反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

佐々木潤之助著「江戸時代論」。重要項目別整理と自己流注釈。

   引用部分は全部「 」にする。断りの無い場合は持論。
 
  摂政関白豊臣秀吉こと、元足軽百姓、藤吉郎による検地の関連(太閤検地
兵農分離のために基本的手段>として、検地が行われた」。
あくまでも、自らのような百姓が大量動員され、巨大な戦力となった惣村の武装常態を断ち切ることが目
内乱防止、治安維持を目的。
 
>同時に、九州制圧の時、既に進行していた明征伐構想のための列島、城内平和が目的であった。
兵農分離は内政と外征のリンクされた政策だった。
 
 当時の基本的な教養に縁遠く、軍隊内の出世と武功だけで成り上がってきたものに世界情勢への判断力や中国朝鮮の広大な領域の渡海しての高度文明国民の制圧などの戦争常識はなかった。
当然、自らの一族の後先も考え切れなかった。
ただし、戦国武将には流転転生の己一代の超攻撃的な戦闘精神がなければ、天下に覇を唱え生てき残ることはでき無い。その辺の異常な心理状態を獲得できなければ、底辺から大量殺戮で屍累々の階段を登ってこれなかった。
 
>また、狭い日本列島で応仁の乱以降、100年以上戦乱を続けてきた日本原住民には内からパワーが沸き起こってきていたとしか、想いようがない。
英仏との間にもノルマン人征服イギリス王のフランス本国領土拡張を巡る100年戦争が続いたが、このときもジャンヌダルクが出現し最後は魔女裁判で火あぶりの刑に処せられる現在では考えられない異常事態が発生している。
時代はズット下っているが、16C~17Cの世界の政治の本流から言えば封建制から絶対王朝の専制に中央集権政治に移行する大事な時期に100年も内乱に現を抜かしている日本原住民には例え戦争が終結しても、次の時代は異常事態は待っていた、と見るべきだろう。
それが江戸時代である。
鎖国平和で雪隠詰めにしたら、日本原住民にどのような科学的?変態をもたらすか想像できる。
佐々木潤之助の「江戸時代論」を読めば、よくもここまで人間精神を丁度上手い具合に鋳型に閉じ込める諸作を思いついたものと感心する。
大した宗教、政治思想もなく、よくもここまで人間精神をコントロールできたものと感心する。
セルフコントロールをさせるための制度が原住民を雁字搦めに縛っている
 
 
 明征伐の長征関して、藤吉郎の周囲を固める武将には意気に感じる同調者も多かっただろう。
 
>後に見るようにイロイロな解釈はあるが、前期倭寇の戦国時代版と見てよい。
 
明治維新の征韓にもこういう単純な思考パターンが再現されているところがある。
 
 100年に及ぶ内乱状態は列島に巨大な軍事力を蓄積していたところが前期倭寇との完全な違いであり、長期内戦、明征伐は東アジア全域に鎖国による、世界の先進潮流から切断された支配層安泰のみを求める土民経済原則に拘る停滞社会をもたらした。
 
 文明先進地であったはずの東アジアの歴史的鎖国状態は近代化以降、現在に至っても、戦後世界体制の残存という間接的な影響を及ぼしている。
 
 鎖国の間に東アジアは政治思想的文明的軍事経済的に西洋に大きく後れを取った。
先進世界が絶対王政から産業革命と資本制、市民革命を達成している時に日本では工場制手工業さえ、全般化していなかった。
 東アジア地位置では近代以降何回も大戦争を繰り返しても、その刻印にいまだ払拭できていないところが大きい。
日本も責任ある一員であるが、別次元の問題として、歴史のリンクの強さに気づかない。
 
 欧米の東アジア進出が鎖国時代に一端、留まったのは、絶対王政下の商品経済の内的急速発展と世界植民地の分割=住み分け、国家間の紛争の前期資本制の新たな時代に達していたからだ。
 グローバリズムの現状や将来の行く末、日本の風土、国民性を考え、歴史の紆余曲折を前提にすれば、、徳川の鎖国は妥当であったのか疑問に想う。
 
 <オモテナシ>を唱えて東京オリンピック招致の時代錯誤、現実逃避的現状を見ても、交流の絶対量が不足している、といわねばなるまい。
歴史は皮肉に富んでいて、そのとき良かれとしたことが、後に大きな災いをもたらすこともある。
 
 江戸時代の幕府政治でくり返されてきた改革を称して時務策的政治というらしい
「今起こっている事態にどの用に対応するかを基本課題と資する政治対策であり、ある長期的な政治上の見通しなり、方針なりによって行う政策的政治ではないとするものである。
それは政治が歴史の変動への権力的対応の結果の結果であって、当面の矛盾の糊塗策の限界をでるものではないということを意味している。」
乱暴に言えば、歴史的事態に遭遇しても権力さえ握って、小手先の政治技術の対応に集中しておれば、いいとするものであり、そういう手練手管に習熟によって、人民統治は可能だとたかを括っている。
だから、人民統治の手練手管だけは先行して巧妙になる。
 
 鎖国にまでいたる経過も佐々木によれば、当初の基本政策では宗教、経済交流の分離の秀吉路線を引き継ぐつもりが、事の成り行きで鎖国決定となった。
草の乱鎖国令の後だ。
 
>佐々木さんの理論書は細かい事実経過に拘らないから、鎖国までに事実経過をウィキで調べてみた。
1612年(慶長17年)幕領に禁教令 1616年元和2年)朝以外の船の入港を長崎平戸に限定する。 1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。 1624年寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。 1628年寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。 1631年寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中奉書が必要となった。 1633年寛永10年)第1次鎖国。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。 1634年寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始1635年寛永12年)第3次鎖国。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。 1636年寛永13年)第4次鎖国。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。 1637年1638年寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。 1639年寛永16年)第5次鎖国ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。 1640年寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。 1641年寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。 1643年寛永20年)ブレスケンス号事件オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。 1644年正保元年)中国にて明が滅亡し、満州李自成を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。 1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。 1673年延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。
 
 >穿った見方かもしれないが、面倒に巻き込まれず、複雑な外交手腕も必要でなく安易に権力維持をして人民を雪隠詰めにするには鎖国が一番と考えた節もある。
 
東アジア全域が同じ政策を選択した理由は、中国朝鮮と日本では事情が違っていると解る。
明の滅亡、異民族の清の圧迫、王朝交代した中国が当面の政権維持のため鎖国に走るのはあり得る。
成立間もない清朝は17世紀中盤、漢民族の台湾からの反乱に対処するため大陸沿岸20キロからの住民の内陸退避まで強制している。
李朝朝鮮は明より先に清の侵略を受けて、屈服しているから鎖国の理由ある。
要は両者では国家権力の移動、他民族侵略=屈服という事態という決定的内憂を抱えて、この事態をさらに複雑化する強国との接触を絶つ、というはっきりとした鎖国の政治目的、動機があるが、徳川幕藩においては、、自らの国内統治上の都合を優先している。
 当面の事態の推移への場当たり的対応である。
 
>ただし、日本にも鎖国の決定的な理由があるともいえる。
キリシタン大名を持ち出すまでもなく、当時の信者数は日本70万人、中国2万人と、日本だけ突出して急増していた。上(キリスタン大名)から下(高山右近高槻城下の住民80%信者)からの信者獲得作戦が功を奏していた。
身分、地域、職種の分断支配を人民統治の根幹にする日本的幕藩体制で隣人愛のキリスト教信者が増えると体制離反者が増加する、という観測だったらしい。
 徹底弾圧されて飼い慣らされた仏教と違って、カソリックの教会建設、住民説教集会相互交流、宗教団体の権威化、のような権力秩序からの無縁地ができることは、一揆反乱の火種になるから都合が悪い。
 なお、日本の東アジア地域おける信者数の突出した増加については、精神風土、民俗学的見地から考えるのではなく、あくまでも、<100年以上に渡る戦乱の世>という軍事政治生活のリアリズムの角度から考察すべきである。神を求める大名や住民の姿勢は全うなものである。
 
 とにかく幕藩国家は一貫して、こういう姑息なところには目くばりが行き届いている。
戦国100年といってもやはり、陰謀などインフォーマル活動が主体で、常にドンパチでは全体が疲弊していくだけ、その間にむしろ生産力発展があったたということは、それなりの冷戦構造があったからで、最終勝ち残り組みは、陰謀、姑息な人民統治に長けている。
 
 そこで、宗教改革によって、経済主義に徹するオランダが唯一の窓口になるが、幕府は世界j的特産品の銀輸出の儲けと政権維持に関心が集中し、先進海外の文物の取り込みは形だけのものとなった。
 従って日本が実行した250年間の鎖国人類史上稀に見る先進国の本物の鎖国であり、後進地の住民への鎖国のもたらす影響力と違って、閉鎖状態の住民の内発的な特殊進化をもたらした
それは日本歴史や現時点への影響、も含めて良い面と悪い面の両極端が渾然一体となっていたと見る
 
 なお、日本貿易を独占したオランダは、銀の最大の需要先清との間で仲介貿易を行っており、日本銀はアジアの主要地域に需要があったことから、アザトイ立ち回りで低賃金過酷労働の日本銀の独占販売よって、価格決定権を事実上有して、一番楽をして得をしたのかもしれない
当時の幕府はそういう事情を十分把握していなかった、とおもう。大局俯瞰がないから。
 
 引用。「江戸時代論」
この時代の世界史の推移を見るキーワード。絶対主義
「18C半ばいこう、明治維新に至る時代は、獏はんせい国家縛はんせい社会の解体過程である。
それは、獏はんせい国家が封建国家としての本質を堅持しながら、本来の封建制の枠をはみ出した政治対応に踏み込んでいく過程である。
その踏み込みにしても、基本的な性格は、時務策(W。場当たり的対応。暴力支配、身分制の根幹さえ抑えておれば人民統治はできるという政治感覚が根底にある)であった。
しかしその踏み込みの基本が、商品経済の転回に基礎付けられた商品経済と社会変動への対応であったから、
そのはみ出した政治対応は、結果として近代化を内包した絶対主義的な方向を持つことになった。
それは決して絶対主義の成立ではないが、その進み行く歴史のそう遠くない果てに、絶対主義の成立が見えてくる方向への踏み出しだから、
その踏み出しの始まった過程を絶対主義化の時代という。」
 
    <藩政改革>
「絶対主義化への道を先に進んだのは、藩政改革であった。
半は、兵農分離性で権力基盤の在地性を否定され、江戸在府・参勤交代制で外在する全国市場との財政的矛盾を本来の特徴としていた。
(W。全国市場は基本的に三大都市を指す。地方、農村の消費需要は弱い。鎖国経済(米金納年貢財政→おこぼれ消費)の基本構造。年貢米収奪を基本とする財政、経済体制ゆえに、余剰分はできる限り吸い上げ<質素倹約強制>、商品生産など勝手なことしてもらっては経済統制できない。>、都会で消費する経済システム)
W。この幕藩体制の経済原理を押さえて上でー。幕府に先行する藩政改革=絶対主義化の政策。
「既に17Cの半ばから、反体制の確率の重要な問題として領内の特産物を独占し、それを全国市場へ販売して財政基礎を補強することを試みる藩も少なくなかった。 各地の特産品列記~。
そのような特産物は<専売仕法>の産物となった~
全国市場とこのような関係にあった諸藩は、まず新しい経済発展の動向に直面し、それへの対応を迫られたのである。W。対応策を具体的に1~7で指摘している。
1、財政支出削減
2、倹約令
3、地方と都会市場をリンクする三都、在地大商人との結託強化による増収
4、年貢取り立て厳しく、増大
5、藩士子弟教育制度整備
6、新規産業創出ー専売増収
7作徳地主関係(労役地代=地主の人身確保収奪、から、生産物やカネ地代<前金奉公含む>に移行したもの)との共存による年貢安定
>既に3、4、6によって農村、農民の階層分解が必然することがわかる。
それを前提としての年貢収奪だから、武士支配層は在地大地主、都会地方の豪商を支配秩序として取り込んでいっていることが解る。
ここから明治維新の支配層の構成が推測できる。国会開設の民権運動の限界を指摘できるが、日本の場合、彼等は<ブゥ、ナロード>を目指さなかったし、それに類する政治思想も持ち合わせていなかった。
 
    <藩政改革の担当者> 
省略。要するに薩長土肥型の大名家存続を前提としつつの人材積極登用。
 
    <幕末の改革>
「藩政改革は幕政改革とは別個に、それぞれの必要に応じて行われた。そのけっか、藩政改革によって、諸藩は自立性を強めていく。
そしてそれは幕藩制国家の脆弱化の過程でもあった。
W。従来の百姓一揆から、暴力闘争への転回した世直し一揆の支配被支配関係から見た根拠。当事者能力喪失過程にあるもに対して、仁政ー天下のお百姓意識関係は通用しない。同時に村方、町方の階層分解の進行によって、持たざるものが大量発生している。
ここに、大名たちの地域権力としての確立が国家成立の前提ではなかったという、幕藩制国家の特徴が示されている。W。アジア的国家封建制!地方から中央への集中制は明治絶対中央集権政治に容易に転化する。
維新軍の構成は旧藩西軍団と改革雄藩軍団。
 
 <列強との薩英戦争、下関戦争の徹底敗北によって、自立的絶対主義権力化の道は叩き潰されたW。?>
「そのように展開する政治改革は、幕府・藩権力のそれぞれの絶対主義権力化を進めたW。??絶対主義国家とは中央地方が別個に形成できるものではない。
その絶対主義権力化の動向は、民族問題の衝撃によって転換するW。?ヨーロッパでも絶対主義政治の形成と民族問題はかたくリンクされており、政治理念上の問題ではなくリアルな政治過程において各々の絶対主義中央集権旺盛は誕生した。従って、自立絶対主義への道が民族問題の衝撃によって転換を余儀なくされたわけでなく、コレが世界史の推移から離反したことによって、遅れた日本の「正常な歴史コース」でもあった。
 そのことが、藩ではなく民族的な政治変遷に諸政治勢力を集中させることになり、幕府の絶対主義化を巡る政争を激化させることになった。W。外国打ち払い攘夷への雄藩の突出から、古代君主の担ぎ上げ、連結=尊王攘夷運動へ→世界史の大きな流れから遅れた、古代君主に政治幻想を煽る、絶対主義中央集権政治、が同時にブルジョア改革を断行、していく。そういう封建勢力と半ブルジョアジー勢力の軍事政権による改革は、旧支配層と市民革命の争闘関係の中で進行した近代国民国家の形成という歴史コースとは違っている。
 
 早々と明征伐、朝鮮侵略の<摂政関白><豊><臣>秀吉の亡霊がうごめき出したのである。
原点回帰であった。
 
 秀吉直筆の手紙は稚拙極まりない筆跡ではあるが、、文の内容からは目線の行き届いた知恵が伺える。
が、生活上の読み書きの理解に留まるレベルと想われ、それでは、海外事情は完全耳学問
自己学習による判断基準がないに等しいから、結局、基準はそれまでの勝利体験、知恵による憶測の域をでなかった。
 
 兵農分離の政策実務は取り巻きの世間に通じ学問のある文官が完全に取り仕切っていたと想う。
これら文官は軍事能力では遥かに及ばないし、武将派も秀吉と同等でないから、反抗できず、刀狩、兵農分離を実行に移した時点で、早々と豊臣家の滅亡、徳川幕藩体制樹立は時期の問題になっていた。
 
 しかし、どう考えても徳川を九州止まりにしたのは、腑に落ちない。
侵略戦争におけるモンゴルや満州族の陣営は蒙古襲来の高麗兵、南宋兵のように征服勢力を消耗させる目的で巧妙に敵陣の攻略に送り込むとことを兵法の常識とされている。
自分が転兵をして政権を取ったことが念頭にあったのか。
秀吉政権は徳川幕藩体制に通じる道を、掃き清めただけに、だけに終わった。 
 
 兵農分離と明征伐、朝鮮侵略の一体的連動に関連して次の項目を押さえておく。
 
 今度のNHK大河ドラマ、軍師黒田某でもおそらく当時の日本を取り巻く海外事情は避けて通れないだろう。
現在の東アジア情勢の時代基調と視聴者が重なり合わせてしまう内容は避けられない、と考える。
 
 どう扱うか原作を読めば直ぐ解ることだが、NHK側の演出もあり、この辺の話題のもって行き方において、歴史観としてリベラル派と想われる佐々木潤之助が、次のようにしていることは参考になる。
 
 結論から先に言えば、佐々木潤之助の秀吉の明征伐ー朝鮮李王朝の領土における戦争(コレ事態が日清日露戦争によって再現されているが、どうしてそうなるのか考えるのが歴史家の課題)=東アジアの歴史上の朝貢体制からの国家自立は完全な間違いだと想う。
朝鮮は中国の影響、被害を直接こうむっているが、日本の具体的事実を大事にするのが歴史家の務め。朝貢ジームは悪い抽象論だろう。
 
自分が知っている限りの江戸時代まで、日本と中国との国家的上下関係によって、搾取収奪された、事実は確認していない。
 
 そして、朝年貢体制は変質し清朝樹立によって崩壊しているのだから、もはや佐々木の言う国家自立とはイデオロギー面、封建上下関係の形式に限定される。それが我慢ならないと当時の武将はするかもしれないが、はたして断定できるどうか?
国家自立という概念を敢えて持ち出すことが、現在の歴史家として、正しいものか?
国家的自立という政治概念は秀吉に当時あったのかどうか怪しいものだ。
海外情勢から天下国家の次元をどの程度俯瞰していたのか、証拠は彼の残した行動の軌跡だけでそこから判断するしかない。
 
 佐々木も著書の中で紹介している農民の実録にあるように、秀吉の15万14万の二回の大軍の渡海遠征は民からの軍事費と労役の収奪の上に成り立ったものである。
相手側からの実害に対する反撃でも、実益も伴わなず、損失が余りも多過ぎるのだから、(勿論双方)2回も大軍を派遣する動機に乏しく、それを国家自立とするのは情緒論である。
それは戦国時代版倭寇のような戦争行為である。
そもそも、100年以上戦争を続けてきた軍隊が強靭なのは当たり前で、合計29万人の大軍が渡海して半島を北上する途上で物資の補給ルートは現地略奪に依存していたのではないか。
十字軍蛮行や南米大陸の侵略を指摘するのならば、秀吉大軍派兵の問題点も指摘されるべきだ
時代状況を加味しても歴史的事実として中身は精査されなければならない。
 
 
 明中心の本来的朝貢体制(15世紀初頭の鄭和船団の征西)から小朝貢体制へ
「(本来的体制では)朝貢に直接関係しない限り、また宗属国が対外的危機に直面して訴えない限り、宗主国である明が宗属国に干渉しなかったこと。
従って宗属国の内容は多様に個性的に発展できたのであった。」
朝貢体制に関係しない限り、の具体的搾取収奪関係の中身はどうなのか。
漢民族系の王朝が日本に食指を伸ばしたことはなかった。モンゴルなどは渡海作戦ができず、日本の地形、軍事政権の動員する武力から制圧は不可能だった。コレも歴史にのこる野蛮行為である。
 
 コレは今の情勢にも適応できる。現中国政権に日本侵略する動機もメリットも一切ない。
ただし、それはアウトラインの縛りであり、今の政権は実力行使の必要が生じる時はなからず、やる。
尖閣中国船長拿捕のときは、早々と、釈放しろ、はっきりと記事にした。
一線を越えたら、必要な手段は躊躇なく選択するのは現代中国史と戦争思想をある程度知っているものとしては手に取るようにわかった。
 
 結果、自分のいう通りにことが推移したが、日米中韓露北には各々限界を抱えているが、それをまず弁えて、事態を判断するとそういう結論に達する。
中国と事を起せば、最期の付けが回ってくるのは、今の米国を含む東アジア関係からすると残念ながら、日本になってしまう
 
 中国の軍隊には特殊性が今でも刻印されている。軍隊がなければ現政権はなかった。
 
 敗戦にも関わらず、軍隊がなくても、日本国は成立した
敗戦した日本軍は武装解除され、勝利者の軍事占領下にあって、日米両支配層の都合によって自衛隊は結成された。
成立経過から、日本の軍隊は法制上の解釈はともかく、米国との集団軍事作戦用に形成された、と解る。
 
 従って、問題は敵が誰か、何処にあるか、それを決めるのは誰か、誰が軍隊の主導権を握るかという問題を常に内包し、本当の緊急事態には具体的な指揮権の問題に収斂し、当然にも、この構造は憲法第九条があろうがなかろうが、主権国家、在民主権としての日本の国家基本法との間に大きな齟齬をきたす。
自民党憲法改正草案では基本的人権項目は削除されている。
 
 こういう憲法第九条以前の問題として、日本の軍隊と国家国民主権を明記された国家基本法の成立過程の延長線上の現状の大きなズレは、具体的な国民の様々なパワーで、是正されていく他ない。
どの民主政国も有している普遍的原理としての主権在民、国家主権の国家基本法と日本の軍隊の米国指揮の日米共同作戦用の日本の軍隊のあり方のズレが民主政的に解消される戦いの基盤を解体するためには基本的人権削除常態が望ましい。
 
ここが最大のキーポイントであり、いかに中国の軍隊とも米国の軍隊とも事情が違っているかわかる。
 
>現時点のアベ等の基本動向は彼等流の是正方向であり、当然にも、上記の形成過程や現状からして、米支配層の動向に大きく規定されざる得ない。
 
 ただし日本は主権国家であり、主権在民国家である。同時に外国駐留軍や軍事協定を結んでいる国が世界の普通である。ましてや世界戦争の敗戦当事者、屈指の経済力のある国という特殊常態にある。
>軍隊の構造的的矛盾を巡る国民パワー同士のせめぎ合いは消し去ることはできず、アベ等の一方向には大きな無理を超えなけならないのは、日本型の特殊軍隊の国はこの地域では韓国と日本だけ、という事実を見てもよく解る。世界注視の中で集団作戦の戦争は遂行できない。
 
 では何のためにという疑問?
市場原理主義服従の檻を日本で強化し、収奪構造を維持する、このためには彼等のいう集団自衛権行使の危機的情勢が常に外にあって、その外圧によって、多数国民が自らの足元の普遍不満を爆発させないように仕組むことである。
 
 状況そのものの中に限界が潜んでいるのだ。
それを知ることが状況認識である、といって過言でない。
 
ただし、軍事上は戦争情勢である限り、血路を開くという課題は内包しており、戦局の拡大の可能性は常にある。
核発射も排除できない。全ての兵器は戦場での使用を前提として保管されている。
戦争をやりたい人間は昔も今も変わらず存在する。
それに対する同調者の側に問題があった
 
 
  朝貢体制=アジア近世世界
「15世紀の半ばいこう宗属国のうち、いくつかの国々が、自ら小宗主国となって周辺の小国家を再編し、新たな小朝貢関係を結ぼうとし、それらの国は本来的関係から離脱していった。~
ポルトガルも、そのアジア進出は朝貢体制への参加という手段をとった。」
以上の佐々木準之助、自身の当時のアジア外交関係の説明からしても、秀吉の明征伐ー朝鮮侵略は封建的概念における国家の形式的上下関係に帰着し、直接的な利害損得は発生しないと述べているようなものであり、彼のように現在において無前提に秀吉のそれを、国家自立とする場合は、軍事政治経済のトータルな利害関係を含む現在の上下関係と読むものを勘違いさせる恐れが十分にある。
 そうすると、必然的に次の政策がワンセットとなる。
 
<石高評価制度>、<村切り><一土地、一作人><年貢村請負><武士化途上の土豪(名田地主)在村切り捨て農民化=地主ー小作関係><小農分岐>など兵農分離と一体化した事項は省略するが、立ち入って検討すると、江戸時代は雁字搦めの閉塞社会だったことがリアルにわかる。
その根幹には暴力支配があったから、コレが打倒されない限り、継続する性質の社会構造を持っていた
内から徐々に変わっていったのは絶対政治の方向であり、幕府中央が存在する限り、近代化の邪魔になったと想う。
世界に遅れて、絶対政治の幕藩体制がを歩んでいたことから、(長州薩摩の藩政改革先行)絶対政治のイデオロギーとしては古代君主復刻しかなかったが、その無内容、無力制ゆえに政治暴力の苛烈な行使と懐柔によって、権力者は絶対的な政治によって、好都合と判断したことは、何をやっても、何を取り入れてもいい、というフリーハンドを得た。