反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

スロープ階段上りは中止する

 2011年東日本大震災福島原発事故を契機に始めた大きな橋のスロープ階段登りは、去年の暮れで、中止することにした。どんなやり方をしても弱い右ひざに負担がかかって、このまま続けていると「運動」ができなくなる。ソレに替わる別なやり方にチャレンジすることにした。
 
 
 長年、一つの公園を中心に身体を動かしていると、毎日決まって「運動」している人たちと、顔なじみになる。お互いをなんとなく意識し合うようになるが、言葉を交わしたり挨拶する人はほとんどいない。自分だけが心がけている訳ではなくて、他の常連のヒトもほとんど自分の「運動」の仕方に徹している。他のヒトの邪魔をしない、干渉しない手っ取り早い方法が、できるだけ挨拶したり言葉を交わしたりしないで、余計な人間関係をつくらないことである。ソレが他のヒトの個性に尊重に繋がる、と思っている。
 
 ソレなりの負荷をかけているのだから、自分の身体の状態に正面から向き合い、相談しながら「運動」を調整するのは当然のことだ。今日は昨日の続きだが、同じではない。その時点の身体能力にはリミットがあり、ソレを超えてしまうと具合が悪くなるが、そのリミットを越えなければ、身体能力は強化されない。
最大の要素は積み重ねであり、自分に妥協しないことである。
以上、羅列した事がら見ても毎日の「運動」は相反する矛盾をはらんでいると解る。だから、「無事」続けることは、難しい。根気やる気だけでは長続きしない。
 
 終わった後、良い意味ではある種の解放感があるが、細かいことはどうでも良くなる。明らかに思考能力は低下し、喜怒哀楽の本能が優先するようになっている。コレは年齢的な衰えで、肉体的回復力が伴わないことが、頭脳、精神神経にも影響は及んでいるからだろう。
ココにも「運動」する矛盾がある。ある年齢以上のモノは負荷のかかる運動することによって、頭がシンプルになる。
 
 ただ、そういった自分の身体の状態に集中するだけではない。周りの風景に気を配り、観察する。
自分の身体と風景観察を同時にはできないから、目線のチェンジを心がける。
以前、「反俗日記」の記事で雑草に拘ったり、鴨などの水鳥を特集したのも、実際に「運動」に出たときに観察した結果だ。おかげで、なんとなく目にしていた道端の雑草や水鳥たちに<意味>が付加された。
 公園の他の人たちに対しても、知らず知らずの間に<風景>のように観察していた。ここら辺りがW独特の心象風景で、人間性を疑われても仕方のないところだが、そういう人間なのだから仕方がない。
以上が単調な動作を長続きさせる秘訣のようだ。
 
 自画自賛になるが、この地域のスロープ階段上り下りの創始者はWであった。競走馬のトレーニングセンターの坂路調教にヒントを得たものであった。
Wの他に続けられているヒトは3人だった。しかも各人Wとは違ったやり方をしている。そのうち2人は身体障害のある方で、カップルの夫が脳溢血で身体と頭に障害を受けた妻を介護運動させている。もう一人の腰に障害のあるヒトに聴くと、平地を歩いている時よりも楽だと云う。
Wと同じやり方をしていても長続きしないヒトが多かった。原因は根気ややる気だけではないようだ。階段を下りるときのやり方が悪い。以前、記事にしたように<水面を歩いて渡る>要領がイメージできていない。
 
 身体の動かし方は各人違っている。ただひたすら同じコースを黙々と周回するヒト。薄暗い早朝、猛烈なスピードでウオーキングする女。愛犬の散歩を兼ねているヒト。橋を渡って、遠くまで歩いていくのか、Uターンして帰ってくる姿を一度も見かけないヒト。小走りにジョッキングする人。長年続けている人たちは自分に合ったやり方を見出しているようだ。
 
 ソレらの人たちを風景として観察していると、なにしろ年月の経過という絶対的な事実があるので、彼らの変化していく様が、わかる。
公園の運動から姿を消す人たちで印象深いのは、膝を痛めて中止したヒトである。公園で何時も見かけた姿ががぷっつりと見えなくなって街中で偶然であったとき、片足を引きずっているのをみるのは、気持ちいいものではない。先先歩く愛犬に膝が痛いので待ってくれと叫んでいたおばさんがやがて手押し車に頼って公園に来るようになって束の間、ぷっつりとこなくなった。腰の故障が原因で来なくなったヒトは少ないようだ。
その点、サラブレッド競走馬と一緒だ。
その経過を観察しているので自分がこのままやっていると、同じようになると痛感した。
 
 公営のスポーツセンターに通う事にした。
自宅で簡単な筋トレ。その後、温水プールでストレッチのあと、筋トレをして、水中歩行から泳ぎに入る。
 
泳ぐことはは余りにも負荷がかかるので、すぐ息が上がる。子供のころに潜って魚を突いたり飛び込んだりして自然の中で遊ぶことの必要な技として泳いできた自分には、プールの水泳にはもどうしてもなじめない。ちっとも面白くなく禁欲のみの時間だ。眼下の自然を横目にスロープ階段を行ったり来たりしていた方がよっぽど楽だった。
 
 
 
 プールでは持病のある自分にはできないことが一杯ある。この大きな制約も腹立たしい。前は簡単にできたことは今はできない。プール内の利用できない施設もある。
つくづく自分は健常者ではないなぁ~と思い知る。仕方がないのだ。
予定している動作を終了すれば、サッサと帰る。
所要時間のほとんどは泳いでいない。