今回「暗夜行路」はパスした。
高校3年生の春に全編を読んだ記憶がある。その前に、ダイジェスト版で読んだ。鳥取、大山の自然に時任謙作が心境を託していく所が印象に残ったように記憶している。大山山頂から見下ろした眼下の大自然の雄大なパノラマの描写は、読者が謙作の心境になって、その場にいるような錯覚を起させるほど、大山独特の大自然をリアルに描いている。大山に一度行ってみたい、と思ったほどだった。あの描写を読んで、大山を訪れた人も結構、いたのではないか。文芸作品による最高の観光案内のようなものだ。
こういうことらしい。暗夜行路 - Wikipedia
<有名なシーン>
ナルホド、数十年前に訪れた記憶を元に、時任謙作の精神の昇華と渾然一体として、志賀直哉の心の中の大山を創作したのだ。私が感動した大山の大自然は、長編「暗夜行路」の重要なディテールとして、数十年前に訪れただけの大山イメージを創作で膨らませたモノだったのだ。
大山 (鳥取県) - Wikipedia W。制限時間の都合上、ココで寄り道できないけれど、~。
1)大山 (鳥取県) - Wikipedia の画像集に志賀直哉がイメージを膨らませて描いた大山の大自然はなかった。
平地から大山を撮った写真ばかりだが、志賀の圧巻の描写は、眼下に広がる大自然である。
大山付近の地図をネットで開くと、標高1,729m(火山W、休火山)付近地理の特徴は、小さな富士山が、海岸線近くに噴火によってできたようなもので、眼下に眺望が開けていることである。天候に恵まれると、広がった裾野の向こうに平地と海岸線、日本海まで遠く見渡せるはずだ。時任謙作でなくても雄大な大自然のパノラマは、人に何かを感じさせ、想わせる。
ただし、そこまでパノラマが開ける日に遭遇できない。これくらいの標高の山になると天候は激しく移り変わる。志賀直哉は自分の大山のイメージを大切にしたかった。大山付近の地理天候を考慮した賢明な選択である。
2)夏山登山コース(所要時間:約4時間35分)
W。上り下り 夏山登山は初心者向けの絶好のコースである。夏に行った方が良い。この山は平坦地に近いところに火山としてそびえている、とこのコースガイドだけでもわかる。
夏山登山道入口--(40分)--三合目--(40分)--行者別れ--(15分)--六合目--(30分)--八合目--(30分)--頂上
>W。志賀直哉は大山を再び訪れる現地取材をしなかった。ここにも「暗夜行路」という作品の特徴がある。
引用。
「志賀直哉唯一の長編小説で、晩年の穏やかな心境小説の頂点に位置づけられる作品である。4部構成。」
引用。
W。1937年。1883年- 1971年(W。88歳死去) 志賀直哉54歳のとき、「暗夜行路」完結。心境小説であることは確かだが、晩年とは云えない。志賀直哉→ 「小説の神様」~神話がもたらす、一種の錯覚である。
「雑誌「改造」に1921年(大正10年)(直哉38歳)1月号から8月号まで前編」を発表したときに、志賀直哉は既に文壇に確固たる地位を得て、芥川龍之介、谷崎潤一郎、菊池覚と並ぶ流行作家でもあった。千葉の我孫子在住。」
「暗夜行路」執筆が1922年~1937年の15年間もの長きにわたったのは、この長編に行き詰って書けなくなったからである。
その期間に軽いエッセイ、や身辺雑記的短編を書くことでスランプを脱出し、また「暗夜行路」にとりかかることができた。
>「暗夜行路」完結後の志賀の作品は、心境、身辺、趣味を雑記した短編ばかりである。
もう「暗夜行路」のような「苦悩」はやめた、と云うか必要としなかったのである。
理由は簡単。前回の記事で書いた通り、あくまで作家世界とその影響が及ぶ範囲に自己限定した森羅万象を判断できる自己基準を「暗夜行路」を完結することよって確立したからだ。志賀は小説執筆の目的を自己世界の完成に求め、ソレは長編「暗夜行路」簡潔で達成できたのだ。
その確固たる立場の最大の基盤は世間の評価であった。短く言えば、出版社と読者層の小説の神様的評価であり、コレがある限り、
くわえて、全集の監修など文壇的地位のもたらす自動金銭引き下ろし装置が機能していく。
********************************
昔読んだ「暗夜行路」の大山のシーン以外まるっきり覚えていない。
日本には何々の神様はたくさんいるが、外国特に欧米ではこの呼称はあり得ない、だろう。
志賀直哉に対する最終的評価は、純日本的小説の名人である。
またしても、
三代目古今亭志ん朝 - 宋珉の滝 https://www.youtube.com/watch?v=56s-iVPhLYo
純日本型小説の<芸の術>の名人。純日本型小説作法の文章技術を極めた人であるのは、読めばわかるが、その世界になにかたいへんな思想があるわけでは、絶対にない。小説の<芸の術>という意味では司馬遼太郎の歴史小説の<芸の術>に似たところがあるが、名人度合いは、志賀直哉の方がランク上であるような気がする。小説家を志す者の中で志賀直哉の文章の運びを書きうつすものが多くいたそうだ。
**
「W。暗夜行路」は書き出しからして読者にこれから起こる何かを暗示させる。
「 主人公の追憶
私が自分の祖父のあることを知ったのは、わたしの母が産後の病気で死に、その後二月程たって、不意に祖父が私の前に表れてきた、その時であった。
ある夕方、私が一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人が其処(そこ)へきて立った。目のくぼんだ、猫背のなんとなくみすぼらしい老人だった。私は何ということなくそれに反感をもった。」
W。それでこの小説のあらすじはこういうことらしい。
引用 W。あらすじに、相当、無理がある。志賀直哉の完成された筆致で「物語」が進行しなければ、読めた程のものではなかろう。今更「暗夜行路」は付き合いきれない、ごめんこうむる。
「主人公時任謙作(ときとうけんさく)は、放蕩の毎日を送る小説家。あるとき尾道に旅に出た彼は、祖父の妾お栄と結婚したいと望むようになる。そんな折、実は謙作が祖父と母の不義の子であったことを知り苦しむ。
**
如是我聞 太宰治 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.htmlの人物攻撃的罵詈雑言、ひがみ、もわからないではない。
「『暗夜行路』
大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。
何処がうまいのだろう。ただ 自惚 (うぬぼ ) れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。
しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、自身は風景よろしきところに住み、戦災に遭ったという話も聞かぬから、手織りのいい 紬 (つむぎ ) なども着ているだろう、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の曰く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が 却 (かえ ) ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、 襖 (ふすま ) のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。 狸 (たぬき ) か狐のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。」
大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。
何処がうまいのだろう。ただ 自惚 (うぬぼ ) れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。
しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、自身は風景よろしきところに住み、戦災に遭ったという話も聞かぬから、手織りのいい 紬 (つむぎ ) なども着ているだろう、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の曰く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が 却 (かえ ) ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、 襖 (ふすま ) のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。 狸 (たぬき ) か狐のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。」
W。最後に、志賀直哉の父と子の対立、思想問題が名人芸の筆致で簡潔にまとめられた短編を挙げる。
小説家としての名人芸に感心する。この短編「山形」を「暗夜行路」の直後に載せているのは、多分、指摘した二つの意味からだろう。もっともその他の短編で、小説らしい作法を踏んでいるのは、奈良在住時代に付き合いのあった抽象絵画の売れない作家を交友関係を中心に描き出した短編だけである。他の先品は全部、身辺雑記エッセー風短編。ただし、話に何とも言えない志賀独特のユーモアと落ちがある。太宰のような見方も可能だが、それなりに絶品である。道楽者、頑固なところのあるもともと、個性的キャラクターのひとで、身内仲間内に入れば気難しい人ではなく、面白みのある人である。
*********
*********
「山形」 引用
「その夏、およそつまらぬことから、私は父を衝突した。一週間ほどして、父は宮城県の方に新しく勝った小さな銅山を一緒に見に行かないぬかと誘った。
~~~
翌朝仙台で降り、その日はそこで一日暮らした。父は鉱山監督署に出かけた。
>わたしは宿で湯に入ろうとした。先に女が二人いたが、構わず入ると、その一その連れらしい女が5,6人入ってきた。大きな風呂場ではあったが30から50位の女なたちで其処がいっぱいになった。だぶだぶした大きな肉体が大声で笑い合った。私は圧迫を感じ、夢の一場面の様に思った。←W。志賀直哉にはこういうところがある。 フーテンの寅さん説。
~~
>『商売何だっす?』並んで腰をかけていた50ばかりの男が話しかけた。
『なにも商売はしていない』
『∪前くらいのとして商売のない人間はあるめっさ。商売もなしに何で旅謎している』
男は私が隠しているとでも思ったらしく、一寸いやな顔をした。
『未だ学校にいるんだ』
『ふうん』男は意外なようにわたしに顔を見ていたが、今度はうちの商売を聞いた。
『そうか、やはり機関車にでも乗っているのか?』
『機関車の方とは違う』
~~
父は私と一緒に東京を出て、できるだけ離れてきた。しかしその晩は和らいだ気持ちで話し合った。
『足尾は最少はお祖父さんが目をつけ、古河(W。後に財閥。創業者は京都岡崎の破産し庄屋の行き場をなくした倅、生糸商売の小野組に拾われたのを、きっかけにしぶとく台頭。つるべえの師匠の鬼瓦のような顔をもっとあざとくしたような異相)したと一緒に始めなすった山だ。そのころS家(旧藩主)~W、相馬藩である。福島原発事故現場の北側。相馬事件はその藩主を祖父たちが精神病の疑いで幽閉し社会問題化~はそんなことでもしなければ、とても立ちゆかない財政状態だったのだ』
~~~
~~
>在る流れを渡るとき、屈強な若者が穂が長くに握りの短いヤスを逆手に持ち、一間ばかりの水の落ちつ滝つぼに飛び込んでマスを捕っいた。見る間に二尾突いたが、
>水中に潜って魚をおいまわすやり方が、いかにも原始的で勇敢な感じ出した。私は水滸伝の張順を思い出した。
~~
「おまえは帰りに山形によったらどうだ」
山形とは私が子供のころから一緒に育った4つ年上の叔父のことである。叔父は日露戦争で片目を失い、今は退役大尉で、Mという山形の盲人の禅僧についている。
~~
父は大体の旅費を渡し
『使った者はきちんと書いて、残りは返せ』といった。
父はきっとこれを云う。私もカネには几帳面だったので、コレを云われると侮辱されたように感じた。
~~
『来たか疲れたろう』こんな風にあたかも予期していたようなことを行ったので、始めて私は今までのすべてが予定の行動だったと云うことがハッキリきがついた。
~~
最初はそんな事を話していたがMさんはだんだん話を目的に近づけようとした。Mさんは私がここ4,5年日曜にごとに通っているキリスト教のUさんのうわさなどを始めた。
『Uさんは社会主義についてどう思っているのかね』
~
『あなたはどう思う』とMさんは追求した。
~
こういう私の考えは実感で、社会主義と何の関係もなかったが、父はそれをそう理解していたのだ。
~
『とにかく』とMさんはいった。『学生の間は学生らしく、学校の方だけの勉強して~~』
『それに何と言っても今は肩書の世の中だから、大学は何をおいても卒業することだよ』
私は不愉快になった。こんなことを聞くために山形まで連れ出されたのかと思うと腹が立ってきた。
間もなく私たちはMさんの家をでた。叔父は歩きながら
『おまえはMさんの話をどう思った』といった。私がすぐ
『非常にくだらないと思った』と答えた。
叔父は返事せず、不快な表情をした。
~~
私はざぶんとんをしきいに置き、片足を縁に出し背を生じの縁に持たせていた。
『お父さんとの衝突もいいがーーー」叔父は云いだした。
『少なくとも、事、皇室に関するようなことを云うのはよせ』
『それはコッチも云いたくはないが、考え方の相違がそんなことで一番簡単にハッキリとするから、つい出るんだ』
『ともかくそういうことは口にするなよ』
『思っていることは口に出るからね』
『おまえはそんなことを始終思っているのか』叔父は五兆を厳しくした。
『常に思っていることじゃあない。そんなことを自分の仕事として決して商店にも何にもおいてはいない。しかしお父さんの方で、そういうことの拘泥して、そういう点で、こっちを批判してくれば、こっちも正直な事を云うより仕方がないじゃないか』
『貴様はそうしてもそれを云わなければいられないのか』
『話がそこまでいけば、右のことを左というわけにはいかない』
私が言葉を云いきらないうちに叔父はどなった。
『馬鹿』
同時にそこの厚いコップが飛んだ。私は僅かに首を曲げ、ソレを避けた。コップは頬をかすめ前の欄干にあたり、さらに庭へ落ち、飛び石の上で激しい音とともに砕けた。
私たちは興奮して黙ってしまった。
私の目には自然に涙がにじみ出た。わたしは顔を外に向け
『考えの上のことは仕方がないじゃ、ないか』
と云った。
叔父は返事をしなかった。そして二人は声をあげた泣きだした。
~~~~
>わたしは煮売り屋の大きな皿に水にう住む源五郎という虫がに付けになって並んでいるのを覚えている。
叔父は立ち止まっている私を待っていた。そして
『おまえはもう今晩帰れ』といった。
私頷いた。私の気持ちは不思議なほど和らいでいた。私は叔父に何の不愉快も感じていなかった。私は私自身の考えをいわゆる危険思想とは考えなかったが、このままにもし一方に押し進んだ場合、自分はだれよりもまずこの叔父にきっと殺されるだろうとおもった。私はそれに歩温度恐怖を感じなかった。恐怖を感じると云うことは許されなかった。しかし孤独なさびしい気持ちになった。
叔父の下宿に帰り、支度して一人停車場に向かった。