反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回「美しい国へ」安部普三著の検討。

・まえがき☆
・はじめに
・第1章 わたしの原点
・第2章 自立する国家
・第3章 ナショナリズムとはなにか
・第4章 日米同盟の構図
・第5章 日本とアジアそして中国
・第6章 少子国家の未来
・第7章 教育の再生
・増補 最終章 新しい国へ☆
※☆印が新たに加筆された部分だが、安部氏に好意的な普通の読者評でも目新しい部分が無い、とのことだ。
 
>そもそもが、多くの他人の手を煩わせてできた本を自分の著作であるかのように、装うことが大間違い。
まえがき、もあとがきも設けているのだから、一言ぐらいは断り書きがあってしかるべきである。
 
 政治家も広い意味で知に携わる仕事をしているのだから、知的作業の根幹部分である、個々人の創造性を大切にする心がなければならない。借りたらかりたで、それとなく、最低限、書いておく程度の配慮は必要だ。
 
 しゃべることは簡単にできるが、文章を書くことは、少なくとも自分には大変な作業であり、この原点の確認から、他人の生み出したもの、を自分の見解に拝借する場合は必ず、出典先を明示している。
 
 ただし、リアルな会話、演説の内容をそのまま文章に書き起こしても、何ら不自然でない才能のある人がいる。
そういう人は結構多い。
 
 この前の東京都知事選挙のとき、一度だけ小泉元首相の街頭演説を動画でじっくり聞く機会があったが、途中で不思議なことに気づいた。
メリハリの効いた演説の<てにをは>を含めた内容は文章に書き起こしても修正ナシにストレートに通じるじゃないかと。
 
 そこで、演説の中身は、大したものではなかったが、この点だけに注目して、ここで区切ると、文法としては次にこうなるだろうと想定すると、見事にその通りの言葉が続いた。
 さすがだと感心した。異能の人である。
 
>安部現首相の「美しい国へ」の文体を検討した結果、著書の掴みに当たる導入部分は練れたというか、常日頃、文章作りを仕事としているものの作であると解る。
         
   
              ・第1章 わたしの原点
 販売部数の多い週刊誌にあるような流れるような文体であり、この導入部分で読者の興味を次に見事なまでに繋げている。
本としては非常によくできている。文春のトップレベルのは編集者の手のなるものと想定する。
この部分の文体と<おわりに>の文体を比較してみると、極端に言えば、40歳と小学5,6年生ぐらいの違いがある。
 <おわりに>だけは安部さんの直の声である。肉声からは暖かいモノが伝わってくる。
 
  <注目すべき内容>の要約。
ー時間不足でかなり不自然なことを承知でドンドン前に進める。
できるだけキチンと再現するつもりである。中身は兎も角も、それだけの意義はある。疑問点はW。?注する。
 
 現在の自民党の政治家は政局派と政策派という分け方ができるが、政策中心の人が多くなっている。
安部氏はそれらとは別に<戦う政治家>と<戦わない政治家>という区別をする。
 
 戦う政治家→ヒットラーとの緩和政策を進めるチャンバレンに対して、与党の保守党の席からスピーク、フォーイングランド(英国のために語れ)という声が飛んだ。
 
 上記の上書きとしてー。
古今東西の政治家で、最も決断力に富んでいたのはチャーチル→軍備増強こそがナチスを押さえられると早くから訴えていた。(W注1)。どこかの隣の国と勘違いされては困るなぁ~。事実、歴史を短絡した発言が海外の公式の場であったらしい。
直ぐファシズム云々をもちだす人たちの対極だが、同じような歴史短絡の感覚が一国の首相にあれば、当然、余計な勝るが発生する。
 
 伝統と文化の大英帝国を維持するには国民生活の安定と社会保障が不可欠と見抜いていた。
 
 
          ・第2章 自立する国家(W注2)
   <注目すべき内容>
 お金の援助だけでは世界から評価されない。130億ドル巨額援助。
自衛隊が初めて海外派兵されたのは1991年の湾岸戦争の後の停戦が発行した4月。機雷除去。
>ところがドイツは停戦成立後、掃海部隊を派遣した←W。ドイツ政府との違いは詳しい説明はなく、派遣の後先の違いとしか、読み取れなかった。
また、掃海部隊の派遣と機雷除去の違いもはっきり示されていない。
コレも部隊編成の大小の問題としか映らない。
 
 なお、戦後、西ドイツの軍備と日本戦後の歴史を比較検討する部分でも、あいまいな説明が目に付き、なんとなくムード的な理解がされるようになってしまっている。
 今日的意義のある物凄く大事な両国のリアルな戦後史の比較部分である。
そこがアイマイで例によって西ドイツは憲法を22回も変えている、などというところを落としどころにしている。
 手前勝手ないいとこ取りは常道手段である。
 
 筆者たちの顔ぶれの検討から、戦後のリアルな西ドイツ史を視野に入れているものはいない。
>さらに湾岸戦争のくだりは小沢一郎の「日本改造計画」のモチベーションと瓜二つである。
このとき、安部は父、安部晋太郎の秘書を務めており、議員になったのは1993年であった。
若い安部氏は当時の自民党に漂う空気を共有していたのかもしれない。
 
 今日のアベ路線の基本方向を振り返ってみると、小沢一郎の「日本改造計画」の<普通の国>を原点として、小沢一郎小泉純一郎→安部普三という国家機構の改革の系譜が浮かび上がってくる。
そういうもので我々多数の国民の生活労働環境が改善されるとは想わない。
国滅びて山河あり、ではなく、今日のグローバル資本制の下では、先進国では国とそこに密集する支配層はキッチリと増殖、存続しても、多数の国民生活が衰退する条件が整い過ぎている。
 
>三人の顔ぶれを眺めて、彼等の直近の動向を勘案すると、感慨深いものがある。
>いかにプラザ合意前後以降、世間を騒がせたトップ政治家に長期的な見通しがないか、解ろうというものである。
ただ安部さんは大丈夫。逆噴射の心配はあるが、コチン、コチンに凝り固まって融通が利かないから、政治路線の修正(反省)はない。
となれば、不変の中身が真に問われる。
 
彼等は都度、何か大事のように政治アドバルーンを揚げるが、出鱈目が多過ぎた。
結果においても証明されているではないか。
安部氏は途上であるが、お二方より、抜けたものがあるとは想われない。
 
>この項の最期にW注1に言及すると、今日将来の日本に<自立した国家>を求めるのは、間違っている。
 
クルッテイルとも敢えて言う。
先般のEU加盟が民衆蜂起のモチベーションになったウクライナ情勢を見ても、語の真の意味での自立した国家などを掲げる大間違いが解る。
 
 
>自立でなく自律である。
日本語の意味としても大きく違っていると想う。<自立>などという幼児期に相応しい言葉が堂々と政治用語として流通する現状を不思議に想わない政治感覚を疑う。こんな政治用語を用いると、いくところにいけば、キチンとした説明を求められるのではないか。
日本は属国というのも怪しげ定義である。日本は従属していても、覇権を求める国家の側面がある。
属国論であれば、風雪を耐えて、その手の主張のしてきた日本共産党の方が何枚も上手であり、手っ取り早く、強固な支持者になったほうが政治的合理主義というものである。
ヨーロッパなどはそういう割りきりがハッキリしているから、割れるのも簡単だがまとまるのも早い。
日本はまとまるものもまとまらない。
イタリアなどは共産党はさっさと解散して主流派は民主党を名乗って政権を担っている。
日本では共産党は解散できない。福島原発事故ではないがメルトダウンを起してしまう。反政府勢力側の国民の政治意識の問題も大いにある。
特殊政治用語で言えば民衆の自然発生性の乏しいところでは、解党の選択は政治勢力の衰退に直結する。
油の乏しいところでは火種は大切にしなければならないという原理である。
従って待機主義にどうしてもなる。仕方がない。
割り切って考えると、外側からの変革待ち、だ。日本の近代史を振り返ってもこのパターンの連続であった。
 
身の丈に合わず、辻褄の会わない政治主張は必ず、どこかで大きな破綻をすることになっている。
それが政治の厳しさではないだろうか。
 
自律ではなく自立とする、大きな勘違いがムード的に蔓延することの弊害が出てきている時勢である。
  
 「フランス最新事情」引用。
「普遍的同一性とは何か?(W。同一性がなければ民主政の条件としては厳しい)
>それは人間が自由であるということである。
勿論自由とはいっても、無制約ということではない。
むしろ自律という意味である。自律とは文字通り、自らが決めた範囲によって自らを律することである。
自然の秩序、歴史などによって、人間のあるべき姿を一方的に定められているわけではない。
>人間は反抗する。
人間のあるべき姿を決定する権限は、最小的に人間の手に委ねられている。
この意味で、人間は絶えず個人のレベルでも共同生活のレベルでも、将来いかなる方向に進むのか、それを決める自由と責任がある。
基本的人権の基礎には自律的主体という人間観がある。
 
>このような自律の観点から捉えると、自律的主体としての個人のあり方だけでなく、国家の正当なあり方も浮かび上がってくる。
>まずいかなる公権力も個人の自律性を侵してならない。
>人生の意味や目的は政治権力が決めるのではなく、個々人が自律的に決める。
それゆえ、政治や方などの公的領域では、私生活の場とは違い、<非宗教性ライシテ>の原則を貫く必要がある。
より一般的に言えば私的なものと公的なものとの分離が必要となる。」
 
 
 日本自らの限界を弁えることこそが、政治家の重要な役目であるという時代やってきている。
安部氏の「美しい国へ」は政治宣伝と政治煽動の書でもある。
本の論述の中身、段取りによって、勘違いするものが世間に多数、出現する構造を孕んでいる。
丸山真男流に言えば、取り扱い注意の部分を無神経、乱暴に処理している。
それで戦後の鬱屈から解き放たれて気が晴れるというわけである。
が、その時代は丁度、日本経済が相対的に下降線を辿っていく時代とピッタリと重なっているは偶然ではない。
日本人には激動に時代に臨んで、一つに凝り固まって、全部が一方向に直進する歴史的習性がある。
上手くいく場合のあるが、それによって破綻する場合もあった。
 いい加減な支配層の歴史も事実としてあり、決して安心して任せられない。
この間、江戸時代を調べたが、支配に安住して、やれることもやらない、いい加減な支配層には心底、腹がたった。人口停滞はその結果、民衆側の棄民に付回されたのだ。田畑からの年貢に拘って、安易に鎖国と武力によって、民衆を土地に縛り付けたからそうなったのだ。
 
  「美しい国へ」の愛読者の弁
「これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」
こんな見解に燃え滾りるひともいれば、何をいいたいのか解らない、という人も多い。
自分は後者である。論理的に意味不明。
ハッキリしていることが一つだけある。
外国の多数の人にも説明しても何が何だかわからないような歴史観には無理があるということだ。
それから事実の積み重ねであり、実証性のある歴史と歴史物語を混同してはいけない。
 
 
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自由を担保するのは国家→他国の支配によって停止されれば、<天賦の権利>は制限される。
W注?自由を語る場合、それだけで済ませて良いのか?
 
    A級戦犯を巡る誤解。
 A級戦犯であるカヤオキノリ、シゲミツマモル(漢字を見つけるのが面倒なので失礼。前者は高度成長経済時代に大臣を務めている。後者は有名な人だがリアルに知らない)
国内法で彼等を犯罪者と扱われないと、国民の総意で決めたのだ。←52年各国の了解の下、戦犯の国会赦免決議できめた。
サ条約11条の該当箇所の引用はカット。
 
 次の各事項をいいたいがための詳しい引用。
自分にとっては、どうしてこういう言い訳をする必要があるのか想像はできるが、こういう次元に政治的鬩ぎあいを見出すことに正直に言えば、全く関心は無い。どうでもいい。
 騒ぐマスコミとアメリカに対して弁明しているとしか想われない。
第二次世界大戦の日本の政治的軍事的結果責任は、その可能不可能に関係なく、日本国民自身が問うべきだった、という理念を最優先する。
 
 従って、安部氏の主張とは視点が大きく違っている。この問題に関して認識を共有する立場に無い。
 
 間違った戦争指導をしたものが国民に手によって裁かれるのは、古代ギリシアアテナイ民主政の時代からの原則であった。
1940年代のイタリアでは実際にそうなったし、また、ファシズム台頭の政治基盤となった王政復活禁止条項がある。
 西ドイツ憲法にも、ナチス復活させず、東側に対抗する積極的条項が明示されている。
 
 日本の憲法の第9条は1条~8条までの天皇制の権限規定条項とのバランスを取って設けられた側面も強く、安部氏等の言う日本を二度と列強に歯向かわせないためのモノという認識だけが正当なモノでないことは明々白々である。
 
 どんな日本の事情を知らない政治的愚物でも、天皇制と日本軍隊日本社会の直結した結合が、民主的合理主義と真反対の無謀な戦争を引き起こしたことが理解できるというものであり、そのことを認識すれば、天皇制の権限の明記に対する、強力な対抗措置を選択するのは当たり前である。
それが9条である。
欧米諸国と違って民主政と「戦争事態」を両立できない日本と日本国民は普通の国にならない、残念ながら、なれない。
 
 なお、2012年度の自民党憲法改定草案については、2005年度の憲法改定草案と対比して論じるつもりである。
安部氏は2012年度自民党憲法改訂草案さえ、いらだっている部分があるのではないか。
美しい国へ」の戦後的なものへの執拗な批判的記述はそれを隠せない。
 
 
古代ギリシアアテナイでは今では考えられない戦争指導者にとっての民主政の過酷な試練に貫かれていた。
戦場において死亡した同胞の亡骸を回収しないで帰還した、かつての戦場の英雄に、民衆は死刑を勧告した。
政治軍事指導者も体を張って、民衆に提案し、指導し、民衆も共に戦う戦士として明日に体を張って戦う身であったから真剣であった。
 
   
   この項目の安部氏の主張の特徴。
【既に命で償った人たちに対して手を合わせることなど禁じていない】
【つまり諸判決を受け入れたのであって、東京裁判そのものを受け入れたわけではない】
【判決と定められた刑について受諾して、今後、国際的に異議を申し立てない】
【服役中の国民を自国の判断で釈放できるという国際法上の慣例を放棄する事によって国際社会に復帰したのだ】
   何処に向かって言い訳をしているのか。
 そこに行きたければいけばいいではないか。何の気兼ねがあろうか。関心が全く無い。理由は既に説明の通りだ。
 
 第2章、自立する国家の結語は靖国への言及で終えているのは象徴的である。
 
 次の第三章のナショナリズムの最終記述は特攻隊である。
 
 天皇タペストリー論もあってなかなか話題豊富である。
「日本の歴史は天皇を縦糸として綴られた巨大なタペストリーだ。」
>一見、なかなかしゃれた表現に思えるが、縦糸が天皇であるというトンでもない記述である。
 
 戦後憲法制過程に関する記述では、本心は明治憲法に憧憬を抱いているのかしら、とまで疑わしめる文節がある。
確かに政府側の憲法草案には明治憲法の若干の修正で良い、運用が間違っていただけとする天皇機関説で有名な美濃部達吉に代表される大将デモクラットのノー天気で問題意識の欠如は事実としあった。
 直近でいうなれば東京都知事選に急遽出馬表明した細川候補のボケた記者会見のようなもので、戦時中彼等は脇に取り除かれていたわけであって、細川候補の選挙戦の進行と共に次第に現実感覚を取り戻したと同じ位相だ。
 戦後混乱を沈める用が終われば、いなくなるのも細川候補と全くおなじ。
 
      
        ・第3章 ナショナリズムとはなにか
 安部さんの趣味を聴いて編集専門家が長々と記述してようで、かなり散漫になっている。
どういう論調なのか示すサブタイトルだけ記す。
 
「日本が輝いた時~東京オリンピック~」→「三丁目の夕日」とかいう映画が取り上げられている。物の時代であった高度経済成長から、心の時代への転換を匂わせている。
 
「移民チームでW杯に優勝したフランス」→移民受け入れ→排斥の嵐のなかでレインボーチーム結成して戦って、そのチームが優勝を勝ち取った時、彼等は移民ではなくフランスの英雄になった。
サッカーのもたらしたナショナリズムが移民に対する反感を乗り越えた。
 
君が代は世界でも珍しい非戦闘的な国歌」→フランス国歌「ラマルセイエーズ」と対比。
 
「イラン米大使館占拠人質事件が示したアメリカの求心力」
 
地球市民は信用できるか」
 
「郷土愛とはなにか」→一つを選択すれば他を捨てることになる。何かに帰属することは選択を迫られ決断することの繰り返し。W。丸山真男調のきざな台詞。政治においてその繰り返しによる修正能力が問われるわけで、郷土や国を選択できる人はごく一部の人たち。ここで決断の繰り返しを応用するのは不適切。
 
帰属すること→決断に際しての基準を持つこと。生きかたに自信と責任を持とうという意識だ。
 
>続く