反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

人生は夕方から楽しくなる 俳優・中村敦夫さん。Wは<イエスキリストは路傍にいる>と。阿Qで良いではないか!阿Q的普遍的人間に「人間は欲望を満たそうとしてエスカレートするから、格差社会~」云々は無意味。

人生は夕方から楽しくなる   俳優・中村敦夫さん
引用
環境主義を唱える自分の思想的根拠を求めるとしたら、仏教に行き着く予感がありました。仏教の基本は『少欲知足』です。間は欲望を満たそうとしてエスカレートするから、戦争したり、格差社会になったりする。ただ、東京で暮らしていると、どうしても俗世のしがらみにつかまる。ようやく、在家のまま出家しましたが、宗教というよりは哲学的帰依ですね」
W。環境主義!?本当か!良く解らん。
>日本と世界は、そういう次元と違ってのたうちまわっているリアルIDの人間が「多数派」と想う。
 
「人間は欲望を満たそうとしてエスカレートするから~」
W。欲望を満たそうにも満たす手段がない人間の群れが多数派をしめているのではなかろうか。
 
W。「欲望を満たそうとしてエスカレートするから、戦争したり、格差社会になったりする」?
 
大きな戦争の原因はそれ相応に考えなければ実態が解らないが、「人間は欲望を満たそうとしてエスカレートするから<戦争したり>←戦争と格差社会の関連は歴史的に深かったが、余りにも<欲深き人間どもの所業で格差社会が進行すると云う傾向と、→そういう傾向の格差社会であるがゆえに、つつましい暮らししかできない庶民が渦中に巻き込まれ<戦争願望~一種の破局願望(カタストロフィーに人間的救い開放を求めてきた歴史~~社会的欲望をうっ屈させる。
この絶対的少数派の絶対欲望派とそれが主導する社会構造格差社会などという単純な言葉で言い表せない)が世の中のつつましい暮らししか術がない絶対多数派にもたらす<社会的欲望>を76歳になった中村敦夫さんは、頑張って考えてほしかった。(故にトランプとかいう云う在来型金持ち爺さんが米大統領に受かったのではないか。ヒラリークリントン退潮の結節点になったメール問題を話題が沸騰している時期と米国流の文脈を外して  
今再点検すると、公職在任中のヒラリークリントンの私的メールアカウント使用が探知されていた訳で、世界中のインターネットや電波経由の通信情報が筒抜けになり「中央」コンピに集約されている現状は、スルーされて何ら問題にされず、その非人間的異常性は看過されている。~~政治的軍事、警察的商売的にシークレット情報を流用、利用できるモノとできないモノの差異は余りにも大きすぎる、と解っていても直視したくない。日本では日本的既存の支配的土壌を経由しないで米国ショートカットの人間が増えていく~~コレがトランプ当選後の推移となる。)
 
年齢から云って、60年安保世代なのだけれど、その後の60年代後半から70年代の経緯もあって、言葉に詰まるところがあるが、
><エスキリストは路傍にいる>と考える。宗教者の言葉よりも、心に響くことがある。
阿Qで良いではないか!
阿Q的普遍的人間に「人間は欲望を満たそうとしてエスカレートするから、戦争したり、格差社会になったりする」とか、説くことは無意味で、
社会的存在を意識しない様になった(になることができた)人間は、世の中の現状と将来を中村敦夫さんのように見定めるならば、個人の現状に対しては沈黙し、
究極の演劇を表現者として」世に問うた方がすっきりする。生き様は関係ない。在家の出家とは、そういう事なのでは

         この言葉だけがやけに心に響く。
>年齢を重ねて、身体能力や記憶力は衰えてきたと感じる。
 「過去のみずみずしい体験を思い出そうとしても再現できない。一生懸命勉強したこともほとんど忘れてしまう。そうすると、一番重要なのは『たった今』ということになります」
W。貴重な人間の真実である。そういえば、幼子も「たった今」しかない。老人は幼子に帰る。
 

人生は夕方から楽しくなる   歌手 カルメン・マキさん
根根無し草だが自由 絶望に抗して歌う
「17歳だった1969年、「時には母のない子のように」で歌手デビューを飾ってから間もなく半世紀。「自分が本当に納得できる作品を作って死にたい」。東京・下北沢のジャズバーで、今後の目標を聞くと、不敵な笑みとともに、こんな答えが返ってきた。「今までがダメっていうんじゃないけど、自分では『まだこんなもんじゃない』というのがあって……。欲が深いんだね、きっと」

「38歳で、娘を授かる。10代で顔も名前も知れ渡ってしまった自分にも「歌手じゃない人生」「平凡な幸せ」が手に入ると感じ、子育てと家事に専念しようと決断した。「その時は本当に歌手をやめよう、と思った。それなのに、気がつくと歌っている。それは人間の業、運命なんですね。神様がいるとすれば、『お前にはこれしかない』と言われているんだと思った」

「私はデラシネ。でも、今の日本にはたくさんデラシネがいると思う」。ある日のライブで客席にそう語りかけた。

 違和感を、根無し草を意味するフランス語「デラシネ」という言葉に込めて、作詞した。最近の演奏活動も「デラシネライブ」と呼ぶ。絶望的な時代に抗したいという思いだ。

 ~~不安を抱えながらも、自由に生きようともがく人たちに向けて、歌い続けようと決めている」