反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2015年8月15日。「誰もいない海」You Tube。宮沢賢治遺稿、「眼にて言ふ」。詩「出征」 向井孝。野坂昭如「火垂るの墓」。宮本百合子1932年特高取調室実録「刻々」。国定忠治<酔って死んじゃ>

 
 
https://www.youtube.com/watch?v=HbowFXNcOxA    二木紘三のうた物語より、引用
 
1 今はもう秋 誰もいない海
  知らん顔して 人がゆきすぎても
  私は忘れない 海に約束したから
  つらくても つらくても 死にはしないと
2 今はもう秋 誰もいない海
  たった一つの 夢が破れても
  私は忘れない 砂に約束したから
  淋しくても 淋しくても 死にはしないと
3 今はもう秋 誰もいない海
  いとしい面影 帰らなくても
  私は忘れない 空に約束したから
  一人でも 一人でも 死にはしないと
  一人でも 一人でも 死にはしないと

    坂口安吾堕落論」より。宮沢賢治の遺稿、「眼にて言ふ」
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いているですからな
ゆふべからめむられず
血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうもまなく死にさうです
けれどもなんと風でせう
もう清明が近いので
もみじの若芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
あんなに青い空から
盛り上がって湧くやうに
綺麗な風が来るですな
あなたは医学会のお帰り何かはわかりませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気でいろいろ手当てをしていただけば
コレで死んでもまづは文句もありません
血が出ているのにもかかはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それが言えないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきおとった風ばかりです
 

アナーキスト、故、向井孝さんの詩「出征」ー単なる反戦詩に終わらない普遍性がある。  国定忠治ーハミダシ者の身体を張った粋は木端役人には解るまい」  2011/12/17(土) 午後 1:30
 
      出征    向井孝  1947年作。
 
しいんとあかるい夏空の下を、 みんな汗をふきながら
ぞろぞろつづいていった。
横むいてしゃべったり、追い越して話しかけながら、小旗を
持った近所のおかみさんたちや子供たちががやがやと後につらなった
 赤だすきをかけた夫が、子供を抱き会社の人と話をかわしながら
先頭をあるいていた。
 列の中ほどで誰かがとんきょうもない声で、軍歌を大声で歌い出してはやめたあと
ほりっぽいやけあとみちを、じりじりと朝日に照らされて、みんな黙りこんですすんだ。
 すれちがう出勤時のひとたちが、おおいそぎで追い越しては、振り向いて見送った。
駅に着くと、しばらく夫を取り囲んで、誰彼となく手を握り、かたをたたいてあいさつをかわした。
 やがてみんな進軍歌を歌い、何度も繰り返して万歳を一斉に叫んだ。
いつまでも汽車が来ず、てもちぶたさで柵に腰かけたり、座り込んでしゃべっていた。
 再びよってきて、もう一度万歳をさけび、ちりじりになって、ばらばらになって帰りだした。
自分と子供だけがプラットホームに入り、やっと入ってきて発っていく汽車の姿をみえなくなるまで見送った。
 子供の手を引いて駅を出てくると、あたりに人影はなく、かすかに明るい空のどこかで
警報が鳴っているようだった。
 影一つない焼け野原を横切り、かわききったやけあとみちを、ひっそり我が家にもどってきた。
戸をあけるとバラックの中はしいんと静まり返っていた。
 子供の服をきかえさせ、台所におりて、ゴクゴク水を飲み、しばらく敷居に腰をおろしていた。
ひるじたくのコンロの火をおこしかけらがら、気づくと、子供はどこかに遊びにでかけて
 もう自分ひとりぽっちになっていた。 
 
W。空襲で焼け野が原にになった都会では子供を持つ男も戦争に駆り出された。1922年生まれの向井さんは敗戦時、兵隊にとられるかどうかのギリギリの年代だったが、もう社会意識を持つには十分な年だった。
敗戦の色濃くなった都会の焼け野が原で出征兵士を見送る町内会の人々の様子をジット頭に焼き付けていたのだろうか。
 
 事実と風景を淡々と時系列で描写することで、当時の庶民の日常の在り様をリアルに浮かび上がらせている
 
出征兵士を送り出す町内会の人々。
もう何度も繰り返しているうちに恒例のセレモニーになっているが、周囲が焼け野が原になっている中ではマスコミや軍部の戦争報道は庶民の間では信憑性をなくしているようだ。
 この辺の庶民の日常の雰囲気は野坂昭如が「アドリブ自叙伝」の中で見事に描き出している。
 
 だからこの出征兵士を見送る行進に、ただただ、大勢に従わざる得ない庶民の無気力感が漂っている。
 
が、出勤途中の人たちが出征兵士を見送る行進に振り向いている様に敗色濃い中でも、戦時下の市民社会の在り様がうかがせる。
ここを描くことで出征兵士を出した家庭と取り巻く町内会。
さらにその向こう側の他人の市民社会の存在を描いて作品の厚みを持たせている。
 
 結局、子を持つ妻だけがホームに入って出征する夫の汽車を見送った。ホームを出てくると町内の人たちは跡形もなくいなくなっていた。
 
 そして、バラックの我が家に帰って、からの一連の描写は圧巻である。
 
子供は無邪気に外に遊びに行って、一人ぽつねんと残された空間に妻、女の究極の孤独を見る。
この詩の出だしから漂う虚無の匂いはここでひとりの女に極められた。
 
 ここから始まるのが真の意味の個人だと想う。
 
しかし敗色濃い昭和の戦時下だからこそ、こういう究極があり得たのじゃないか?
 
 今現在は、こういうルートでの露出の道は完全に閉ざされている。
 
成人の個はマスメディアに見事に根こそぎ、かっさらわれている。
 それがこの間の政治のザワメキ、「根拠なき熱狂」に表現されている。
 
思考上の本物の出現しない時代になった。
 小説や詩が死んだのは環境の所為だけではない。
 
本当の突き詰めた個の存在がない時代だ。溶融している個に思想も小説も詩もいりこむ余地はない。
 そういうレベルでは人間の進歩は停滞している。
 
また、ここに描かれているのはいつの時代にも通じる日本庶民の普遍的姿だと感じる。
そういう姿を映像化する成瀬巳喜男愛好家の自分がいる。
 
W、フィードバックされた結末のシーンから小説は始まる。)
 
(清太は)「酷い下痢が続いて駅の便所を往復し、一度しゃがむと立ち上がるにも足がよろめき、取っ手のもげたドアに体を押し付けるようにして立ち、歩くには片手で壁を頼る、こうなると風船のしぼむようなもので、柱に背をもたせ掛けたまま腰を浮かすこともできなくなり、だが下痢は容赦なく襲い掛かって、見る見るうちにしりの周囲を黄色く染め、慌てた清太はむしょうに恥ずかしくて、逃げ出すにも体は動かず、せめてその色を隠そうと、せめてその上の僅かな砂やほこりを掌でかき寄せ上におおい、だが手の届く範囲は知れたもので、
人は見れば気のふれた浮浪児の、自ら垂れ流した糞とたわむれる姿と思ったかも知れぬ。
 最早飢えはなく、乾きもない、重たげに首を胸に落としこみ、「ワァ、きたない」「死んどんのやろか」
アメリカ軍がもう直ぐ来るいうのに恥やで、駅にこんなんおったら」、耳だけが生きていて、様々な物音を聞き分け、
~ 駅員の乱暴にバケツを放り出した音、(W、清太は)「今何日なんやろ」なんにちなんや、どれくらいたてんやろ、気づくと目の前にコンクリートの床があって、だが自分の座っている時のままの姿でくの字になり横倒しになったとは気づかず、床のかすかなほこりの、清太の弱い呼吸につれてふるえるのをひたとみつめつつ、何日なんやろな、何日やろか、とそれのみ考えつつ、清太は死んだ。
*~昭和20年9月21日の深夜で、おっかなびっくり白みだらけのせいたの着衣を調べた駅員は、腹巻の中に小さなドロップの缶を見つけ出し、蓋を開けようとしたが、錆び付いて動かず「なんやこれ」「ほっとけ、ほっとけ捨てとったらええねん」 ムシロもかけられず、区役所から引き取りに来るまでそのままの清太の死体の横の、幼い浮浪児のうつむいた顔を覗き込んでいた一人が言い、
ドロップの缶もてあましたように振ると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼け跡、既に夏草しげく生えたあたりの暗がりへ放り投げ、落ちた拍子に蓋が取れて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍おどろいて二十三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。
 白い骨は清太の妹、節子、8月22日西宮満池谷、横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。

       W、以降、罹災の時系列にそって物語りはすすむ。
6月5日のB29、350機の編隊による空襲を受け~~病身の母に代わって節子を背負い、父は海軍大尉で巡洋艦に乗り込んだまま音信なく~(W,清太は)まず母を町内会で設置した消防署裏の、コンクリートで固めたそれへ避難させ~
 W、以下B29350機の大空襲のリアルな情景描写が以降、<。>なしの、<、>のみで、一気にほぼ2ページ続く。想えばB29超大型爆撃機、350機編隊による炎上破壊の罹災の現場は息も付かせない阿鼻叫喚だった。

~清太は西に歩いて、石屋川のかわどこの、昭和13年の水害以後に段になったその上段のところに身を隠した、覆いはないが、とにかく穴に潜んでいれば心強く、腰を下ろすと激しい動悸、のどが乾き、
ほとんど省みることもなかった節子を、おぶい紐から解いて抱き下ろそうとすると、それだけで足ががくがく崩れそうになり、だが節子は泣きもせず、ちいなかすりの防空頭巾かぶり白いシャツに頭巾とな時もんぺ赤いネルの足袋片方だけ黒塗りの大事にしていた下駄はいて、手に人形と母の古い大きながま口をシッカリ抱える。
~「お母ちゃんどこいった?」「防空壕にいてるよ、消防署の裏の防空壕は250キロの直撃弾かて大丈夫いうとったもん、心配ないわ」自分に言い聞かせるように云ったが、時折堤防の松並木越しに見透かす阪神川の一体、只真っ赤に揺れ動いていて、
「(Wお母ちゃんは)きっと石屋川二本松のねき(付近)に来てるわ、もうちょっと休んでからいこ」あの焔からは逃げ延びたはずと、考えを変え、「体なんともないか節子」「下駄一つあらんようになった」「兄ちゃん買うたるよ、もっとええのん」「うちもお金持っているねん」がま口みせ「これあけて」頑丈な口金外すと1銭5銭玉三つ四つあって、他に鹿の子のオジャミ、赤黄青のおはじき~
「お家焼けてしもたん?」「そうらしいわ」「どないするのん?」「お父ちゃん仇とってくれるて」見当違いの答えだったが清太にもこの先どうなるかわからず、ようやく爆音遠ざかりやがて5分ほど夕立のような雨が降って、その黒いしみを見ると、「ああこれが空襲の後で降るというやつか」恐怖感ようやく薄らぎ、立ち上がって浮いを眺めると、~
「よっしゃおんぶし」節子を堤防に座らせ、清太が背を向けるとのしかかってきて、逃げるときはまるで覚えのなかったのにずしりと重く、草の根を頼りに堤防をはいづり廻る。
~節子の背中にひしひしとしがみつくのがわかったから、「えらいきれいさっぱりしてしもたなあ、みてみい、アレが公会堂や、兄ちゃんと雑炊いたべたやろ」話かけても返事がない。

二本松に~たどりついたものの、母の姿なく、みな川床をのぞきこんでいるからみると、うつむいたたり大の字になったりして窒息の死体が五つ水のかれた砂の上にいて、清太は既にソレが母でないかと確かめる気持ちがある。
~いったん壕が火に取り囲まれたら、多分そこが母の終焉の場所となろう、一散に逃げ出した自分を清太は責めたが、しかしたどりついていてもどうなろうか、「節子と一緒に逃げて頂戴、お母ちゃんは自分一人なんとでもします、あんたら二人無事にいきてもらわな、お父ちゃんに申し訳ない、わかったね。」冗談のようにいっていた。

~「清太さん、お母さんにあいはった?」向かいの家の嫁ぎ遅れた娘に声かけられ~行列のしりに並んだところで「はよいったげな、怪我しはったのよ」すいませんけど節子を頼むと云うより先に娘は「うちみたげる、怖かったねえ節ちゃん、泣かんかった?」日ごろ親しくもしてないのに、いやに優しいのは母の状態のよほど悪いと知ってのことか、~~町内会長の大林さんが「清太くん探していたんや元気やった?」膿盆のガーゼのなかからリング切られたヒスイの指輪を取り出し「これお母さんのや」確かに見覚えある。

~一階のはずれの工作室、ココに重傷者が収容されていて、その皿に危篤に近いものは奥の教師の部屋に寝かされ、母は上半身を包帯でくるみ、両手はバットの如く、顔もぐるぐる巻いて眼と鼻、口の部分だけ黒い穴があけられ鼻の先はテンプラの衣そっくり、僅かに見覚えのあるモンペのいたるところ焼け焦げていて、その下のラクダ色のパッチがのぞく、~
「お母ちゃん」低く呼んでみたが実感湧かず、とにかく節子のこのことが気になって校庭へ出ると、鉄棒のある砂場に娘といて、「わかった?」「はあ」「お気の毒やねえ、何かできることがあったらいうて頂戴、そやカンパンもろた?」首を振ると取ってきて上げると去り~。
節子は砂の中から拾い出したアイスクリームをしゃくる道具を玩具にしている。
「この指輪、財布へ直しとき、なくしたらあかんで」がま口におさめ「お母ちゃんちょっとキイキわるいねん、じきようなるよってな」「どこにおるのん?」「病院や西宮のな。そやから今日は学校へ兄ちゃんと泊まって、明日西宮のおばちゃん知ってるやろ、池のそばの、あしこへ行こ」~
両親揃っている家族に立ち混じれば節子がかわいそうで、というより清太自身泣き出すかも知れず「食べるか」「お母ちゃんとこいきたい」「あすならな、もう遅いやろ」~

~二日目~(母を背負ってはいけず)~六甲道駅近くの人力車を頼み~焼け跡道を走ってつくと危篤で、うごかすことなどかなわず、車夫は手を振って車代を断り帰り、その夕刻、母は火傷による衰弱のため息を引き取った。
 「包帯とって顔みせてもらえませんか」清太の頼みに、白衣を脱ぐと軍医の服装の医者は「見ないほうがいいよ、そのほうがいい」びくとも動かぬ包帯だらけの母の、その包帯に血がにじみ、おびただしいハエが群がって~
~警官が一言づつ遺族に尋ねては何ごとか記録し「六甲の火葬場の庭に穴を掘って焼くよりしゃあない、今日からトラックでは運ばな、なんせこの陽気ではなあ」
ある少年は既にしわくちゃのタブロイド版の号外片手に、「すごいなあ350機来襲の六割撃墜やてえ」感嘆していい、清太もまた350機の六割りは二百十機かと、母の死とは縁遠い計算をする。

夜ふけて西宮の家(節子を預けた遠い親戚)にたどり着き「お母ちゃんまだキイキ痛いのん?」「ウン空襲で怪我しはってん」「指輪もうせえへんのかな、節子にくれはったんやろか」骨箱は、違い棚の上の戸袋に隠しだが、ひょっとあの白い骨に指輪をはめたさまを思い浮かべ慌てて打ち消し「それ大事なんやからしもとき」敷布団の上にちょこんと座り、オハジキと指輪で遊ぶ節子にいう。

清太と節子も、海軍大尉の家族で空襲により母を失った気の毒な子供と、コレは恩着せがましい未亡人の吹聴したため同情を引いた。
 夜に入ると、すぐそばの貯水池の食用蛙がブオンブオンと鳴き、そこから流れ出る豊かな流れの、両側に生い茂る草の、葉末に一つずつ平家蛍が点滅し、手を差し伸べればそのまま指の中に光が移り、「ほら、つかまえてみ」節子の掌に与えると、節子は力いっぱい握りから、たちまち潰れて、掌に鼻をさすような生臭い臭いが残る、ぬめるような6月の闇で、西宮とはいっても山際、空襲はまだ他人事のようだった。

~~直ぐ雑炊に戻り不平を漏らすと「清太さんもう大きいねんから、助け合いということ考えてくれな。あんたはお米ちっとも出さんと、それでご飯食べたいいうても、そらいけませんよ、通りません」通るも通らなんも母の着物で物々交換して、娘の弁当下宿人の握り飯うれしそうにつくっときながら、こっちには昼飯に脱脂大豆の入った飯で、一端蘇った米の味に節子は食べたがらず、「そんなことをいうたって、あれはうちのお米やのに」「なんや、そんなら小母さんが、ずるいことをしているというの、えらいことをいうねえ、みなし児二人預かったってそういわれたらせわないわ、よろし、ご飯別々にしましょ、それやったら文句ないでしょ、それでな清太さん、あんたとこ東京にも親戚いてるんでしょ、お母さんの実家でなんやらいう人おってやないの、手紙だしたらどう?」さすが直ぐにでろとはいわなかったが、云いたい放題いいはなち、それも無理はない、ずるずるべったりいついたけれど、元々父の従弟の嫁の実家なので、さらに近い縁戚は神戸にいたが、全て焼け出されいて連絡取れぬだった。
~続く~            
(W、疎開先の小母さん)「よろし、ご飯別々にしましょ。それやったら文句ないでしょ。それで清太さん、あんたとこ東京に親戚いているんでしょ、おかあさんの実家で~」


 朝夕七輪借りて飯を炊き、お菜はタコ草の茎のおひたし、池のタニシの佃煮やスルメを戻して煮たり、「ええよ、そんなにきちんとすわらんでも」節子は貧しい、お膳もなく畳にじかにおいた茶碗に向かうと、以前のしつけのまま正座し、うっかり食後、清太がねころぶと「牛になるよ」注意した。
 台所を別にすれば、気はらくだが万事いきとどかず、何処でうつったのか、黄楊の櫛ですけば節子の髪から虱(しらみ)やその卵がころげおち、うっかり干すと「敵機に見つかりまっせ」未亡人に嫌がらせを言われる洗濯も、必死に心がけているのだが、なにやら垢じみてきて、何よりも風呂を絶たれ、戦争は三日に一度、燃料持参でようやく入れてくれ、これもおっくうになり勝ち、昼間は夙川駅前の古本屋で母のとっていた婦人雑誌を買って、寝転んで読み、警報が鳴ると、ソレが大編隊とラジオが報ずれば、とてもなかなか壕に入る気はせず、節子ひっちょて、池の先にある深い壕へ逃げ込み、これがまた未亡人はじめ、戦災孤児に飽きた近隣の悪評を買う、清太の年なら市民防火活動の中心たるべしというのだが、一度あの落下音と火足の速さを肌で知れば、一機二機はともかく、編隊に立ち向かう気は毛頭ない。


 7月6日、梅雨の名のこりの雨の中をB29が明石を襲い、清太と節子、横穴の中で、雨脚の池に描く波紋をボンヤリ眺め、節子は常に話さぬ人形抱いて、「おうちに帰りたいわあ、小母さんとこもういやや」およそ不平をコレまで言わなかったのに、なきべそかいていい、「お家焼けてしもうたもん、あれへん」しかし、未亡人の家にこれ以上長くいられないだろう、夜、節子が夢に震えて泣き声立てると、待ち構えていたように未亡人やってきて、「こいさんも兄さんもお国のために働いてるんでっさかい、せめてあんた泣かせんようにしたらどないやの、うるそうて寝られへん」ピシャリと襖を閉め、その剣幕にますます泣きじゃくる節子を連れ、夜道に出ると相変わらずの蛍で、いっそ節子さえおらなんだら、一瞬かんがえるが、直ぐに背中で寝付くその姿、気のせいか目方もぐんと軽くなり、額や腕、蚊に食われ放題、引っかけば膿む。
 少し前に未亡人が外出したから、娘の古いオルガンをあけ~その一番初めに習った鯉のぼりの唄を、おぼつかなくひき、節子とうたっていると、「よしなさい、この戦時中になんですか、怒られるのは小母さんですよ、非常識な」いつの間に帰ったのか怒鳴りたて、「ほんまにえらい疫病神が舞い込んできたもんや、空襲いうたって役に立たんし、そんなに命惜しいねんやったら、横穴に済んどったらええのに」


「あんなあ、ここお家にしようか。この横穴やったら誰もけえへんし、節子と二人だけで好きにできるよ」
~警報解除になると、何も云わず荷物をまとめ、「えらいながいことお邪魔しました、ぼく等よそに移ります」「よそて、何処に行くの」「まだはっきりしませんけど」「はあ、まあ気ィつけてな、節ちゃんさいなら」とってつけたような笑顔うかべ、さっさと奥へひっこむ。
~改めて見れば只の洞穴、ココへ住むかと思うと気がめいったが、~何より節子がはしゃぎまわり、「ここがお台所、ここが玄関」ふっと困ったように「はばかりはどこにするのん?」「ええやんどこでも、兄ちゃんついてったるさかい」藁に上にちゅこんとすわって、父が「このこは、きっとろうたけたシャンになるぞ」そのろうたけたの意味がわからず尋ねると、「そうだなあ、品がいいってことかな」確かに品よく、さらにあわれだった。


 散歩しようかと、寝苦しいまま表に出て二人連れ小便して、その上を赤と青の標識点滅させた日本機が西に向かう「あれ特攻やで」ふ~んと意味わからぬながら節子うなずき、「蛍みたいやね」「そうやなあ」そして、そや、蛍捕まえて蚊帳の中に入れたら、少し明るくなるのとちゃうか~手当たり次第につかまえて、蚊帳の中に放つと、五つ六つゆらゆらと光が走り、蚊帳にとまって息づき、よしと、おおよそ百余り、とうていお互いに顔は見えないが、心が落ち着き、その緩やかな動きを追ううち、夢に引き込また、~
 朝になると、蛍の半分は死んで落ち、「節子はその死骸を壕の入り口に埋めた、「何しとんねん」「蛍のお墓つくてんねん」うつむいたまま、お母ちゃんお墓に中にいてるねんて」はじめて清太、涙がにじみ、「いつかお墓にいこな、節子覚えてへんか、布引の近くの春日野墓地いったことあるやろ、あしこにいてはるわ、お母ちゃん」
楠の下の、小さい墓で、そや、このお骨もあすこに入れなお母ちゃん浮かばれへん。


 母の着物を農家で米に買え、~枯れ木を拾って米を炊き、塩気が足りぬと海水を汲み、道すがらB51に狙われたりしたが、平穏な日々、夜は蛍に見守られ、壕のあけくれになれたが、清太両手の指の間に湿疹ができ、節子も次第に衰えた。夜を選んで貯水池に入り、タニシ拾いつつ体を洗ってやる節子の貝殻骨、助骨、日毎に浮き出し「ようけ食べなあかんで」食用蛙とれんもんか鳴き騒ぐあたりを見据えたが、すべはなく、食べなあかんといっても、母の着物ははや底をつき、タマゴ1個3円、油一升100円、牛肉100匁20円、米1升25円の闇は、ルートつかねば高嶺の花。
 
 都会が近いから農家もずるく、金では米を売らず、たちまち大豆入り雑炊に逆戻りして、
7月末になると節子疥癬(かいせん)にかかり、蚤虱はいかに取りつくしたつもりでも翌朝又ビッシリ縫い目にはびこり、~やがて体がだるいのか海へ行く時も、「待ってるわ」人形抱いて寝転び、清太は外に出ると、必ず家庭菜園の小指ほどのキュウリ、青いトマトを盗みもいで、節子に食べさせ、あるときは、五つ六つの男の子、まるで宝物のようなリンゴをかじっているから、コレをかっぱらって駆け戻り、「節子、りんごやでさ食べ」さすがの節子、目をかがやかせてかぶりついたが、すぐにこれはちがうといい、清太が歯を当ててみると、皮をむいた生の甘藷(サツマイモ)で、なまじぬか喜びさせられたからか、節子涙を浮かべ「芋かてええやないか、はよ食べ、食べんねんやったら兄ちゃんもらうで」つよい口調でいったが、清太も鼻声になる。


 7月31日の夜、野荒しのうちに警報がなり、かまわず芋を掘り続けると、直ぐそばの露天の壕があって、退避していた農夫に発見され、さんざなぐりつけられ、解除と共に横穴へ引っ立てられて、煮物にするつもりで残しておいた芋の葉が懐中電灯に照らされて、動かぬ証拠、「すいません堪忍してください」震える節子の前で、手をついて農夫にわびたが許されず「妹病気なんです、ぼくおらな、どないもんまりません」「なにぬかす、戦時下の野荒しは重罪やねんど」足払いかけて倒され、背筋を掴まれて「さっさと歩かんかい、ブタ箱入りじゃ」だが交番のお巡りはのんびりと「今夜の空襲福井らしいなあ」いきり立つ農夫をなだめ説教したが直ぐ許して、表に出るとそうやってついてきたのか節子がいた。
 壕に戻って泣き続ける清太を節子は背中をさするながら、「どこ痛いのん、いかんねえ、お医者さん呼んで注射してもらわな」母の口調で言う。


 8月に入ると連日艦載機がらいしゅうし、空襲警報を待って、盗みにでかけた、~~
 
 だがこの年、稲作不良の気配に、いち早く百姓は売り惜しみをはじめ、さすが近所はばかられたから、西宮北口、仁川(にかわ)まで探し求めて、せいぜいトマト枝豆さやいんげん
節子は下痢が止まらず、右半身透き通るよう色白で、左は疥癬にただれ切り、海水で洗えば、しみて泣くだけ。
夙川駅前の医者を訪れても「滋養をつけることですな」申し訳に聴診器胸にあて、薬もよこさず~~。
 抱きかかえて、歩くたびに首がぐらぐら動き、どこに行くにも離さぬ人形すら、もう抱く力なく、いや人形の真っ黒に汚れたその手足の方が、節子よりふくよかで、夙川の堤防に、清太座り込み、そのそばで、リヤカーに氷を積んだ男シャッシャッと氷をのこぎりでひき、その削りカス拾って、節子の唇に含ませる。
「腹減ったなあ」「うん」「なに食べたい?」「てんぷらにな、おつくりにな、ところ天」~
「もうないか」食べたいもんいえ、味を思い出すだけでもマシやんか、道頓堀へ芝居見に行って帰りに食べた丸方の魚すき~考えるうち、そや節子に滋養つけさせんならん、たまらなく苛立ち、再び抱き上げて壕に戻る。


 横になって人形を抱き、うとうと寝入る節子をながめ、指切って血ィのましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか、「節子、髪うるさいやろ」髪の毛だけは生命に満ちてのびしげり、起して三つ編みに編むと、「掻き分ける指に虱がふれ、「兄ちゃん、おおきに」髪をまとめると、改めて眼窩(がんか)のくぼみが目立つ。
*節子はなにを思ったのか、手近の石ころ二つ拾い、「兄ちゃん、どうぞ」「なんや」「御飯や、おちゃもほしいい?」急に元気よく「それからオカラたいたんもあげましょうね」ままごとのように、土くれ石くれをならべ、「どうど、お上がり、食べへんのん?」


8月22日昼貯水池で泳いで壕に戻ると、節子は死んでいた
骨と皮にやせ衰え、そのまえニ、三日は声も立てず、大きなアリが顔に這い登っても這い落とすこともできず、ただ夜の、蛍の光を眼で追うらしく、「上いった下いったアッとまった」低くつぶやき、清太は一週間前、敗戦と決まったとき、~~「お父ちゃん死んだ、お父ちゃんも死んだ」と母の死よりもはるかに実感があり、いよいよ節子と二人、生きき続けていかんならん心の張りが全く失せて、もうどうでもええよという気持ち。


 夜になると嵐、清太は壕の暗闇にうずくまり、節子の亡骸膝に乗せ、うとうとねむっても、すぐ眼覚めて、その髪の毛をなで続け、既に冷え切った額に自分の額おしつけ、涙は出ぬ。ゴゥと吠え、木の葉激しく揺り動かし、荒れ狂う嵐の中に、ふと節子の泣き声が聞こえるように思った。


 翌日、台風過ぎてにわかに秋の色深めた空の、一点曇りなく陽ざしを浴び、清太は節子を抱いて山に登る、
市役所に頼むと、火葬場は満員で、一週間前のがまだ始末できんといわれ木炭一表の特配だけうけ、
「子供さんやったら、お寺の角など借りて焼かせてもらい、裸にしてな、大豆の殻で火ィつけるとうまいこともえるわ」なれているらしく、配給所の男おしえてくれた。
*満池谷見下ろす丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて、人形、がま口、下着一切をまわりにつめ、言われた通り大豆の殻を敷き枯れ木をならべ、木炭ぶちまけた上に行李をのせ、硫黄の付け木に火をうつしほうりこむと、大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上がり煙たゆとうとみるみるうち一筋いきおいよく空に向かい、清太、便意をもよおして、その焔ながめつつしゃがみこむ、清太にも慢性の下痢が襲い掛かっていた。
*暮れるに従って、風の度に低くうなりながら木炭は赤い色を揺らめかせ、夕空には星、そして見下せば、二日前から灯火管制の解けた谷あいに家並み、ちらほら懐かしい明かりが見えて、四年前、父の従弟の結婚について、候補者の身元調べるため母とこのあたりを歩き、遠くあの未亡人の家を眺めた記憶と、いささかも変わるところはない。


*夜更けに火が燃え尽き、骨を疲労にも暗がりで見当付かず、そのまま穴の傍らに横たわり、周囲はおびただしい蛍の群れ、だが清太は手にとることもできず、これやったら節子さびしないやろ、蛍がついているもんなあ、上がったり下がったり、ついと横に走ったり、もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へ行き。
暁に目覚め、白い骨、それはローセキのかけらの如く細く砕けていたが、集めて山を降り、未亡人の家の裏の露天の防空壕の中に、多分、清太の忘れたのを捨てたのだろう、水につかって母の長じゅばん腰紐が丸まっていたから、拾い上げて、ひっかついで、そのまま壕にはもどらなかった。


昭和20年9月22日午後、三宮駅構内で野垂れ死にした清太は、他に二三十あった浮浪児のしたいと共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へ納められた
                                            【終了】


 
         宮本百合子1932年特高取調室の実録描写「刻々」引用
  <特高取調室の情景>
 「いいですか。一箇所じゃないですよ。こっちにもある。~」
 
「その文章そのもはそうかもしれないが、前後との関係でいけないんだ。~大体、戦争の記事を扱うのがいけない」
 
「ソレは妙だ」と自分は云った。
 
「キングを御覧なさい。婦人倶楽部を御覧なさい。子役まで使って戦争の記事だらけです。」
 
「穴、冗談をいちゃいけませんよ」
 
不自然にカラカラと清水は笑った。
 
「扱いようの問題じゃないか。つまりこういう風に扱うのはいけないというわけなんです。」
 
「だが、戦争したって、不景気は直らず、却って悪いというのはお互い知り抜いている事実ですよ。
 
従って戦争が自分たちのためにされているモノでないことが解るようになるのも実際の成り行きで、、そう思うな、ということはできない。
 
良い悪いより、先決問題は現実がどうであるかというところにあるかというところにあるわけでしょう」

 
  <酔って死んじゃあ、男じゃねぇ!> 国定忠治
刑場に引き出される前の役人とのやり取りの言葉。

「忠治よ!おまえも年貢の納め時だなぁ。手も足も利かなくんなっちまってざまぁねぇやなぁな」

 「うるせぇ、こちとら、伊達や酔狂で、博徒をやってんだよ!小役人が偉そうな口を利くんじゃねぇやい」

「はは、普通は伊達や酔狂ではやらねぇというんじゃねぇのか?
全く学がない奴はやだねぇ」

 「だから、おめぇら、小役人は出世しねぇのよ。 まぁおいらの気持ちは大樹さま程じゃねぇとわかんねぇかもな

「盗人猛々しいとはお前の事だ。よりによって公家様の名をかたるとはいい度胸だ。
な~んて、言っても、お前も今日限りだせいぜいほざくんだな。」

 「けっ」

「ほら最期の酒だ。もう一杯いくか。」

 「じょうだんじゃねぇや。 こちとら男を看板にいきてきたんだ。 磔が怖くてよ、酒を何杯もかっくらって
  酔っちまったらどうすんだい。
  酔って死んじゃ、男じゃねぇ!、てっよ」