反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1、「初めての比較言語学」黒田龍太郎。2、チョムスキー言語学は説得力があり斬新。3、「日本語千夜一夜」小林昭美(あきよし)~日本語の座標軸~。

 2014/12/15(月) 午後 2:17以降の2回の記事を抹消した。其々確たる理由はある。
その1は言語学らしきものに全く不案内だった。
その2は、モット、スマートにやれないものか。到達する結果が同じならば。しかし、根っからの不条理人間。
 
 昨日は、朝からPCの画面とにらめっこしていたが埒が開かなかった。
 
言語学は科学だと云う。黒田龍太郎著「ことばは変わる」~初めての比較言語学
確かに納得できる。ソコソコ調べたのに、書き出しからつまづいてしまう。自分の問題意識に沿って、参考資料の寄せ集めと、コピペは完了しているが、ソレはあくまでも言語学の一部分であって全体ではない。全体像が見えていない限り、端っこをホンの少しかじっただけで、、確信を持ったことが書けない。そういうものです。未踏の領域というのは。
 
 自分の調べた言語学らしきものの範囲は上記に本の冒頭で確認できる。
「他の科学と同様に、言語学には~研究者の多い分野と少ない分野がある
 
 「現代日本言語学で研究者の多い分野としては、
1、音声学。 
W、日本語の語源、系譜研究などに多用されているもっともポピュラーな手法。
丸山真男の古層研究もこの手法だったと想う。(彼はクラッシク音楽の大の愛好家。楽譜を持って音楽に出向くほど。スコアーを読みながら演奏を楽しんでいるのだろうか?)
 2年ぐらい前に図書館から借り出して来て眺めたことがあったが、面倒くさいし、難しいので放棄したことがあった。
ところがこの度、言語学をやるというので、丸山真男はどのように対処しているのだろうかと、参考資料にするつもりで、大きな図書館に出向いてたが、書棚になく、書庫にしまわれているようなので検索したところ、一応整理番号は続いているが、丸山真男集(岩波書店発行)の12巻だけが、欠損していることに気づいた。
本の目次を内容としているようなので、じっくりと眺めると、どうも以前借り出してきて読めなかった巻は欠損12巻のような気がしたがハッキリしなかった。
 とりあえず、古層の文字が入っている巻を書庫から持ってきてもらったときに、
「12巻は書庫にないようなのでうすが、どうしたのですか?」と相談職員に尋ねてみた。
「12巻は貸し出したまま、返却がないので、欠損扱いにしている」との事だったので、自分が捜し求めているのは多分、その12巻で、2年ほど前に書棚にあるときに、借り出して、難し過ぎて読めなかったので、今回読みたいと想っている巻で、今回借り出した巻は、目次のタイトルからして、日本語の古層研究を歴史学の視点からアプローチしているようで、以前借り出したものは、本居宣長古事記研究を参考にした、記紀の時代の日本祖語の研究だったように想うと、云って見た。
 
 「それだったら、**図書館に12巻のそろったものがあるので取り寄せましょうか?」という。
いや、そこまでは及ばない、としてノームチョムスキーの手法は、日本語と英語に共通の文法を見出すもので、斬新で説得力があった、ソレで十分だ、といってみた。
 生成文法ですか」と職員は興味ありげな顔で即反応した。
わたしはコレまで人間を長くやってきたにも拘らず、つい1週間ほど前まで、生成文法>さえ全く知らなかった。そういう教養の完全な埒外で生きていたのだ。
 特に痛切に思うのは、チョムスキーの名前だけはしっており、言語学者で斬新な見解を発表していることぐらいは何となく知っていたけれど、その政治的見解だけをみて半ば小ばかにしてきた。昔も今も、アメリカ発のそのての人たちの見解には重きを置かない性質である。それに伴う生き死にの哲学がない、ということに尽きる。
こんなこともあります、あんなこともあります、こんなひどいことがあります、告発してもそれだけではないか、と。
ソレはあなた方の問題であって、わたし等にはわたし等のあなた方と違う次元の問題と課題がある、と。
 
 しかしながら、今回、言語論の端っこを少しかじった程度で打ち止めにするが、今回の収穫はチョムスキーの言語論(の日本人による解説)に尽きる。
乱暴すぎるが、日本語を含めて世界の主要言語に共通項を求めるその普遍を指向する地平に、賛同する
分裂、違い、系統図。ソレも大いにある現実そのものである。
しかし、本来の<学>とはそういうものではない。まず、本質性=普遍性=世界性を希求が必要である
 ノームチョムスキの言語学理論の始原が発表されたのは1950年代である。その後、影響力を強め、その理数的言語理論は更新されて来て、現状ではグーグルのウィキペデアの載っているような難解なものになっているようだが、素人にそこまで知る必要はなく、チョムスキー言語学のガイストでいいのだ
 
 2、生成文法generative grammar)
グーグルの解説で一般に理解できるのはココまである。後の日本語は今もってチンプンカンプンだ。書いている本人はわかっている、ということなのだが、長年専門領域に没頭しすぎると、こういう頭脳構造になる。しかし、文系主体だから、仮説の域を出ない。実験証明には限界が大有りだ。だったら、ココを弁えて、解説ぐらいは、モット解りやすく書くことができなければ失格だ。
 
生成文法では、言語野に損傷を持たない人間は幼児期に触れる言語が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に言語獲得に成功するが、これは言語の初期状態である普遍文法: universal grammar, UG)を生得的に備えているためであると考える。」


 以上の解説でも、モット丁寧でわかりやすく、生成文法派の言語論に対して一般の展望の開ける解説はほかにある。
 ただし、日本語のグーグルネットを探しても余り見当たらない。
そこで執拗に探索してみた結果、次のものが、最適、最高のチョムスキー派言語論の解説であった。とりあえずこれ以上の情報は素人に必要でないが、チョムスキー言語論派が急速に台頭したのも今までの言語学の別ルート(数学的考察ということにあっているが、そういいきれるものでない)から思考し、物凄く説得力のある議論を展開したからだと、考える。
 素人でもなるほどと想う説得力がある。チョムスキー以前は、言語学の通例である地どり作業に追われて、こういう諸事実に気づかなかったのだ。警察捜査に例えると、従来の科学捜査にDNA鑑定が導入された、とまではいわないが、そういう種類の効果を言語学に及ぼした。
 しかし、限界はあるが、言語学そのものが研究し尽くされて、行き詰っているのでないだろうか?
調べたところでは、言語学の解説においてチョムスキー言語学派の提唱した原則は復唱するまでになっている。主要テーマは言語学の定説である。


 生成文法の最適解説はグーグルで閲覧できる限り、次のものである。解りやすいし、面白い!
 
(1)ノーム・チョムスキー:その言語理論と政治思想をめぐって  長谷川 宏
文書形式なので、当該のadobe readerを開けば載っている。


2)脳は文法を知っている  
。(1)をモット解りやすくしたリアルタイムのテレビ番組製作現場からの感想文的レポートチョムスキー言語論の本線とはかなりずれているような気がするけど、脳内科学の実験領域に発展する可能性があるということだ。
   目次を見るとチョムスキー言語理論のアウトラインがつかめる。
●言語がすぐにしっかり身につく謎
幼児は驚くほどスピーディーかつスムーズに言語を覚えていく。考えてみれば不思議ではないだろうか。言語という複雑な仕組みを、まだ知能の高まっていない段階で、しかもそれほど多くの正しい文例に触れるわけでもないのに、完全に身につけてしまうのだから。
やはり、言語を聞きわけ自らも話すための基盤を赤ちゃんは持って生まれてくると考えざるをえない
~赤ちゃんを水の中に放り込んでも泳ぎはしないだろう。ピアノをひとりでに弾きこなすこともないだろう。ところが言語だけは、ほとんどの子供が特別な訓練なしにしかも同一の水準にまで間違いなく達する。言語はまっさらな頭で一から学習していくのではない。言語能力のなんらかの原型が最初から備わっているに違いない。
 
チョムスキーの「普遍文法」=Universal Grammar
「ご存知のとおり、チョムスキーは「普遍文法」と呼ばれる理論を唱えた。ポイントはたぶん2つ。
 1 あらゆる言語に共通する基本ルールがある
 2 その基本ルールは脳に由来する
それぞれ言語学および生物学の仮説ということになるだろう。
 
●言語には共通の基本ルールがある
日本語であれ英語であれ、主語・動詞・目的語という要素が取り出せるという事実だ
日本語はSOV、英語はSVOと語順が異なるけれど、そもそもS・V・Oという区分けができること自体、またおのおのの言語で基本の順序が決まっていること自体、単純にして重大な共通ルールと言える。そうでない言語は存在しないとされている」
W。(1)の解りやすくて詳しい説明を参照。なるほどと納得できる。一言で云えば、論理的構造的に言葉を使えるのは人間だけで、この能力が人間史を発展させてきた。出アフリカの7万年前を基準とすると。
 
●言語のルールは脳に由来する
そして、言語がこうなっているのは、ズバリ脳がそうなっているからだと、チョムスキーは主張した
W.ココまで来ると他の言語学と次元が違った方向に進んでいることがわかる。
 
●原理とパラメータ
「ところで素朴な疑問が出るだろう。普遍文法が1つなら、どうして実際に出力される言語は日本語になったり英語になったりするのかと。

これには「原理とパラメータ」という図式の説明がなされる。

 普遍文法の「原理」は脳のなかで万人共通であり、そこに環境から実際の文例が与えられると普遍文法の「パラメータ(媒介変数)」が決まり、そうして日本語や英語など個別の文法が出てくるというのだ。

たとえば、「S・V・Oがある」「語順がある」というのが原理なら、それが「SVO」か「SOV」かというパラメータは実際に触れた言語に応じて1つに決まるということ。句の重点が「後」になるか「前」になるかも、同じパラメータに従っているとみることもできる。」
 
●言語は自然現象

こうした考えの根本には「言語は自然現象である」という視点がある。

脳は心を生みだす。その心の働きの1つが言語である。したがって、言語は脳という自然現象のうちにありサイエンスの対象となる。
W。ココまで来ると実証実験の対象となる。
 
●文法こそ言語の本質

「もうひとつ酒井さん(チョムスキー言語学を実験で証明しようとしている東大准教授)の明快な立場は、『言語の本質は文法にある』と考える点にある。このことは以下の2つに関係する。

1つは、言語は単語に注目すると多様にしか見えないということ(W音階論や意味論はコレ)。

単語と意味のつながりは恣意的であり、言語を超えた共通性はまったくない(W,違いを明らかにしたり系統を証明したり、個別研究に心血を注いできたのは従来の言語学)。

これに対してチョムスキーは、言語から意味を消し去り、文の構造だけを分析することで普遍文法を見出すことになった。

もう1つは、人間の言語の特異さが文を作れる点にあること。その根拠として、チンパンジーに手のサインによる単語を教えそれを使わせたアメリカの実験が挙げられる。そのチンパンジーが使った最長のサインは、「ちょうだい、オレンジ、わたし、ちょうだい、たべる、オレンジ、わたし、たべる、オレンジ、ちょうだい、わたし、たべる、オレンジ、ちょうだい、わたし、あなた」というものだった。単語は扱えても、それを並べる規則は生みだすことも教えることもできなかったというのだ。
 
(3)意味論 
W.調べていないが、漢字は表意文字(前回の記事では象形文字などという言葉を使って、何も判っていないことを証明した。完全なマチガイではないけれど~)を意味を辿り易い。インド、ヨーロッパ語族にも単語の意味を遡れる。例えば、記事でもよく使うアパシー。語源は古代ギリシアにある。単純な無関心とは違う。意図的に情勢に背を向けているという意味を含むもの、と考える。制度の枯渇空洞化、ましてやマチガイが厳然としているときに、ボイコットもありえる。現実に、地方選挙を自公がボイコットした2014年の例がある。恫喝めいた言辞を弄して、投票所に即するのは政治の本質から、本末転倒である。



 日本語の立場から自由な雰囲気で書かれた長文の電子書籍がグーグルに載っている。勿論、チョムスキー派の言語論も承認しているが、具体的に使うことはできないようで、1)と2)を使用して、歴史学の最新の成果を参照しながら(ココが肝心なところである)、分析を進めている。
 分厚い本一冊に相当する分量で、1話から200話以上有り、その4分の3程度の中身が実に濃い。面白い、読み応えがある、著者の主張は一貫して筋が通っている。
 
  小林昭美(あきよし)日本語千夜一夜 白水社
元NHK放送文化 研究所所長。NHKに入り教育・教養番組ディレクター。その間フルブライト留学生としてニューヨーク大学留学。(財)NHKインターナショナル理事長。大正大学文学部客員教授NPO法人「地球ことば村」理事。
W。やはり立場上、定年までたまりに溜まったうっせきがあったのだろうなぁ~。一気に吐き出している感がある。言語科学的に!
 結語として次のように述べている。
 
    古代日本語を探る
 
「古代日本語を探る方法には3つの方法論がある。
 
第一の方法は、国学の方法である。国学は日本の古 学であり、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の日本語を研究することにより、古代日本語の姿を探るものである。
W。コレ基本的に18世紀後半の江戸時代の本居宣長を超えていない。研究し尽くされている。後は尾ひれ?をつけるだけ。
 
第二の方法は、一般言語学の方法である。一般言語 学あるいは西洋言語学では19世紀に言語系統論が発達しており、これを日本語の研究に応用しようとする方法論である。
W。大野晋的日本語の起源。
 
第三の方法は、日本語を朝鮮語や中国語、など近隣 の言語と比較検討し、日本語の位置を確かめようとするものである
W。一番全う?
 
W。言語学上、厳密に言えば、各言語を比較することは、予め同系統とめぼしをつけた言語同士を、歴史的条件を参考にしながら研究することである。
 
他方、英語と日本語を検討することは、対照するということである
よく考えるとこの場合は歴史的条件の大きな違いを前提にしているので、その条件は参考にならない。
下図の説明  小林昭美(あきよし)日本語千夜一夜 白水社 第97話 日本語の座標軸 引用
 <日本語形成のシナリオ>~古代中国語の音韻と「やまとことば」の語彙との対応を検証
「>縄文文化は東日本を中心とした文化であり、マンモスハンターの文化の後裔であると考えられる。
縄文時代日本語をAとし(縄文時代の日本語)、弥生時代になって渡来人がもたらした言語をB朝鮮半島を経て日本列島に)とすると、言語Aと言語Bは、ともにアルタイ系言語であった可能性がある
>しかし、言語Aと言語Bは同じアルタイ系でも、2万3千年前にバイカル湖のほとりで別れた親戚であり、ほとんど相互に理解不能だったに違いない。
朝鮮半島を経て日本列島にやってきた言語Bは、おそらく高句麗語系のアルタイ語であったものと思われる。百済高句麗系で言語Bと同系だから高句麗百済といってもいい
朝鮮半島から弥生文化とともに入ってきた言語Bは、朝鮮半島にある時代にすでに、言語C(中国語)から多くの中国語の語彙を>取り入れてクレオール化>していた。
>それが「やまとことば」に中国語系の語彙を供給したと考えることができる
言語の系統は主として文法構造を中心に分類さ れる。語彙は変りやすいが、文法構造は語彙にくらべて変化しにくい。日本語はアルタイ系の文法構造、音韻体系のうえに、長い間にわたって中国語の語彙を受 け入れている。
日本語は弥生時代の当初からクレオール化を経験した混交言語である
W。ピジンクレオール化とは一口にって、支配層と被支配層の交流する必要に迫られたとき、意思伝達のやりやすいように相互の言語が混雑することをピジン語といい、その言語が世代を経て定着することをクレオールかという。小林の指摘するのは、朝鮮半島ピジンクレオール化が実現して、それらの人々が日本列島に大挙押し寄せてきて、稲作を始めて、同じアルタイ系統の言語を話す縄文人を凌駕していった、ということだ。
縄文人弥生人はアルタイ山地方面からバイカル湖のほとりに至る過程で分かれた。
かなり前にNHKで、最新のDNA解析を使って、日本人の遠い祖先はバイカル湖のほとりに住んでいた一女性にたどり着くという特集があった。
また、日本人に少しだけあって朝鮮人や中国人にはないDNA因子は縄文人の因子だという筑波大学の教授の話が動画で流れていた。
なるほど、そういえば、昨年、中国人と日本人の識者を横並びにした討論会の画像を見たとき、つくづく日本人の顔は縄文的だなぁ~と感心したことがあった。中国人の顔は全体的にのっぺり、つるっとしている。日本人は陰影が濃い。恵まれた環境にあるエリート?同士だから、なおさら、民族の特徴が際立っているのだろうとそのとき想った。庶民には庶民の顔立ちがある。
なお、人間は生産性が低い段階では、一箇所に定住できず、移動しなければ生きていけないものである。農耕を多少やっていても、生きるために命がけで、移動の必要はあるだろう。ソレは歴史時代の感覚では考えられないものである。
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>そうすると、前回の記事へのコメント氏の時制云々の内容は、インドヨーロッパ語族と日本、朝鮮、中国の東アジアの各言語を対照している(比較しているわけではない)ので、方法としては正しいということになり、コレに対して、言語論で答えずに<西洋と東アジアの歴史の違いを持ち出す、当方の手法は、言語論上の手法としては間違っていたことになる。
>がしかし、一種の感が働いたのか、抹消した。
 
>こういうことはいえる。
以前、日本、中国、西洋の歴史を<比較して>何かを見出だそうなどという、大それた試みをして失敗したことがあるが、ソレは<元々比較できない歴史>を比較していたのだと、いえる。
極端に言えば、インカ帝国の歴史?と日本の歴史には、何の関係があるや否や?ソレは<比較>ではなく、<対照>にすべきものである
日本語では両者はイマイチハッキリしない概念だが、英語で、比較と対照は言語として鮮明に区別できると想う。
上記は黒田龍太郎の著書の受け売りだが。
 
         <小林の本文に返る>
>しかし、残念なことに、国学の学徒の多くは、一般 言語学にほとんど関心がなく、日本語以外の言語についての知識が乏しいから、日本語は日本列島でうまれた特殊な言語であり、「やまとことば」は純粋である と考える傾向がある。
W。ソレを証明するためには他の言語と、比較しなければならないのだから、歴史的事実は国学的視線の言語学には絶対に必要である
。もっともそんなことはどうでもいいパッションの世界の住人であるが。
     小林昭美
<日本語形成のシナリオ>~古代中国語の音韻と「やまとことば」の語彙との対応を検証してえられた~
 
>また、一般言語学の学徒は最近数は増えているが、 西洋言語学を研究し、あるいは一部未開地の少数言語などを研究しているが、日本語の古典について、あわせて知識をもっている人は稀である。
 
>最後に、漢学者は江戸時代の漢学者の伝統を受け継 ぐ人が多く、中国の古典の研究を専らとしているが、古典の解釈に傾注しており、中国語の音韻について研究している人はきわめて少ない
W。古代に日本語に大きな影響を与えているというのが著者の立場である。
 
筆者はテレビ出身なので、そのどの分野の専門家で もないが、ジャーナリストの特権で、どの分野にも相応の興味をもっている。
最近の学問は専門分野がますます細分化され、それ ぞれの分野は深められているが、学際的な分野は見逃されがちである。
 
理科系の分野で は、専門分野は細分化しているものの、工学という分野がり、それが応用化学として各専門分野を結ぶ役割を果たしているように思われる。
文科系の分野でも 「ポピュラーサイエンス」のような、総合化する分野があってもいいのではないかというのが筆者の意見である。
日本語は『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成立 する千年も前から古代中国語や朝鮮語接触しており、「やまとことば」のなかにはかなりの数の中国語が弥生語あるいは倭音として取り入れられていることは 明らかになったものと考えている。
 (W。この観点が一貫したテーマで、丁寧に証明しようとしている。
最近の学問は専門分野がますます細分化され、それ ぞれの分野は深められているが、学際的な分野は見逃されがちである。」
4)社会言語学
W。全く不案内。このように言語学の範囲を広げると、何でもいえるような気がする
 
 引用。黒田龍太郎著「ことばは変わる」白水社 2011年12月発行。
「わかることは既に解っているので、その後ででて来る新説はかなりの『トンデモ説』が多い。自分の都合のいい例ばかり集めた『発見』や強引に話を進めようとするシロウト学説に惑わされないで真実を見極めるのは容易でない」
「特にわたしの嫌いに日本語系統論に繫がることも少なくないから、ちょっとした論文を読むにも細心の注意が必要である。」
 
W。先日大きな図書館の日本語系の言語学の書棚の膨大な書籍のタイトルをみると、よくもまぁ~ここまでとおもうものが、大半に思えた
 
 アベ首相の推薦でNHK経営委員になった長谷川某女は旧仮名遣いで正式な文章を書くという。作家、野上弥生子の近親らしいが、ま、ありえることである。
三島由紀夫の晩年の作品「英霊」を我慢して読み通したが、吐き気を模様すような不快な小説??だった。
神道祝詞を挙げる若者が陶酔感に陥り、無我の境地から、昭和天皇の御心を呼び出し、参列者である主人公が共鳴する過程を無理をして神聖に描く上げ、挙句の果てに、5,15事件から、2,26事件→日中戦争突入→太平洋戦争→敗戦→戦後と続く歴史過程を例に挙げて、御心の真髄に参列者の共鳴が充満する寸法でキッチリ収まっている。その時点で幽体離脱した如き若者は事切れていたという筋書きなのだから、わたしの知る限り、下手な戦前の浪漫派作家の典型的作品を踏襲したものである。
本人は清浄な気分でそれなりに気をこめてい書いているつもりなんだろうが、極私的で社会性乏しい陶酔感を一方的に披瀝しているものであって、とてもあんなものは小説と呼べるシロモノではない。
男色的にエロい、とても適わぬ世界である。勿論、当時は過渡的に、そのような世界で刃を研いで行くしかなかったことは理解するが、偏屈的に日本的ではある。
 作家、野上弥生子も一見、教養人風だが、宮本百合子との個人的関係から、実に日本的な極私的インテリ像が垣間見える。社会関係を個々人のつながり、情緒、感情に還元して、事たれり、としている。
 
W。確かにそういう方面の難しい本が図書館の書棚にあった。そこまで知ろうとは、思わない
決定論とか基底還元主義という用語がある。言語と社会政治、心理を短絡するとなんとでも言える。そこで留まれるという便利な立場(ユニバーサルな?)である。
 
(6)比較言語学
 引用。黒田龍太郎「ことばは変わる」~初めての比較言語学
「反対に少ない分は派比較言語学や語用論がある。~
どうして比較言語語学に研究者が少ないのか?
ソレは大変だからである。
大変な理由はいくつか考えられる。
>まず、いまでは研究成果がなかなか上がらないこと。
19世紀最盛期を迎えた比較言語学は、常識的な範囲はほぼ研究し尽くされている。したがって新たに論文を書くのは至難の業である。~
それから、多くの言語の知識が必要となることもタイヘンである。特に古典語、つまりギリシア語、ラテン語、加えてサンスクリット語の知識が要求されているのだ。
さらにゴート語、古代スラブ語の知識があれば理想的である。そんな日本人何人いるか。私はほとんどダメだ。
>比較言語学は、どんなに一生懸命に研究しても、ヨーロッパの諸言語意外はなかなか成果が上がっていないのが実情である
言語学は全言語を対象にすべきなのに、それでは非常に偏ってしまう危険性があるのではないか。」
 
W。この後、わかっていることは既に解っているので、その後に出てくる新説はトンデモ説や自分の都合のいい~云々と続く
 
W、サンスクリット語はインドヨーロッパ語族の最も整備された古い言語であると、イギリス植民地統治裁判官、兼言語学者が発見して衝撃を与えた。
 もっとも、今では高校の世界史でインドヨーロッパ語族の主流は黒海付近から西に向かったが、アーリア人一派はインダス河を越えてインドに侵入し、そのままカースト的支配階級になった、教えている。もっともわたしも、2,3日前までこの重大な世界史的事実をインド仏教と結び付けて考えられなかった。
 
>そうすると面白いことが解る。
仏教は世界三大宗教の中で一番古い宗教だが、瞑想にふけって宗教的境地を獲得した人物も、ソレを保護して広めたアショカ王も、インドヨーロッパ語族のアーリア人の末裔ということになる。
 
>個人の徹底修行を求めて、出家にいたる上座部仏教小乗仏教などと言い換えているが、コレをいってしまえば、俗流化して、世間の人も簡単に信仰できるように手ほどきしたのが大乗仏教と称して、中国を経由する過程で学問的?に体系付けられで日本に渡った。
 この大きな仏教日本伝来の歴史過程は、インドヨーロッパ語族、アーリア人一派の宗教的魂が東アジア的に換骨奪胎される過程だったのかもしれない。その後の列島における仏教改革は、仏教の脱宗教化=徹底世俗化、政治化の過程だったともいえる。水上勉「雁の寺」(映画も傑作。若尾文子の代表作だろう)。創価学会は参考になる。