前回の記事の中に記した「W。上記の日米両安保条約におけるマーカー部分に立ち入って比較しないと、集団自衛権問題と日本国憲法状況の関係をクローズアップし、白井との戦後民主主義をめぐる相違を明らかにできない。」について、時間不足げ検討できないとそのままにしていたが、要点を列記する。
(1)サンフランシスコ講和条約締結後、ただちに調印した1951年日米安保条約のガイドラインとでもいうべき前文において、個別自衛権、集団自衛権という国連憲章にある概念は明記され、それは1960年安保条約改定後の引き継がれた。
(2)岸信介首相の締結した改定安保条約の特徴は
イ、51年安保、第1条の内乱、<騒擾>状況への米軍の介入権の否定という点が、孫崎さんの「戦後日本史の正体」では、特記事項とされているが、10年間の日本の経済成長、軍備増強、国内政治のコーポラリズム的定着による治安の安定という意味から、取り立てて論じる必要もなく、論外である。
結果的に岸信介への美化の役割を果たしている。
アベ首相は今までの、いわゆる、危ない政治家としては、トップランクに位置する。
思考パターンの最大の欠陥は、リアルであらねばならない重大な客観的状況において、訳のわからない浪漫派的境地を代替えして、判断を下すことであると理解する。そういう意味で危ない政治家のなのである。
ロ、孫崎さんの「戦後日本史の正体」の過半は、戦後日本の首相の対米関係に絞りあげた、一面的仕分け作業のようなもので、「戦後日本史の正体」とするにはお粗末すぎる。
W.1964年。
「研修所(外務省)の創立20周年記念式典に、吉田茂元首相が来訪した。
いよいよ訓示と云う段になり、ステッキをついて壇上に立った吉田元首相に対し研修所長は長い話を期待して『研修生を座らせてよろしいですか』と尋ねた。
しかし、元首相はそれを完全に無視し、私たちを立たせたままいきなり話し始めた。
『この研修所を作ったのは私であります。諸君に勉強してもらいたいと思ったからであります。
>その政策の中で最も重要なのは支那(中国を指す)のことであります。
日頃の所感を述べて終わりにしたいと思います。』
それだけ言うと、さっと身をひるがえして立ち去った。時間にすれば、わずか1分半か2分くらいだろう。皆、しばらくあっけにとられていたが、私だけ『ほら見ろ』という想いでうれしくてたまらなかった。
W。加藤は、チャイナスクール。」
GHQによる戦後改革は戦前の日本資本主義の異常な軍需依存、民需圧迫、の無謀な戦争まで暴走した体制の制度的基礎を払しょく、戦後日本資本主義の発展をもたらした。
戦前戦を通じた農業農民問題を過剰労働人口に絞った観点からすると、戦前の寄生地主ー小作制度の改革は、結果的に、農漁村の解体を通じて、内発的経済成長であった高度経済成長に安価で質の良い労働力を提供した。最も当時、水よりも安いといわれていたエネルギー急転換もいびつな経済成長の源泉であり、後で付けが回ってきているのである。
戦争と市民革命は歴史上、不可分なものであった。
世界戦争による敗戦にもかかわらず、日本国民には市民革命をやれる政治的土台はなかった。
替わりに米軍総司令部が指令の下、日本政府が実行し、日本国民はそれを享受した。それを不満に思うものは、一部のものの、結集軸が今の自民党の母体になった。
>日本経済と米国経済が順調に推移している間は、上記のような基本矛盾は、底流にあったが、表面化しなかった。
>1985年プラザ合意受諾→1990円台諸島の冷戦構造解体が歴史的結節点であった。
純粋な資本主義はどこにも存在しなかったように、純粋な市民革命もなかった。それぞれ条件と形態が違う。
欧米史観は、この日本的変形を正統からの逸脱とみなすのである。
ロ。第十条:
この条約は~~この条約が十年間効力を存続した後は、(W。1970年。60年改定安保自動延長)いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。
この条約は~~この条約が十年間効力を存続した後は、(W。1970年。60年改定安保自動延長)いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。
W。コレは成果であるが、当時の日本内外の時代状況を具体的に踏まえて、評価すべきであろう。
米国の黄金時代は1950年代といわれているが、60年になってもまだその余韻は続いており、米国側の対日政策に余裕があった。同時にケネディー政権のキューバ危機へと展開していく、東西対立の激化とデタントの併存状態も考慮にいれる必要がある。
日本的コーポラリズム体制は最高潮に達しようとしており、すでにはじまっていた日本資本主義の異常な高成長への野党労働運動のパートナーを必要としていた。
安保条約のガイドラインと条項に日米経済協力がうたわれていることに注目する。
インフレを伴った高度経済成長は、一定の分配を可能にした。このインフレは需要過多インフレてもあり、アベノミクスの画策とは真逆のものである
問題は具体的に提出されなければならない。抽象論でスルーするから、歴史の清算になる。
訳のわかったふりをした一人ひとりが適当に寄り集まっただけでは、影響力を与えることはできない。今目の前にある現実の政治的事物の中からしか将来のものは生まれない。
歴史の隠ぺいに手を貸している、と見る。
引用 一日一尺一寸 本屋の小僧 W。付け加えておくと、ドイツの日本駐在新聞記者の観察では、日本で一番成果を上げているのは、学校という工場である、とのこと。生産工程の管理が行き届いているということか。それでもまだ、学校という工場の管理を推し進めたいという欲求は異常というほかない!皇国教育を再開したのか。鏡にうつさないと、自分の姿は分からない。グローバル資本制のシステムでは、そのような教育は、衰退の原因にさえなる。
>民同のニワトリからアヒルへの転化は、当時の労働運動主流派共産党に反対する労働運動の側面というよりも、朝鮮戦争戦時下において、日本国憲法の原則を押し立てた、反戦運動ととしても展開されたことによって、成立した。運動を前に進め拡大する着目点が優れているが、憲法精神に集約してしまいがちな問題点も内包している。実際の現場でどうあったか、中身が問題になる。
わたしの子供のころの体験では日教組の組合員といわれる教師は生徒と父母に人気が高く、教師として有能だった。
>日教組最大の戦いである一九五六年~五九年「勤務闘争」は組合脱退者を多く出した。
強固な反対派の立場をとった者は教育現場で無能のもかかわらず出世していく。つまり勤務評定をする立場が約束されたのである。これは事実。
「所業(3)一九五一年「教え子を再び戦場に送るな」
一九五〇年六月に朝鮮戦争が勃発したことを契機にして、GHQは翌月に警察予備隊の創
設を指示をせました。
また、一九五一年にサンフランシスコ講和条約が結ばれて日本が独立を回復すると政府からは戦後民主主義を見直そうという動きが出てきました。
これに対して、日教組は戦後民主主義を守る合い言葉として「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを採択します。
さらに、このスローガンを実あるものするためには、「戦争に行きたくない」という子どもを育てる教育方針を確立する必要があると考え、第一回全国教育研究大会を開きます。
>大会では一一の分科会が催され、平和教育を扱った分科会では、赤十字運動やユネスコ運動、国連に対する理解を深めることで平和を守る子供を育てようという意見が出され、教育の力で戦争を喜ぶ人間をなくし、人種的偏見を取り除き、平和のための歴史を教えることで平和は守られるという結論に落ち着きました。
一九五六年~五九年「勤務闘争」
日教組の歴史の中で最も激しい運動が、勤務評定の実施に反対した「勤評闘争」です。一九五〇年に成立した地方公務員法は任命権者による勤務評定の実施を義務付けていましたが、全国の教育委員会は教員の勤務は評定になじまないとして実施していませんでした。
ハ、60年安保条約の最大の特記事項は、日米安保の運用領域を極東と、明記したことである。
この時すでに、日米両軍の一体的運用を実行する指令部間の実質的統合も確定したものと思われる。
ニ、秘密保護法(国際秘密情報網PRISM (監視プログラム、シギントとワンセット。UKUSA協定米英加、豪、ニュージ加盟との関係は?)、集団自衛権閣議決定(安保法制の制定によって一応合法の体裁ととる)は、TPP事態を日米支配層の日本国民過半を共同収奪する経済的下部構造とすると、
ホ、次のような意見がある
「安倍政権と戦争の記憶~日本見つめる歴史家、キャロル・グラックさん」 エムズの片割れ
W、キャロルグラックのインタビュー発言には、混乱したところが随所みられる。またいわゆる平和ボケしているところが見受けれる。このような観点では核戦争でも発生しない限り、桜井よしこではないが、<だいじょうぶ>ということになる。
しかし、重要な指摘がある。
引用する
「「以前から感じているのですが、日本はいつも極端な言葉で形容されます。
経済問題でもそうです。
>1980年代には『世界を支配する』、
>90年代には逆に『日本は終わった』と報じられ、その後、日本はほとんど無視された。
>安倍首相が再登板してアベノミクスを言い立てると、おお、欧州ができなかったことをした、再び日本に注目しよう――。←W。できなかったことではなく、過半の国民生活に不利益で、悪い方に出るのは分かり切ったことだから、やってはいけない、やれない、というだけだ。ボケているのではないか!日本はずっと0金利状態を続けてきたという先進国ではありえない条件のなかで、やみくもににジャンプした。
>出口がどういうところになるのか、分かり切ったことであろう!
引用 「r>g」のピケティ理論とは
W。この式の傾向が修正されず、ずっと続いていくと、結果はどうなるか分かり切ったことだろう。
「r > g」という方程式
「r」は、広義の資本からの、利益、配当、家賃、所得を指す。"return on capital"です。
「g」は、経済成長。つまり"growth"です。
*成長が低くなり、鈍化すると、労働からより、資本の利益の方から、富が一層増えていって、
また一握りのエリートに富がより一層 集積する。
つまり、不平等が増加する。。
このような、逸脱もしくは不平等は、
上記の方程式に集約される、と。。。つまり
「g」は、経済成長。つまり"growth"です。
*成長が低くなり、鈍化すると、労働からより、資本の利益の方から、富が一層増えていって、
また一握りのエリートに富がより一層 集積する。
つまり、不平等が増加する。。
このような、逸脱もしくは不平等は、
上記の方程式に集約される、と。。。つまり
「r > g」です。
W.次の指摘は正確な状況認識
アジアの地政学的要因や、さらなる防衛費負担を求める米国の圧力があったからです。W?進んで米国の懐に飛び込んで~という日本独特の情緒的政治手法?に基づくアベ首相のような危ない側面を無視している、というか理解できない!
将来的に、もし9条が改正されたとしても、それまでには、改正が必要ないほど多くのことが実現しているのではないですか。憲法は、シチューを煮るための鍋に似ています。大切なのは中身であり、鍋ではない」
「仮に今、憲法改正に着手したら、政治のエネルギーを吸い尽くしてしまうでしょう。中韓や東南アジア諸国との関係をどうするか、世界でどんな役割を果たすべきか、そんな課題が山積みだというのに」
W.このヒトは何かが欠けている。
W.このヒトは何かが欠けている。
W。次の下りを読んだとき、白井聡「永続敗戦論」のモチーフを見る思いがした。
――前回政権時、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げていましたが、これはどう思いますか。
「同種のことを言い始めたのも、別に安倍首相が最初ではありません。戦争が終わって70年近く経つというのに、いまだに『戦後』という言葉を使っているのは日本だけ、という点は実に興味深いですが」
「日本が戦後という言葉を使い続けた理由は、それだけ、この体制が安定したものだったからでしょう。
「同種のことを言い始めたのも、別に安倍首相が最初ではありません。戦争が終わって70年近く経つというのに、いまだに『戦後』という言葉を使っているのは日本だけ、という点は実に興味深いですが」
「日本が戦後という言葉を使い続けた理由は、それだけ、この体制が安定したものだったからでしょう。
>諸外国では、このように使われる言葉を見つけられません。
>その理由のひとつは米国です。米国が、日本の記憶とシステムを『冷凍』していたから。
そして日本にとっては、それが快適だった。おかげで天皇は象徴となり、民主的で平和な国家が続いている、と」
「安倍首相は『普通の国』になるために9条を変えることを欲するけれど、戦後体制の『ある部分』は変えたくない。それは日米関係です。民主党が試みて失敗したようなことはしたくない。安倍首相は、本当に戦後を変えたいのでしょうか」
「安倍首相は『普通の国』になるために9条を変えることを欲するけれど、戦後体制の『ある部分』は変えたくない。それは日米関係です。民主党が試みて失敗したようなことはしたくない。安倍首相は、本当に戦後を変えたいのでしょうか」
以下は我々のあまり知らない実に斬新な視点が提示されている。
――なぜ日本ばかりが謝罪しなければならないのか、という疑問を持つ人もいます。
「この20年ほどで、戦争の記憶に関する『グローバル記憶文化』とでも呼ぶべきものが生まれました。
「この20年ほどで、戦争の記憶に関する『グローバル記憶文化』とでも呼ぶべきものが生まれました。
それは、国家が過去に行った行為について新しい国際規範ができた、(W.グローバル金融経済にとって都合のよい。)ということを意味します」
「戦後すぐは、その規範は存在しませんでした。国家の首脳は50年代、『ごめんなさい』と言って回ったりはしなかった。
「戦後すぐは、その規範は存在しませんでした。国家の首脳は50年代、『ごめんなさい』と言って回ったりはしなかった。
>この『謝罪ポリティクス』につながる新しい記憶文化が生まれた理由のひとつはホロコーストです。
多くの国が追悼の日を設け、教育を始めた。
>EUが90年代以降に北・東欧に広がると、この記憶も広がった。私は『溶媒効果』と呼んでいます」
W.事実であろうが、グローバル金融経済の主導者にとって都合のいい理屈でもある。
W。ウクライナのナチまがいの政党の運動と暴力、国内戦争は、話題にも上らないというのはどうしたことか!
「トルコを例にとると、オスマン帝国末期のアルメニア人虐殺をトルコ政府が認めないことを、EUは重大視しています。EUの一員になるにはグローバル記憶文化の共有が要求されるのです。EUがトルコ加入に難色を示す理由として、これは明らかに政治利用されています」
直近の記事で、冷戦体制崩壊後のフランス人権思想の転換を取り上げたとき、なんとなく、こういう面を感じていた。
日本と違って彼らの世界は論理を必要とする世界である。
――その新しい規範が、東アジアにも広がったということですか。
「日本は長い間、戦争の記憶に関して何もする必要がなかった。強固な日米関係に支えられていたからです。中国は共産主義国だから、存在しないのと同じだった。しかし、冷戦が崩壊し、日米関係が唯一の重要な国際関係ではなくなった」
「アジアと向き合うことを余儀なくされ、90年代になって突然、日本政府は戦争の記憶に対処しなければならなくなったのです。それは世界的な『新しい常識』です。
「日本は長い間、戦争の記憶に関して何もする必要がなかった。強固な日米関係に支えられていたからです。中国は共産主義国だから、存在しないのと同じだった。しかし、冷戦が崩壊し、日米関係が唯一の重要な国際関係ではなくなった」
「アジアと向き合うことを余儀なくされ、90年代になって突然、日本政府は戦争の記憶に対処しなければならなくなったのです。それは世界的な『新しい常識』です。
W。鋭い観察眼とグレーゾーンが同居している、日本にはいないタイプの学者さんである。
巨船、日本丸の特殊性と、かじ取りの難しさが、わかっていない。
「90年代からずっと言い続けているのですが、日本はグローバルプレーヤーになる努力をするべきです。非核国で、兵器も売らず、かつ世界有数の経済大国という稀有(けう)な国です。ノルウェーが平和交渉の仲介役をするように、他国がしない隙間の役割を見つけるべきでしょう。クール・ジャパンだけでは無理でも、もっと多面的なソフトパワーを武器にして、何かできるはずです」
「それは、台頭する中国にどう対処するか、という問いへの答えでもあります。軍備に軍備で対抗するのは、ばかげていますから」
「それは、台頭する中国にどう対処するか、という問いへの答えでもあります。軍備に軍備で対抗するのは、ばかげていますから」
「>前回の記事の<追記>に少し示したウクライナ中東情勢のネット上で探した情報を次回からまとめていきたい。
膨大な情報を処理することは難しい。
(1)まず、世界における戦争、紛争の最大の製造源、米国事情を信用できて分かりやすブログ記事をたたき台にする。
(2)ウクライナ情勢を概観する。
(3)関連して、中東情勢を見ていく。