反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

セメントができるまで。 関西生コン支部闘争史 生コンは特殊商品、<産地から現場まで>の一貫工程/ワンセットの産業最終工程。ミキサー車による運搬のみが労働集約部門、製造大型化は無理、エリア納入時間限定。

 前回の記事、引用。
「1)生産性の向上による工期短縮やコスト低減のために生コンクリートの製造は生コン工場で行い、コンクリートの運搬はコンクリートポンプ圧送業者が行うようになった。
W。上記の件については次回、生コン工場とコンクリートミキサー運搬車の視座で詳しく述べる。
W。読了して改めて、業界は注文者主導に応じざる得ず、ジャブコンは現場からの注文である、との主張が証明された、と思っている。
 
>この際だから、徹底的に建設土木現場で生コンの打設工事が行われるまでの流れと問題点を押さえておきたい。
 
セメントができるまで(製造工程)一般社団法人セメント協会
イメージ 1 セメント工場は全国に分布していますが、特に主原料の石灰石資源が豊富な北九州地区、山口県と国内最大の消費地を抱える関東地区に多く立地しています。
 2016年4月現在、企業数17社、30工場があり、クリンカ(セメントの中間製品)生産能力は55,962千t/年です。
W。大量の重量物を運搬するので、輸送手段は専用運搬船消費地の都市の港湾にセメント貯蔵サイロ)、貨車。
 
 
 
 
 
 
 
 
 原料工程
「セメント1tの製造に必要な原料は、おおよそ石灰石1,100kg、粘土200kg、その他原料100~200kgです。」←W、粘土を混ぜてたんだね。
「セメントの主要成分(CaO酸化カルシウム - Wikipedia主成分である、Al3、SiO、Fe)を含む物質は、原料として使用可能なことから、製鉄所からの副産物である高炉スラグ~各種の廃棄物の有効利用を進めており、その量は約2,900万t/年にも及びます。」
 
クリンカの焼成工程  W。原料を高温で焼いた時にできる中間材
イメージ 2
       <仕上工程>
「仕上工程はできあがったクリンカを粉砕して最終的な商品である粉末状のセメントにする工程です。セメントは、クリンカにせっこう、混合材を添加して微粉砕(平均粒径10μm程度)して製造します。
せっこうセメントの硬化速度を調整するためのものですが、火力発電所などの排煙脱硫で発生する排脱せっこうや、いろいろな化学工業から発生する副産せっこうが使用され、有効に活用されています。」

 
 
       <品質管理>
「>原料工程では、各原料の受入れ時に水分や化学成分を測定します。調合原料は、蛍光X線分析装置により化学成分が定量され~」
W。セメントは原料CaO酸化カルシウム - Wikipediaが余計な人工的混ぜ物、複雑な装置、高エネルギー消費の装置の工程を経ないで、そのまま原材料商品になる、と解った。
不良生コンの犯人はセメント工場にはいない。
 
生コンプラント以降の行程で不良生コンが生まれる。
建設土木現場が主導して不良生コンの打設工事が行われる。
ただし、前回の記事で明らかにしたように付加体列島の地歴的環境が<ジャブコン>にしてしまう。海砂仕様の問題であると同時に後先考えない、考えたくない付加体列島原住民の哀しい性が<ジャブコン>使用に走らせる。悪条件がそろえば、成人日本国民の過半数は<ジャブコン>使用に踏み切る。他人ごとではなく自分自身の問題である。
 

賞与1円で報復、「労働組合潰し」の酷い実態
 東洋経済オンライン 1/23(月) 5:00配信
「働いても経営者が収益を持っていく。労働力は特殊な商品にすぎない。その価値は、労働する前に市場で決定されている。労働力商品を労働過程で徹底的にしぼりとり(生産性向上)労働力が生み出した付加価値と原材料費などの経費を含む商品を短時間でできるだけ多く販売する事が資本制の根幹システムであり、法的規制や労働組合などの政治圧力が機能しなければ、資本制の根幹システムは、全力稼働する。
W。後半部分、ネット起業って?他人迷惑をかけてはいけない。メキシコ、トルコ、米国の貧困御三家、御三家入りを目指す政策をとっている日本は、その方面のあらゆる統計数値に出現するので覚えておいた方が良い。
 

                関西生コン支部闘争史 1965年~1994年
第1節 生コン支部が生まれた「あの頃」
連帯労組関西地区生コン支部執行委員長 武 建一
〝故郷に錦を飾る〟志で徳之島から大阪へ
W。前半部分は読んでいて思わず吸い込まれてしまいそうなスリリングで躍動感があって、単純に読み物として面白かった。
<セメント製造業界><生コンプラント><生コンミキサー運搬業者><運転手>のリアルな歴史が、生コン運転手の現場目線で記述され、なおかつ前記4社の実情が解り易く俯瞰されている。
 
ポイント→<特殊な商品である生コン、~在庫効かない~>と<労働力の専業的側面~運送業のトラック運転手とは違う~><消費者建設土木現場の主導性)が、ここに述べられているような限定的でありながらダイナミックな関係性、業態を生み出したのだ。
故郷に錦を飾る〟志で徳之島から大阪へ
「私がこの生コン業界にたずさわるようになって今年(94年)で33年になります。その頃は全国で70前後しか工場がないという時代ですが、今日では5千以上の生コン工場があるというまでに成長しています。いま思えば隔世の感があります。」
早朝から深夜まで、工事にあわせて運ぶ毎日
「今でいえば3ヶ月分の仕事を1ヶ月でやってしまう位の長時間労働でした。賃金は「一回走っていくら」の歩合給。その上、お正月三日以外休みは全然ない状態でした。当時、会社が借りた寮で六帖に3~4人、四帖半に2人ぐらいずつ詰め込められたタコ部屋みたいなもので、寮長に私生活まで管理されるわけです。
仕事はまだ星の出ている真っ暗な早朝5時頃に寝ている枕もとでバケツをガンガン叩いて起こされる。社長や職制は生コンいうのは工事にあわせて運ぶのが仕事よ」という台詞をよく使っていました。つまり現場にコンクリートを流し込む時間に、こちらも車を送り込む。それが早すぎるとミキサー車が遊ぶ事になってしまうし、待ち時間をなくすために出荷も時間を調整して行うというわけです。当時は労働基準法など守られず、工事時間は何の規制もなく早朝から深夜までのくりかえしで、それに合わせて生コンを運び続けました。だからセメントとゼネコンの間で板ばさみになった下請けとして「サービス業の精神や」と追いたてられたわけです。」
 
組合に関心をもちだしたきっかけ
省略


W。ココから連続記事に非常に参考になる資料価値のある文章が続く。ココからの筆者は故人との断りがある。
学者さんではないかな。
第2節 セメント・生コン産業の誕生と下請の構造化
-70年代中期までの産業情勢
 日本のセメント産業
イメージ 3
W。生コンプラント出荷数
高度経済成長爛熟の1967年~
1971年
出荷数は倍になった。付加体列島中に建設ラッシュ
同時に好景気の生産設備投資が
やがて過剰になる、という見解も当時あった。
内発的経済成長の時代は終焉に向かった。
 
>不良生コンを建設土木現場が選択した環境でもあり、その付けは後代に回された。
補修工事費用がかかるのだが、一方で東京オリンピックを開催する。付加体列島原住民らしい、<マツリゴト>が本格化するのは東京五輪以降。
 
 
 
 引用に戻る W一種、活劇風記述で面白い。ざっくりとした高度経済成長史であり、1974年OPEC生産調整で一気に暗転するが、本質的には国内経済発展の限界が露呈した単純な過剰生産、過剰資本による恐慌である。
 
「セメント産業は、第四次発展期(1954~65年)で急成長を迎え、石炭から重油へとエネルギー転換のもと生産規模の大型化、生コンの普及、そしてこれに表裏してバラ輸送が発達。60年代中頃には供給過多産業となった。
>1965年の大不況以後、55ヶ月間に及ぶ戦後最長期の「いざなぎ景気」で安定を取り戻したセメント産業は、「列島改造景気」により1973年、セメント生産高7729万トンとアメリカを抜き、ソ連につぐ世界第2位のセメント生産国になった。」
 
現場打ちから生コンへ-生コン産業の始まり
生コン産業は比較的新しい産業であり、最初はアメリカで1910年代(大正時代)に機械でコンクリートを製造するという形で始まった。日本では戦後の産業で1949年、東京イワキ生コンの創業からである。←W。エッ~と驚き!では戦前の生コンは手練りしていたのか?発動機でドラムを回すぐらいはやっていたと想うが、ここではナマコンをプラント生産をする技術がなかったと、解釈しておく。
コレでは特攻隊が出てくる訳だ。
 
「日本に初めて生コンの製法が導入された当時、建設業では大量の労働者を吸収しており、人間の手で現場でコンクリートを打つという方法が中心であった。この49年の生コン製法の導入-機械でのセメントと砂利等の練り-の当座は、現場打ちか生コンかのいずれかを採用するかで葛藤があったが、現場打ちの方が高品質のものが出来るという事もあって、結局その後も現場打ちが主流であった。←W。戦前戦後を通じて日本の農、山、魚村は労働力の巨大なプール、供給地であり続けた。人口ボーナスが機能し続けたことが日本経済発展の原動力だった。
>経済成長はヒトの大移動が続いていることである。

こうして創業後、しばらくは生コン工場は増える事なく、10年余たった60年の工場数は全国でわずか70工場で、その大半がセメントメーカー直系の工場であった。

しかし、60年代に入って日本経済は世界でもまれな高度成長を謳歌し始めた。朝鮮戦争(1950~53)の特需で日本経済は配線の痛手から立ち直り、50年代後半から本格的な重化学工業の確立をめざして大規模な設備投資に乗り出した。「投資が投資を呼ぶ」という投資ブーム、民間資本による工場・設備の建設ラッシュ、そして行政による産業の社会基盤の整備-電気・ガス・水道から港湾・道路・橋・ダム・住宅の建設も相まって空前の建設ラッシュが始まった。

その頃、今後急速に高まるであろうコンクリート需要を見込んでセメント・生コン業界に画期的な車が生まれた。ハイロという強制撹拌式の車、いわゆるミキサー車である
又、今まで建設業に吸収されていた労働力はどんどん製造業の方へシフトして行き(W。生産部門間のヒトの移動がまだ続いている)、慢性的な人手不足になり、コンクリートの現場打ちも姿を消していった。こうしたことを主要因として機械で練る生コンの需要が高まってきた。」
 
大手セメントメーカーによる生コン業への乗りだし
イメージ 4[特に67年から70年までは毎年500工場の増加である。75年には2849、80年には5026工場にまで大きく成長している。」
「従って当初は(60年頃)は生コン業の9割がセメントあるいはセメント販売店の直系工場であった。ところが、60年代後半からの生コン工場の急増の過程では、メーカーや販売店から離れて独立系の生コン工場が増えてきた。折からの大型公共投資ラッシュの中で建設資材=生コンへの需要増大によって、中小都市でセメント販売業・骨材業・土建業から生コン業界への進出がはじまりだした。」
 
小規模プラントの乱立とセメントによる下請の構造化
       W。生コンの特性、生コン業界の特性
「70年代に入ってからミキサー車を3台から5台しか保有していない小規模プラントが輩出した。
生コン産業に中小企業が多いのはその商品である生コンクリートの特質に負うところが大である
 
>① 製造後1時間半程(ミキサー車で練りながら運んでも)すれば凝固しはじめるという商品特性←W。ミキサー車で練りながら運んでも1,5h凝固し始める、は意外に知られていない。 
の為、
 
>② ストックが利かず基本的に受注産業である。
 
 ③そして輸送距離が限られている為、自ずと一定のエリアの中に限定されてしまう。
 
④さらに、天候に左右されるという致命的弱点もある。
 
⑤だから生コン業は必然的に一つ一つの企業が小規模にならざるをえない。
 
しかも需要を安定的に確保しようとすればどうしても、都市周辺に集中せざるを得ないという特質をもっている。
工場の乱立、しかも中小零細な規模の工場の乱立の原因は以上のような商品特性だけではない
 
生コン業の上にそびえ立つセメント産業の側の事情がある。
セメント生コン業が受注生産であるという事、書いて紙上であるという事は、
 
>売る側にとっては「お客様は神様でデスす」なのである。
ういうサービスをつけるか、少しでも品質を欲するか、他より安く売るか、という事が売り手(セメント)の側の競争を左右してしまう。
セメントにとっては自社の製品をどれだけ多く、確実に売るのか、そして売り先をのコントロールの下におくのか、という問題になってくる。しかもセメントは粉のままでは殆ど商売にならない。
 
>セメントがどのような商品の形をとってユーザー(消費者)の手にわたっていくかを示す数字にセメントの転換率というのがある。販売の主力は圧倒的に生コン
 
W。ナマコンプラントの操業率の低さに驚くが、商品としての上記5点の特性も根本原因である。
受注に機動的に対応するフレキシブルな体制が必要。ま。現場手練り状態と本質的に変わらん。
 
「実にセメントの7割近くが生コンに売られているのであり、逆にいえば生コンとして売らなければセメント販売は成り立たないのである。
こうしたことからセメントメーカーにとって生コン業を、丸ごと自らの支配の下におく事、下請化する事は至上命題となってくる。その際、他社のセメントシェアをくいちぎり自社の販路を拡張するのに手っ取り早い手段は、一つでも多くの生コン工場を自己の傘下におさめる事である。生コンの操業率が26%しかないという過当競争(79年)、そして現在では17%台という極めて低い操業率=過当競争の背景にはセメント各社のシェア競争があり、その結果としての生コンプラントの新増設・乱立状態がある。」
 
<産地から現場まで>の一貫工程/ワンセットのセメント・生コン産業
    
    W。視点が鋭い!感心する。
 
確かに生コン企業の大多数(約8割)はセメント資本から独立した法人であり、資金的にも独立している。
とはいえセメントと生コンの両産業の関係は<産地から現場まで一貫した生産-輸送工程>を形づくっている。セメント産業にとって生コン産業というのは構造的に組み込んだ下請産業であり、或る意味ではセメント・生コン産業という形でセット化されて成立している。
そしてこのセット化された工程の中でセメント産業は大規模装置産業であり、<鉱山-セメント工場-タンカーまたは貨車での輸送-サービスステーション(SS)>という工程はいずれも機械化工程である。
最終工程であるミキサー車による運搬(生コン製造-建設現場)のみが労働集約部門である

大型化は商品特質、エリアの点で不可能であり、仕事の性格上からも納入時間がふん単位で指定されている「工事にあわせて運ぶのが仕事」(生コンの親方の常套句)である以上、配車から運行管理に至まで極めて労務管理的色彩の濃い部門が生コン運輸の特徴である。
 
輸送費の圧縮こそ利潤の源泉
生コンの販売価格面からみても同様である。生コンの価格は<原材料(セメント・骨材等)+経費+輸送費+他>で決定される。ここで「輸送費」とあるのは生コンでは往々にして製造と輸送とが分離されて別々の会社になっているからである。

    生コン売り先は主としてゼネコン(建設独占)である。小規模資本の生コンがゼネコンを相手にまわして販売価格では勝負にならず、「買い手市場」という事もあり買い叩かれざるを得ない。
販売価格の総額があらかじめ安く抑えられているのに対して、
 
左記の価格決定式で原材料費の半分以上を占めるセメントの比率は全体の総額の約27%である。こんな大きい比重をもつセメントの仕入れ値はこれ又、22社(当時)のセメント会社によって独占価格が維持されているのである。

 原材料のセメント価格は据え置きもしくは吊り上げられ、他方で販売価格はゼネコンによって安く抑えられている。
 
生コン製造業者にとって「うま味」を引き出せるのは、唯一、「輸送費」のコストダウンだけである
W。早朝、静かな道路傍にミキサー車を並べ管理職らしい運転手が指示を出している光景をよく見かけるのは、こう云う背景があったのだ。」
 
「輸送単価の切り下げにとどまらず、ミキサー車を「遊ばせ」ない為に過積載の強要や輸送回数のアップと、労務管理の強化によって輸送コストを実質的に切り下げていく。操業率を上げる為には持込車(個人償却制)や日雇運転手の導入で労働基準法であろうと何であろうと無視して休憩も何もない長時間過密労働へかりたてる。使用者責任を回避するためには輸送会社のさらに下請を導入する。いわゆる親方制である。」
 
輸送は「企業存立を左右する業務」
「セメントと生コンとの関係(転換率70%)からも、生コンクリートにして売らない限りセメントの販売はおぼつかないのが現状である。生コンの輸送は他の製品の輸送と違って、それは原料を別の工場に運びこんだり、あるいは市場に陳列するための完成品を移動したりするようなものとは明らかに違っている。
それは建設現場に流し込んで初めてコンクリート製品となる。輸送の行程が実は完成品を世に送り出す前の製造工程の一部でもある。」
 
W。引用はココまでにしておく。
 
この論法を用いると
「SEだった有村有氏(仮名)は、結婚を機に転職を希望。「年収1000万円も」とうたうチラシを見て、「アリさんマーク」で有名な引っ越し専業大手・引越社関東に入社した」
■100万円だった賞与は1円に
はどのように分析できるのだろうか。