしい。
縄文人はどんぐりなどの木の実を常食にしてきた。
中世最末期の戦乱の時代、泉州南河内、日根野荘園では飢えに備えてムラが蓄えていたどんぐりを、貧窮した母子が盗み食いをしたといって、押しかけた村びとたちは無慈悲にも処刑してしまう。(元関白、九条政基旅引き付け)
あの一帯は当時の日本では貧困地帯とは想われない。むしろ、山川海、気候に恵まれた豊穣の地である。
そこでも百姓たちは、年貢、労役の収奪、低生産性もあって、まだ貯蔵したどんぐりに頼った生活を営んでいた。
日本人が近代生活に遭遇し目覚めたのはたかだか150年程度前である。
その後、あっという間に近隣に戦争に出かけ、占拠収奪し、調子に乗って最後は原子爆弾を2発も落とされて、
しかも、たった3年も経たないうちに、今度は、それら一連の政治経済情勢をステップボードにするかのように、新たな無展望な状況に船出して行こうとしている。
そんな余剰金があれば、財政難の地方に回すべきである。
いったいあんなところを車でビュンビュン走って、何をするつもりか?
経済効果や合理性にも乏しい。
グーグル航空地図をドロップして日本中を探索してみると、過剰開発によって、荒廃しきっている日本国土を目の当たりにする。
大地を人工するやり方がひど過ぎるのである。
最期に、こういってはわるいが、小平市も空から見る限り、日本中何処にでも見られる野放図な人工の荒廃ぶりとしか想われない。
郊外に残存する畑と新興住宅地の風景は人間の弁えのなき欲望を感じて、殺伐とする。
あそこに住む人たちの小さな雑木林への想いは解るような気がする。
そういえば、黒澤明監督にはがんを病んだ小役人が街中に公園を作る物語があった。
お葬式物語でもあるのだが、街の人たちが生き生きと生きるうえで、自然の公共空間の不可欠性をあの時代に黒澤は予見していたのだろうか。
ま、その時々の欲望に突き動かせれて、野放図、むちゃくちゃをやっているのは先進国であり得ない。
合理性の掃き違いでもある。
3)温故知新 1935年の日本、日米戦争は論外であった。
ー数字から見る日本の石油需給構造ー計量分析ユニット 研究主幹 平井晴己
1、1935年の日本。
>タイトルは後出しジャンケンであるが、ここから取り出す教訓は多い。
現時点の政治経済軍事過程の推移を単純、単線的に想定し(断定ともいっていい)危機意識を煽る方向で自分たちの戦いを位置づけるのは、誤りである。
政治主義一辺倒で情勢を裁断すると、仲間の巾は狭くなる。
情勢分析はリアル具体的にやる必要がある。時間不足でできない。
なお、その時々で調子のいいことをいう、小沢一郎などは論外。
小沢一郎の点と点を線で結ぶと浮き彫りにされてくるのは、日本の反政府の戦いに対するかく乱者、破壊者である。
1990年代以降の国政地方選低投票率にはその直前の小沢主導の政治工作による無展望なその場限りの政治工作と国民規模の失望が絡んでいる。
最悪なことは一揆を結んでおきながら、途中で必ず脱走していることである
結局、今回の日本版NSC-秘密保全法にしても、小沢の存在はマイナスではあっても、プラスになることはない。国民の一般的な感情は小沢の言うことには眉に唾である。
記者会見でイロイロその場限りで適当なことを言うのは止めて欲しい、戦いの邪魔をしているようなものだ。
<追記>
戦いのベース(基礎、基地)として急進主義(コレは個々の選択、性向、あり方の問題であり、それ自身どうこう言っていない。好きにしたらいい。)は相応しくないと批判しているのであって、果敢に戦うのが悪いといっているのではない。戦う基盤(足腰の鍛え方でもある)が脆弱だったら、上手くいかないといっている。
あくまでも土壌、ベースのあり方として急進主義が多くの人々の想いを包摂するものであるかどうかを問うている。
答えはコレまでにでつくしている。
IWJはマスコミが報じない情報を幅広く淡々と流してくれるだけでいい。
それを材料にして判断するのは視聴者側。
余計な見解はマッタクいらない。
なお、山本太郎氏を弁護するような記事を載せたが、後から考え直して、抹消した。
俳優タレントのままでいたほうがよかった、という想いは結果的に的を射ていた。
俳優タレント山本太郎の自分の評価は高い。
政治家には向いていない。
泡沫候補扱いは正解だった。
この本音を捻じ曲げて訳のわからない自分で納得できない記事を作成したと想ったから抹消した。
反権力が骨身にしみているので時々、ミスが起こる。
IWJインタビューの弁明の冒頭だけで、つくづく情けなく想って、打ち切った。
彼の政治知識レベルは日本国民の中央値を僅かに下回っているレベルと考える。
相当な短絡思考は多くのヒトに拒絶反応を引き起こす。
67万票もらった時点で彼は自分の短期間の活動(コレは立派なものだ!ただ国会議員となれば、別の評価の物差しが生まれるのは仕方がない。)への支持と勘違いしたのではないか。
軽い選択の一種が過半だった、と推理できていなかった。
彼らしいスッテンコロリンをやって、
一端ペケ印をつけたものを再び自分の方に呼びも伍すことは並大抵ではない。
秘密保全法の戦いにもプラスでなかった。
エライヒト一家言のあるヒトの話を聞いて直感で結びつける段階を卒業して、独自の問題意識を持って、限定した分野の探求をライフワークにしたほうが結果的に実りが多い。あと6年もあり、彼がやれることは少ない。
抹消した記事でも推理したが、太郎氏の秘書にも問題がある。同レベルか少しマシではどうにもならない。
しかし、言うことは聴いてくれないのじゃないか。