情報過疎地帯では、今世界で日本で何が起こっているか、まるでわかっていない。
確か関西の風土が嫌になって、函館まで逃げていったが、そこでも夏は結構、暑すぎて、札幌まで逃亡したとか
唄の中身や発言とは違って、結構、ドライ指向、冷めたヒトだった、と想う。
よく見かける電波芸人の一種なわけで、テレビを消したらこの世界からいなくなる御人。
唄の才能はなかったな。同工異曲の臭い曲ばっかりで、まず、感情移入アリキで聴かせる唄は程度が低い。
アレラ一連の歌を耳にする機会があるとゾッとしたものだ。唄はかっこよく行かなくちゃ。
が、一人間としてやはり死は苦しいことだったろう。
基本的な真意は、止めときなさいよ。宇都宮さん。この時代状況において、猪瀬400万票の東京都民は好きなところへ行くがいい!
頭の切れる法律家としても優秀なヒトと見るが、本当はその時点で政治センスに疑問を直感的に抱いた。
そのときに記事の本意は別なところにあって、その手の批判は慎むべしと、抹消して、宇都宮さんに触れた部分は枝葉だったので、具体的に書く必要はなかった。
その後の見解の中身は全くフォーローしていないし、する気もなかったがIWJの付したタイトルだけ見ても、その政治技術には疑問を感じた。
宇都宮さんの長所は良心ある優秀な法的「行政官」であって、政治家ではないと見た。
政治家を志すなら、立場上、その機会は過去にあったはずで、そのとき決断すべきであった。
そこで揉まれたら、永田町の政治とはどういうものか、解ったはずだ。
あの方この方、親しい同窓にそういうヒトがたくさんいるはずだ。
なぜ?今なのか。
想像できなくもないが。
フライングスタートは拙い。
出馬するならするで、状況をじっくり読みきって、周囲から担ぎ上げられる形を取るべきだった。当時直感的にそうおもった。
政治とは何かという問題。
確かにプロテクト精神も絶対に必要な政治だが、責任を背負っているということも、立場上考えて欲しかった。
あからさまに言えば、その背中に期待する人たちは多数いるわけで、仮に惨めな敗北をすると、その中の一定の人たちは、また挫折感を味わう。
現日本国民の政治傾向を分類すると、そういう人たちは、心優しき人たちで、粗暴極まりない私に言わせると、貴種のような方たちであり、同時に日本人には珍しい世界に通用する人たちだ。
全世界には彼等彼女等と共通の磁場に立つ人々は一杯いる。
世界普遍の存在なのである。
彼等彼女等の社会や政治に対する優しい心を傷つけてはいけない。大切にしなければならない
ここのところをじっくりと考え、責任を持ってことに臨んでほしかった。
猪瀬400万票をどう見るか?
遡れば、石原慎太郎再選。
民主政には表現の自由が不可欠。
難しいことは抜きで、その際たるものは、投票所のブースに入った瞬間だ!
わたしが東京都民だったら、共産党候補の医者の政治家の名前を記した。
生まれてこの方、共産党を支持したことは一度もないから、その候補の名前を書くことを思いついたこともなかったが、まさに2011年3、11東日本大震災ー原発事故直後の統一地方戦が表現の自由を行使するときだ、と当時仮定した。決定的場面で表現の自由は試される。
勿論、その後のことも視野に入れてのことである。
が、恐れずやらせてみる良い機会だった。
それが、石原勝利。
そういう訳で、これらの人たちと、私の間には大きな政治的な溝がある、と改めて確認した。
元々、それを超えるハードルは高いと意識して、先も読めたのだが、思わず、権力闘争に引き付けられてしまうという自分の元々持っている政治観の性から、自分から妥協した。
一言で言えば、行動力が無い。ただ投票用紙に書いただけだ。政権交代がその程度で済まされるわけがなかろう。
原発事故のときもそうだ。最初に行動に出る。こういうときにこそ違い超えて、が必要だ。違いがればあるで、弁えた行動に仕方はある。
ほとぼりが冷めていくころに、のこのこ出て行く。そういうのはカンパニア闘争と昔は言った。
そもそも、民主政の歴史はそうじゃなかった。四の五の言う前にキーポイントはここにあり。
松山千春さんの1時間のラジオ番組を欠かさず聴いている。
猪瀬400万票の一人からの5000万円辞任を受けての感想文らしきメールが紹介されていた。
概略はこういうことである。こういう考え方とは縁遠いので上手く要約できないが。
「先の都知事選で猪瀬に期待して一票を投じた自分の想いは、5000万円受託によって裏切られた。
この情けなさとも怒りともつかない思いの持って行き場もないです。千春さん。コレでまた50億円も無駄にするという東京都知事選が行われるのでしょうか」。
完全に一定の思考パターンにはまっているな、想った。このパターンというものは、ある種の便利な定点観測なので何時でも何処でも使用できて、時局を簡単に素通りできる。その場限りの感想、情緒を大切にする。自己中気味だな。
生活限定専門家という日本特有のそれはそれで、立派な政治思想である。
わたしは猪瀬元都知事の主張に一回も接したことがなかったが、昨年暮れの辞任記者会見の動画を視聴し、
なるほど、チーム日本でオリンピック招致、などと選挙で語っていたのかと、猪瀬陣営の選挙戦の雰囲気は大体想像できた。
結果のリアルな票数の配分も未確認だが、宇都宮さんの獲得票数は具体的に知りたい。
また、宇都宮さんも直視すべきだった。端的に言えば選挙戦総括。
それからの、猪瀬辞任を受けての、選挙戦総括を踏まえての選挙情勢判断、という段取り。
一番最初に手を挙げる必要など何処にもなかった。
コレは選挙戦総括にも関連するのだが、猪瀬400万票をどう考えるか?
さらには、大げさではなく、日本の内外情勢はどのように推移するかという見通しの問題を踏まえた政治判断の問題である。
この時代情勢において(具体的な事実は挙げない)猪瀬400万票の政治的意味はとてつもなく大きい。
この事態を直視するというのが自分の立場の基礎。
それは続いているし、定在していると見る。
したがって、風向き、政治技術では解消されない。基本的に。
そうするとどういう政治選択がベターなのだろうか?
以前の秘密保護法に反対する記事で田中竜作のTVジャーナリストの反対記者会見の場での「遅きに失した」発言を強く批判した。
要点は<手を結むべき機会>には手を結ぶべきである。記者会見はそういう場であった。そういう時代情勢である。
植草一秀というおヒトがいる。
近頃全くご無沙汰しているが、超久しぶりの阿修羅サイトに記載された当該記事を今回の都知事選立候補者の顔ぶれにリアルに当てはめると、細川都知事候補に政治的立場の違いを超え、集約することが安部政権の政治方向に反対する道だ、というところにあるようだ。
確かに<手を結むべき機会>には手を結ぶべきである。
がしかし、細川集約がその機会なのか?
違う!
細川候補妥協はこの寒空に薄っぺらな服を羽織っただけにおわる。
もとより、この時代状況に対して時代錯誤で状況直視できず、地道など歩みに敵対するオリンピック選択政治路線のレールはしかれており、それに乗っかるだけで、粛々と事態は進む。
民主党政権交代に素朴に期待した人たちの受けた傷は未だに癒えていない。
この逆風状態に対して、みんなが都知事にしてみたい候補→細川ではなく、なんとなくムードを変えたい、アベ等に反対したい→細川。
政治妥協、打算を集合させた数合わせの細川候補は選挙戦で負ける!
細川ではかなり票差の開いた敗北もあり得る、とみる。
そうすると、時代の歯車は今までと同じスピードで回っていくか?
日本の行く末の大きな方向はもはや、政治の施作では変えられない、というのが自分の基本的立場。
それは放置しておけば良いというのではなく、よりベターな手を打たなければならないが、常に大きな限界が付きまとう。
細川でやりたいヒトはやればいいのである。
大きな情勢の動かしがたい推移を前提にすれば、事態に浮き足立ったり、余計な危機感を抱いたり、ましてや客観情勢を自分たちの政治主張に沿って、塗り替えて政治対応すべきでない。
世界の立場から日本を位置づけ考え、世界が平和的によくなるためには日本と日本国民は粛々と地道に合理的に生きる道を選んだほうがいい。
猪瀬400万票をどうこう、しようなんてのは砂漠に水を撒くような行為ではないのか。
多数派獲得とは現実的にそういう事実こういうになる。
時代錯誤も甚だしい、非合理、人間として洗練されない、格好の悪い、みっともない、行為といわねばない。
他にやり方は一杯ある。楽しみからも一杯ある。創意工夫の仕方も一杯ある。
彼等彼女の実存は否定できるものでない、それで良し、全てよしとする!
ヒトはは好きなところに行く権利がある。
好きにやるが良い。