反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第1回。新潮現代文学18 佐多稲子 「時に佇(た)つ」その4後篇の書き写しと問題点を考える。

新潮現代文学18 佐多稲子 - Wikipedia(1904年~1998年) 「体の中を風が吹く」 「時に佇(た)つ」
W。佇(た)つは佇む(たたずむ)、とい境地で使う言葉。老年の境地に至った作者(71歳)にとって、過去の強烈な体験とその記憶は、思わず時空を超えて突然フラッシュバックしてしてしまう。ソレが老いの心理現象なのだ。
脳と神経が退化してリアル感覚が鈍っているから、その分、追憶が簡単に蘇ってくる!動物的人間の自己完結性が高じているのだ。残念ながら、子供に還っているのだ。

引用、解説 奥野健男 - Wikipedia
1947年昭和22年)東京工業大学附属工業専門部化学工業科卒、1953年(昭和28年)東工大化学専攻(旧制)卒。遠山啓に科学全般を、岩倉義男に高分子化学を学ぶ。在学中の1952年(昭和27年)に『大岡山文学』に『太宰治論』を発表し、注目される。卒業後、東芝に入社し、印刷回路積層板の研究からトランジスタの開発に取り組む。1959年(昭和34年)に大河内記念技術賞を、1963年(昭和38年)に科学技術庁長官奨励賞、1964年(昭和39年)に特許庁長官賞受賞を受賞する。←W。技術屋さんである。研究チームとし授与されたもので個人に授けられたものではないと、解釈する。という事であれば前記の解説は誤解を生む。
 
1954年(昭和29年)に服部達らと『現代評論』を、1958年(昭和33年)に吉本隆明らと『現代批評』を創刊し批評活動を行なう。1960年代前半に、「政治と文学」というプロレタリア文学以来の観念を厳しく批判し、民主主義文学を否定したことで、文学論争の主役となった。」
 
奥野 解説引用 P405
「昔の時点に戻って思い出しながら、自分の体験を描くのはない。
過去の事例や状況を説明するのではない。作者の中に今も生きているいて、彼女を突く動かして止まぬ歳月が、作品の中に噴出してくるのだ。
作者は絶えず未来に向かって現在を精いっぱい生きている。←W。戦後社会の肯定の姿勢が佐多稲子の作品基調であり、その対極に自分のかつて属した共産党左翼が鮮烈なメモリアルとなって浮かんでくる。ソレは世界規模での戦争と革命の原理原風景でありえたがゆえに時代を超えて普遍性を帯びて「美しくインストロール]
されて、きっかけさえあれば、いつでもダウンロードOK状態なのだ。
なぜならば文学的成功者の佐多稲子にとって過去は基本的に貴重な体験として脳裏に残り、ソレを十全に文章表現できることが作家的財産だった。
 
「作者は絶えず未来に向かって現在を精いっぱい生きて」いない。成功した作家として追憶のヒトである。
後に続く美辞麗句は同じことの云い回しにすぎない。
 
>ひとびとに感動を与え名作の誉れも高い1975年に書かれた短編連作の「時に佇(た)つ」は、まさにそうした<歳月の結晶>の極致である。
「時に佇(た)つ」という題名が佇むと云う字を敢えて佇(た)つと読ませることを含めて、その*W判読できない
逆に時間の流れ、歳月を現在に結晶させようとする。
 
「時に佇(た)つ」は12篇の短編からなっている。
その12篇はいずれも、現在の状況に生きる作者内部に、必然性を持って立ち現われた過去の歳月の中の大切なヒトこまである。
過去と現在はおたがいに照応し、共鳴し合っている。
 
W。長々と引用した一つの目的は、佐多稲子がこの短編集で試みた戦前と戦後の今を即時直結した小説作法が、村上春樹 - Wikipediaねじまき鳥クロニクル - Wikipediaで応用され、ソレがまた、百田尚樹 - Wikipediaの特攻隊賛美小説を呼ぶというお粗末で狭苦しい創作世界という事をこの度発見した、次第である。
>この小説手法の創始者佐多稲子で、後に続く村上春樹はそのコンセプトをそのまま使ったのだ。
 
佐多稲子の11の短編は日本的女流文学の名にふさわしい完成度があるが、村上春樹のねじ巻き鳥のクロニクルは佐多の手法をそっくり使った生きた人間の息遣いの感じない作りモノの「物語」である。
 
百田某の場合は、週刊誌記事の延長線上のような内容で、感銘を受ける読者は最初からその気になって読むことのできる愛国エンタメだろう。今の若者は特攻隊への自前の歴史的評価はできない世代である。できないないように仕向けられているから、特攻隊が中東の自爆攻撃と基本構造は同じなのにまるっきり別の世界に映る。
ここが百田某の付け目である。
 
日本の小説世界の最前線はとっくの昔に、新しい境地のない衰弱状態だったのだ。
 
大江健三郎 - Wikipedia万延元年のフットボール - Wikipediaは同じ時空をシンクロさせたものだが、次元が違うところに位置している小説だ。
最初の数行を読んで、体質に合わずあきらめたが、大江の近世近代現代を通じた日本の歴史的しゅくあに挑みたい大江の志は良くわかっても、ソレを小説でやられる重さに日本人読者として耐えきれない。この小説の理念は日本であり、かつ日本を超えた世界であるが、庶民が世界を獲得するのは行為の中であり、小説の世界では難しい。なぜか知らないがそうなっている。
 
   そして2016年ノーベル文学賞受賞者、ボブディラン!
 
Wは一度もボブディランを文学として評価した事がないし、彼の歌詞が心に響いたことはなかった。
「戦争の親玉Masters of War
ボブ・ディラン・Masters of War 戦争の親玉(和訳)| Dancing the Dreamを「反俗日記」取り上げただけで、その他の唄で気になったのは、バーズ - Wikipediaミスタータンブリンマン - Wikipediaだけだった。歌詞自体はどうこう云う程のものはないと感じる。
 
The Byrds - "Mr. Tambourine Man" - 5/11/65 
 
同じくザ、バーズの「ターン・ターン・ターン(Turn, Turn, Turn! (To Everything There is a Season))」はピート・シーガーで、いくら英語音痴といってもその歌詞が意味深なのは良くわかった。
旧約聖書』の「コヘレトの言葉(伝道の書)」3章を元に曲をつけたピート・シーガー
The Byrds - Turn, Turn, Turn 
バーズの楽曲の目玉はリーダーのロジャーマッギン - Wikipediaの独特のエレクトリックギターの演奏であった。
このアレンジがなかったら、「ミスタータンブリンマン」も「ターンターンターン」も流行らなかった(ロジャーマッギンのアレンジだろう)。
音楽ジャンルを超えた有名なギタリストである。カントリーの番組(コニースミスと夫マーティースチュワート、ショウ)に出演している動画もある。
 
引用
qualche cosa
 音楽や映画のコラムを中心にしたサイトです。
ターン・ターン・ターン、日本語にすると「変わる、変わる、変わる」この奇妙なタイトルの曲は実は聖書の一節そのものを歌詞にしている。歌いだしは、
To everything, turn, turn, turn
There is a season, turn, turn, turn
And a time to every purpose under heaven
A time to be born, a time to die
A time to plant, a time to reap
A time to kill, a time to heal
A time to laugh, a time to weep・・・・・・
これは、有名な旧約聖書「コヘレトの言葉」(新共同訳、口語訳では「伝道の書」)の3章である。聖書をそのまま引用すると
コヘレトの言葉(3:1~3:8 新共同訳)
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時
 
「親しみのあるメロディーで最も古い歌詞を持った「ターン・ターン・ターン」は1965年12月14日から3週連続で全米NO.1の大ヒットとなった。
ターン・ターン・ターン」の歌詞の最後は当時の状況を反映して
・・・A time for love, a time for peace
I swear it’s not too late」
 
ターン・ターン・ターン」が世に出てから50年近く経過しているが、必要な祈りは今も変わらない。
 
W。それにしても聖書に現在では危なくて逆説的になってしまうが、人間の原理、そこにアリの言葉が偶に見いだせて刺激的だ。
 
W。以前、ボブディランのDon't Think Twice, It's All Right / くよくよするなよ (Bob Dylan / ボブ ...の歌詞が気になって調べたけれど、詩の内容は若者のうぶな心境がそのまま前面に出過ぎて恥ずかしいモノだった。メロディーとリズムに乗って初めて効果を発揮する歌詞だった。
ウディ・ガスリー - Wikipediaピートシーガー - Wikipediaの目指した世界はボブディランとは違った世界だった。
フォーク界からノーベル賞が出るとしたら受賞するのは彼らだったし、世界には他にも一杯いるだろう。
 
>という事で原理的に自分の基本手法として
①時代背景はきっちり抑える。ソレを抜きにした作品評価はあり得ない。その時代に即応した作品の評価はする
②。①とは距離を置いた作品の純粋な芸術的評価はしなければならない。
 
佐多稲子の今回取り上げる作品は①において問題を残す作品であるが、
②の文芸的評価は高いと判断した。
2016年ノーベル文学賞受賞 文学的価値観からみると、ボブディランは①も②もどうでも良い作品である。その時代の端っこで生きてきた自分はそういう意味で、ボブディランなど一度も評価した事がなかった。
 
ピーターポール&ドマリー!?気恥ずかしさが付きまとって、まともに聴けない。
 
この唄も気恥ずかし系の歌だった。日本で唄うと、気恥ずかしいものだと、感覚として解っていたのだ。この辺の日本とアメリカの歴史的社会的環境の違いを、踏まえて今風にいえば、ボブディランを一つの興味深いコンテンツとして眺めていたことは確かなことだった。
 
勝利を我等に、はゴスペルソングだったのか。ゴスペルだからこそでWeではなく、("I'll Overcome Someday。
神に対するのは個人だ。
「原曲は、黒人メソジスト牧師ゴスペル音楽作曲家チャールズ・ティンドリー(en:Charles Albert Tindley、1851年-1933年)が1901年に発表した霊歌「アイル・オーバーカム・サムデー」("I'll Overcome Someday")[1]
公民権運動に場違いな日本で唄うミスマッチ。岡林信康などが日本の公民権方面について歌うといわゆる放送禁止歌(自主規制である)になった(イムジン河 - Wikipedia」、「「手紙」「チューリップのアップリケ」)。
フォークが流行り出した初期は米国のモノマネ主流で、勝利を我等には、そのころうたわれた曲にすぎなかったが、米国の公民権運動にとっては戦いの歌だったのだろう。フランスのパリでウィシャールオーバーカムだったのか?
 
←W。佐多稲子の今回取り上げる作品、「時に佇(た)つ」は老境に至って、過去の出来事を円熟した作家が巧みに文章化した、それ以上のことはなかった、とも云える。
 
>これ等作品の発表された1975年という時代状況を念頭に置いて、評価する必要がある。
 
1960年代後半から70年代中期までの一部の尖鋭な戦いが、それまでの戦いと違った地平で突き出した問題=課題は、戦後民主主義が主として広島長崎原爆投下、太平洋戦争の被害という戦争被害者的視点を基礎にその反戦平和意識が醸成されてきた事に対して、
日本帝国主義の(歴史的)アジア侵略という加害者の立場を鮮明に打ち出したことであった。
言い換えると、日中戦争ー太平洋戦争を含めた第2次世界大戦は、第1次世界大戦後の状況を引き継ぐ、スターリン主義ソ連を巻き込んだ帝国主義世界戦争であった、ということである。
 ****
 
佐多稲子さんは、「時に佇(た)つ」11篇の短編集の中で自らの体験した戦前日本支配層の戦争体制をファシズムと書いていることが何度も見受けられるが、自身が思想性を総括的に云々する立場であれば、こう云う皮相な見方の分析的根拠をまず明らかにすることである(文章化して公表する必要はないが整理する必要はあった)
 
彼女は尋常小学校も卒業できない貧しさの中に育ち自習して知識を身に付け自他共に認める作家知識人の立場であり、
長崎市の真ん中と東京下町に育った人で地方生活に接した経験は兵庫県相生の大造船所の社宅生活であった。
その意味で、当時の日本資本主義の政治的上部構造の半封建的軍事的なリアルな姿に接する機会がない作家的センスのまま、(最大の発行部数を得た(7万部)「素足の娘」の成功の側面は兵庫県の相生という自然環境~当然田舎風景~と大造船所の社宅の人間模様がマッチしたもので、当時の日本資本主義の過渡的な半封建的軍事的なところが的確に描き出されていたからこそヒットした。)
自分たちが戦ってきた相手の全貌をとらえきれていないまま、戦前日本ファシズム規定になんとなく落ち着いたのではないか。
 
 政治的には?しかし、文芸的評価は別の次元と、Wは価値判断する。
 
>だからこそ、佐多稲子「時に佇(た)つ」その4の後半の一遍とその周辺を評論した作品を挙げる。
 この作品と当時の佐多稲子さんの周辺を複眼的に理解する最適の資料がコレである。
 
美しい人 佐多稲子の昭和 佐久間文子
第37回 「表と裏と」…③
引用
「変わり果てた小林多喜二は夜になって杉並の自宅に戻されてきた。
~~」W。昭和7年 1932年と想われる。
     ↓
第58回
までの全ての回が当時の佐多稲子の動向を具体的に知る重要な史料である。
Wは気になる個所をメモにコピーしたが、43KBに及んだ。まだ整理していない。
調べて、考えた結果、現状のWの稚拙な知識で可能な切り口は、
佐多稲子さんの1935年(昭和10年)から37年の裁判で懲役2年執行猶予3年の判決を受けたことを結節点に
1940年ベストセラー「素足の娘」を新潮社から刊行し、翌41年(昭和16年)新聞社の招待で2回、満州(一回目は朝鮮を回った)までのプロレタリア文学作家と前共産党員としての歩みは、正面から
いわゆる<転向>問題の範疇で理解されるべきもの、と断言できる。
しかし、その転向の背景には、佐多稲子さんの当時の家庭環境(ペンで家族を維持しなければならない)や夫の窪川との確執があり、ソレを私小説的に書いて売文できる当時の出版環境があった。=満蒙侵略の軍需増大を牽引車に政府の財政金融膨張政策によって日本資本主義の生産力は1935年ごろにピークを迎えた。
 
この方面から云えば佐多稲子さんの戦時中の日本軍占領地域への度重なる慰問旅行、旺盛な執筆活動、1943年(昭和18年)大東亜文学者大会への代議員出席は
世界的視野に立った時局判断なき、なし崩しの時流没入、いわば人性生活土着派への転回である。
鍋山や佐野の獄中転向と同じ論理がそこに垣間見える。
 
しかし、11篇の短編集のなかで「時に佇(た)つ」その4に魅かれた。
当時の中国中部の戦線の状況が、女性作家の視点でリアルに描き出されており、
今読んでも、当時の中国での最前線はこんな風だったのか、よくわかり非常に参考になる。
日中両軍の前線での衝突による兵士同士の被害よりも日本軍の侵略に伴う蛮行によって惨禍がもたらされた、
とこの短編を読んでも解る。
 

         佐多稲子佐多稲子「時に佇(た)つ」その4の後半
 
 「暑中お見舞い申し上げます。いかがお暮らしでございますか。**突然のぶしつけなお便りを書かせていいただいております。
私事、戦時中(昭和17年5月3日)、中支に従軍し,ぎしょう**で戦死しました故陸軍中尉本間重信の実弟でございます。~~~」
 
この手紙をもらったのは昨年の夏である。神奈川県のある市から出された封筒の~
手紙の書き出しで一気に明らかになる。手紙は、始めて書かれたヒトの戦士からちょうど今年が35年にたたり、実家の佐渡島の長兄宅において法事を行ったのことで、その際故人をしのびつつ、わたしの話にも及んだことで、その縁を手繰っていた。
 
 ソレはやはり縁というものなのであろう。
私は、戦死した故陸軍中尉のそのヒトになったのではない。
>その亡くなった場所で、揚子江上流の対岸にあった山中のその陣地において、昨日行われたという葬儀の後に行きあったという縁である。
 
手紙の主は対はなく、この縁をしのんでくれているが、私は、わが身をぐいとソコに引きすえなねばない。
戦死したヒトの身内にとっては、兄が、弟が、そこで死んだ場所を思い描くだけであり、葬送の煙をみることがなかったのだ家から、35年比の法要に、当時の繋がりを手繰って、追憶のよすがとしたのであろう。
 私は自分の当時を呼び起こす。
 
*******
W。小林秀雄歴史観を挿入!
歴史は事実の連鎖と蓄積にすぎないと理解するWはこの小林の歴史観を反語として念頭に置いている。列島原住民思想であり、それが現状と未来に影響を及ぼす転倒関係が成立してきたのが近代以降の日本史だった、と理解する。
 
kim hang 「帝国の閾」
引用 小林秀雄 第9章 小林秀雄という意匠
日本人の戦争体験は『平家物語』や『方丈記』を超えることができない、というのが小林秀雄の先取りした戦争体験だった。
      <丸山真男の論評要約>
小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしば述べている
また、日本人の精神生活における思想の『継起』パターンに関する限り、彼の命題はある核心をついている。
>新たなモノ、本来的に異質なものまでが過去との十全な対決なしに次々と摂取されるから、
>新たなモノの勝利は驚くほど速い。
 
過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに、傍に押しやられ、あるいは沈降して意識から消え<忘却されるので、
>ソレは突如として『想いで』として噴出することになる。
 
「帝国の閾」引用
    母親と子供、そして歴史
引用 『無常というふ事』小林秀雄
「>歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決死因果の鎖といううものではないと思います。
ソレは例えば子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば明らかなことでしょう。
母親にとって、歴史的事実とは、子供の死という出来事が、いつ、どこで、どういう原因で、どんな条件のもとに起こったのかという、単にそれだけのものではあるまい。
かけがえのない命が、取り返しのつかず失われてしまったという感情がコレに伴わなければ、歴史的事実としての意味は生じすまい。
↓W、母親にとって、歴史的事実とは、という規定から、<歴史的事実>という普遍性に意図的に短絡。
 
 
歴史的事実とは
子供の死ではなく、むしろ死んだ子供を意味すると言えましょう。
死んだ子供については、母親は肝に銘じて知っているところがあるはずですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。←W??
 
そういう考えをさらに一歩進めて云ううなら、母親の愛情が、何もかも元なのだ。
死んだ子供を今でも愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだといえましょう。←W?コレでは世界史の分野は成り立たない!死んだ子供に愛着もないから。詭弁術である!
愛しているからこそ、子供が死んだという事実が、のっぴきならない確実なものとなるの意であって、死んだ原因を、詳しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中によみがえるわけではない。
 
*******
  佐多稲子「時にたたづむ」に戻る1975年ごろの短編集
 
 イメージ 1今の私に、ハイラルとかき、宣昌と書くときの感覚が、単に外国の御コカの地名を書くのと同じであるはずがない。私はそれをねじ伏せるしかない。その宣昌の、対岸の惨状での経験は、私の、戦争に加わった行為中でいえば、戦場というモノのの一端に始めてじかに触れたと云えるモノだった。
当陽から自動車で4時間の宣昌まで途中も、日本軍占領の過程は生々しく、町も村も廃墟の様相であったが、それらの土地で裸になって電線の修理や大工工作などをする兵隊をみれば、私はそれだけをみて、それ以上にならなかった
 
そんな兵隊の北陸鉛を胸に留め、才氏を想う中年塀の顔に心中を察したりする以外には、私の視線は広がらなかった。この時の私の当然の露呈であったろう。 宣昌の町はガランどうであった。
形ばかりは残っている表通りはこじんまりとした木造洋館の家並みだったから、きれいな街だったのであろう。町も前に揚子江が、ちょっととした波止場ぐらいにイメージ 2のほろ差で流れている。街の形だけあって、住民の気配が全くないというその空虚さは、一人で一時も立ち止まれそうにないほど深かった。
 
ココに駐屯する日本軍部隊が、川に向かった西洋館の一つを占領している。
わたしたちの一行は、ココから又対岸の山へ向かおうとしていた。
その山の陣地は、日本軍のこの方面での最前線だというjことで、始め司令部では、慰問に出てきた女のモノカキ二人連イメージ 3れをそこまで向かうことに懸念しえもいた。
私と連れのもう一人はその判断を軍に任せた。
その結果、私たち女な二人と、雑誌社からどうこうした記者との3人づれに、将校6人が付き添うというものしい一行となっている。
 
一行はやがて用意された発動機船で揚子江を渡った。
川を渡るのはこの一艘だけである。
静寂な日暮れ時の川面に、発動機の音が響いていく。泥色の水の中に船が一艘沈んでいびつに浸かっている。
川の上から眺める宣昌の町は灰色の中に微かな夕映えを残して印象派の絵画を想わせるように綺麗に見えた。岸辺で一人に兵隊が洗濯をしている。物音は発動機の響きだけである。静寂そのものが大きく広がっている感じの中に私も黙って引きいれられていた。
 
揚子江のこのすぐ先は宣昌峡といい、岩山に囲まれて急に狭くなっているとのこと。遥かに上流に来たと、想った。
 
向こう岸では山水画に見る様な寺院を、軍の宿舎にしていた。
つつましいその寺院の他に人家はなかった。
 
が、私どもの一行が山に行く用意に、すでに馬がつながれている。私も馬に乗るのだ。が、その馬の手綱をとってくれる兵隊がいる。
 
やがて一行はその寺院の前を出発した。
将校6人を先頭に、私たち3人がそれぞれ続く間を、手綱をとった兵隊たちが歩いていく。そしてそのあとににも数人の兵隊。←W。女作家2人と雑誌記者一人+馬の手綱とり兵士3人+護衛兵5人以上+将校6人。この程度の護衛で済むという事は前線はこう着状態で、奇襲攻撃は無理。前線で対峙する双方の火力が基本的ぜい弱だから、この程度の貧弱な装備で特別報道の任務を負った非戦闘員を移動させられる。狙撃できなかったのか?
 
山へも道は細いから一列になって進む。
もう8時であった。大陸の日は長かったけれど、あたりは次第に夕暮れた。
 
手綱をとってくれている兵隊が、その馬の話をした。上海上陸の最初から、あちこちの戦場で働いた馬だから、今は大勢つに扱っているという。第二次上海事変 - Wikipedia 1937年昭和12年7月7日盧溝橋事件 →8月23日上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸
 
手綱を話して兵が先に歩くと馬は勝手に道の草を勝手に食べ、兵隊に呼ばれると、急に駆けだしたりした。
ソレども郷やら登ったり降りたの山道を、谷に臨んだ端や途中での川の流れを渡るのにも落ちもせずすすんだ。
 
兵隊はぷつんと話す。巣鴨の郵便局に努めてたという言葉に田舎訛りのあったのがそこも心に残った。
 
カッコウがしきりに鳴いていたのを覚えてている。その山中の薄れて行く夕明かりの中で格好の鳴き声を聞くのは気持ちの沈むモノだった。
そのあたりで先方から話声に注意、という伝令がある。ヒトの声も山に響いて、敵に聞こえるのだという。夕闇は次第に濃くなり、一列の先頭が山の上にかかると、暮れ残る空の中に、くっくりとソレが影絵のように浮かんでみえた。
もうその頃は黙々と、聞こえるのは馬の蹄の音だけである。
恐ろしいほど太い声でカエルが鳴き始め、すっかり暮れた闇の中でホタルが飛んだ。私など本当の戦場を知らないから、鈍感でいられたとあとで知ったが、闇に紛れて登るといううのが、危険に先ず対応してのことだから、私なりの緊張感でむ胸を締め付けていた。
 
目的の饅頭山までのソレは2時何ほどの行程だった。
到着したとはいえ闇の中であたりは見えはしない。カンテラの明かりの中に兵隊の動くのがちらちらし、湯を沸かすらしいカマドの火が見えただけである。
 
危なかしく立っている私に、つかみかねる言葉が聞こえる。
「英霊がおられますから、ご焼香をお願いします」
一行を迎えた山上の兵隊が真っ先にそういったのだ。私はまだ何となくボンヤリト、導かれるまま、くぐるようにして一つの室の中に行ったのである。
この室が<えんがい>と云うとあとで聴いたが、そこへ入って私は、やっとわかったのだ。
正面に段をしつらえてその上に、白布で包んだ箱が安置してあった。
ローソクの明りもあげてある。山上の陣地で最初に祭壇に接した私は、それでもまだ戸惑いを感じていた。遺骨の前の位牌の字をローソクの明りで読んだ。
本間重信中尉と書かれていた。
位牌の両側に、土ごと掘り起こしてきた野菊が空き缶に入れて供えてあった。
「一昨日、将校斥候に出られまして、戦死されました」←W。緊要な時期場所で戦術判断に資するための情報を獲得するため戦術教育を受けた人間が自ら行うのが将校斥候
 
と傍らで一人にの兵がいう。それ以上は、ほかの兵も云わない。位牌を見つめてて私の感情がふるえる。ソレはココで死んだ人の、ココにおける最初の祭壇なのだ。戦死者の肉親も、あるいはまだこのヒトの死を知らないでいる。そう想い、戦死者とあとを弔うこの陣地の兵隊の心中を想って、私はうつむいた。
「故本間重信中尉」との縁は、このようにして図らずもであったことながら険しい状況の中で、一人の死を目前にしたとおもうのだ。この夜ほとんど夜明かしをして、薄明の外に出たとき、祭壇のあった[円買い]の前に、赤や青の造花の花輪が3つ木の足を立てて飾ってあった。
ソレは東京の葬式で見る花輪と同じに見えた。この山で、どうして、誰が?と聞くと、みんな兵隊が作ります、とのこと。その増加を作る時の兵隊を想像することは、昨夜から今朝へかけてのわたしの冷たく湿った気持ちを、いっそう複雑にした。
 
饅頭山の兵隊は、新潟出身者が多かった
一番厳しい陣地に新潟県人を送る、といつか聞いたのを思い出す。ソレは辛抱強い、という理由だった。
 
この陣地の責任者は中隊長である。細面の若い中尉であった。例の<えんがい>の食台を囲むとき4,5人の小隊長も加わる。
数本のろうそくに照らされたえんがいの中は洞窟を想わせた。
兵隊が岩山をくりぬいて作ったという事で、室内に周囲はカーキ色の毛布で覆ってある。触ると、毛布に下に硬い岩の手ごたえがあった。
ローソクの明りで食事を始める。
スルメと芹をが揚げてある。甘く煮た豆もある。外からみんな兵隊が運んでくれた。その食事を始めて間もなかった。銃声が聞こえたらしい。誰かがそう言い、同時に中隊長の表情が引き締まった。毎晩のことです、と中隊長は云い、しかし箸をおいて煙草に火をつけた。
「今晩は大したことがないでしょう。今夜あたり繰るな、という事は勘で解ります」
と続ける調子が、軍人というより、学生風に聞こえた。そう云いながら何かを感じ取ろうとするらしい神経が、此方にも鋭く伝わる。
3日前に30発撃ってきた迫撃砲の一弾が、<えんがい>の一つに落ちた、と一人の小隊長がいう。私はまだ恐怖感を感じないでいる。銃声もその後は止んでいるが、山のどこかでは対峙が続いていつらしく、小隊長のヒト地は席を立って出て行った。
小銃を打ってきたから此方も応戦した、という報告をはじめに、鉄条網切断を発見したという報告、向こうの兵力と銃の判断、照明弾をこちらが使った、という報告などである。私たちは度々箸を置いた。
地点は全部、右こぶ、左はげ、中はげ、などと山の特徴で付けたらしい名で云われ、ソレが直立の報告に混じるのだが、もちろん私たちにしろ可笑しいとは思いはしない。
この饅頭山に対して小饅頭山という山もあるらしい。そこでは今、状況が悪く、そのため小饅頭山の中隊長は此方の座談会に出席できないという報告も来る。この間に再び銃声が聞こえた。外に遠く響いた一発の銃声は、妙に孤独な音に聞こえた。
 
中隊長は報告の度に、頭の中で判断する表情になっては、質問や注意を即した。
弾を余り無駄に撃つなといったときもある。
しかしその程度の緊張は毎晩のことで、今夜はごく平穏な方なのだ、と中年の、小太りの小隊長が云う。
しかしここで向かい合っている兵力は重慶でも優秀なのdふぁ、といって、昼間は向こうの兵士の姿がy間の上に見えると話した。
 
<えんがい>の中は終始小さな虫が木をかじる様な細かくはじける音がしている。
<えんがい>の屋根や柱のヒバや松の木の皮のはぜる音だという。
 
12時を過ぎてようやくこの<えんがい>の中に兵隊が集まった。
が、狭い質の中だから私たちと、どうこうの将校を含めて、30人もいただろうか。
中隊長が、打ちの兵隊は恥ずかしがり屋だから、といったように、初めは発言も少なかったが、2時近くなったころには、中隊長の誘導でようやくそれぞれが話し出した。
その話もこの陣地が自分の墓だから<えんがい>も綺麗に作る、ということや行軍が一番つらかった、ということなど軍隊の話だったのが、次第に私たちへの質問に、つまり日本の状況の質問に替わっていった
 
みんな北陸なまりの兵隊の話は、この過程で、前言との愛仇に全く逆の関係になる矛盾を示した。
ココが自分の墓になると事だから、と入った兵隊が、故郷に帰ったときの職業を案じていた。
ソレは当人に気づかぬ自然に出る話であって、矛盾を見出す私こそ、真実に距離を持つことに違いなかった。
兵隊たちのそれは、切実に、生と死であり、覚悟、あるいはあきらめと希望の同居するものであった。
ココに置かれた人間の本心が出てようやくその夜の話を表裏合わさったものにしていく。
 
中隊長の話も同じ過程をたどった。
幹部のつらさはなきたいときになけぬことであり、斥候に出た兵隊がないて帰ったときにつらさ、小隊長を戦死させた時のつらさ、という話が始まったが、次第に、一番悲しかったことは何だ、と誘導し、「内地」に対して云いたいことはいえ、と挑発的になり、最後は、故郷の女の心変りが兵隊の士気に影響するという話をして
「な、お前たちの中にも、2,3人がいるだろう」
と、さ、ぶちまけろ、と高い調子になった。
そのときしいんとして、肯定も否定も発せられなかったが、重い空気が、その事実のあることを示した。
木の皮のはぜる音は絶えず続いており、ローソクは短くなっている。兵隊たちは女の心変わりをぶちまけはしなかったが、「内地」の人間への不満をはきだしていた。
ソレはココの自分たちのつらさに、もっと繋がってほしい、という事に尽きていた。
 
一行はきたときと同じように馬に乗った。
中隊長始め小隊長も並んで立ち兵隊たちも見送りに集まっている。昨夜の話の後だ。帰っていくことをつきつける冷酷さに、私は感情を収集しかねた。
饅頭山が見えなくなったあたりで、ふとどこからか、遥かに呼びかける声が聞こえた。明けきらぬ山峡の谷を伝わって響いた。私たちの一行を読んでいたのかどうかわからない。が私は、その呼び声を聞いた途端、猛精子が効かず、ほとばしる声で泣いた。
おおい、と大きく引っ張って読んだその声が、帰っていく私たちではなく、その人自身の故郷への呼びかけとして聞こえたのだ。
私は背を立てたまま、盛れるなく越えをハンカチで抑え、蹄の運びに揺られていた。一行の誰も、一言も発せず蹄の音だけが一定のリズムで続いた。
もう十数年前になるだろうか。新潟から来た手紙は饅頭山であった兵隊のの一人からモノもであった。
手紙には詳しく自分のその語と今日を書いていた。
ある労働組合の仕事をし、結婚をして子どももあるとの事。なおあの時あった人の数人の無事も書き添えてあった。
 
その人たちが無事であったという事は、私の気持ちにとって喜びと安らぎとの二重の感動であった。←W。ハッキリと書いていないが、労働組合の仕事をしていることが一つの感動なのだろう。
 
>わたしの、戦後に自分を追求せねばならなかった戦争協力の責任は、
*私の思想性の薄弱と
*理念としての人間への背信
として負わねばならぬものだった。
 
ことに宣晶における経験は、わたしのこの負い目の真ん中にあった。その人たちが無事であるという。
ソレは先に云う二重の安らぎを私に感じさせた。
    ↓
新潟のそのヒトとの文通が始まった。
彼は行動的であるらしく組合の代表としてソ連へ行ったことなども知らせてきた。
↓W。負わねばならないとした戦争協力の責任は戦前と地続きの戦後社会を肯定することで軽減された。
こう云う付き合いが人方の彼との間に続きだしたころである。
私はあるテレビに、自分の経てきた道という内容で移されることになった。
テレビ局の青年たちは私の過去を調べ始めた。
今日までのわたしの道程で関わりのあった人たちにも、出場を依頼するはずで、その打ち合わせも私とした。
>アレはそういうきっかけであったろうか、饅頭山であった人たちをそのテレビに呼ぶことにしたのである。
この話の準備に打ちあわせに来た局員が、フト私に尋ねた。
「戦地に行かれたことを、当時、悪いことをする、とお考えでしたか」
「悪いこと?いいえ、そうは思いませんでした」
と私は彼を見上げて答えた。
「あ、そうですか」
とかれはにこりともせず「それならそれでよろしいのです」と切り口上に聞こえる答えをした。
 
 
そう聞いた時私は、心の中で、なにオッと叫んでいた。表面上どういう顔になったか、相手はどういう意味でアの質問をしたのか、なにおっと叫んだ私の受け取り方が主観的な誤解であったのか、ソレはあいまいになった。
 
>私のあの時の猛々しい反発は、それならよろしいのです、などと簡単に審判を下すような、その扱いに対するモノだった。
>そんな軽いものではなかったのである。
~~
「中隊長だった人は、どうしていらしゃいます。消息はお分かりになっていますか」
「えっ、あの、今関西の方にいられますがちょっと御病気でして**」
「どこがおわるいのでしょう」
~相手は今度も口ごもった。
「少し頭を病んでいられるようで 」
聞いておいた住所へあてて私は手紙を書いた。が、返事は遂に来ない。
 
           その4 終わり

 
生活の方途をもの書き業に求め、己の書いたものの発表の場を確保しようとすれば、業界の求める範囲の文章を書くしかないが、その業界には自己規制とその背後には検閲体制がある。
 
日本の1930年代の政治経済の動向に関心のある多くのヒトがいまだに誤解しているのは、日本のその時代を暗黒の時代とひとくくりにしてしまって次の歴史的事実をみていないことである。治安維持法による弾圧とともに満蒙侵略の軍需と財政膨張政策によって日本資本主義の爛熟の一時期はあった。多くの思想転向者を輩出した物的要因は確かに存在したのである。
時代は変わって、<転向>など取り沙汰されないが、同じような位相ともいえる物的根拠を持った非政治化の情緒化の問題は現状から近い将来まで続くものと考える。
 
① 戦前の日本資本主義の生産力がピークに達したのは満州事変を経て1935年であった、という事実、
満蒙紛争の軍需を牽引車として日本の重化学工業化が達成されたのは1930年代初頭である。
 
② 29年世界大恐慌から禁輸財政膨張政策で抜け出した日本資本主義は対中侵略のための徴兵の強化もあって、労働需要は高い水準を維持し続けた期間が30年代中期まで続き、結果的にその経済効果によって、一部の傾向を排除して文化芸術方面の需要も高まっていた、という歴史的事実
 
    第2回に続く