反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

マネー資本増大による世界的な階級差拡大を受けて先進国政府は低強度戦争戦略=軍事費増強。社会保障、福祉予算削減は時代の趨勢。介護格差拡大により介護の社会化を制度に切り縮める視点は狭く排除の論理に行きつく


  無縁社会」に高齢期を生きる 森岡清美 - Wikipedia アースの森新書 2012年刊行
        第3章 介護との取り組み

   介護の外部化と社会化
 介護保険法の影響
家族の介護機能が弱体化する一方、老親の長寿化により介護負担が増大し~介護を他人であるプロに任せるべしとの意見が力を持ってきた。
しかし介護という労働は、高所得者層など十分な費用負担の備えがある場合を除いて、←W。介護格差拡大傾向
簡単に他人に丸投げできるわけではなく、~そこに苦渋に満ちた在宅介護が続く。
   ↓
W。ノンフィクションライターの家族介護(寝たきりの母親介護の夫、娘その息子)の結末に至る経過を見ると、介護保険制度施行前のこの家族は、藤沢の住宅街の自宅不動産、工学博士の資格を持って大企業勤めをしていた父親の年金(本には記されていない)、ライター本人の収入などの流動資産に比較的恵まれいた。

介護保険施行後、
被介護者の母親は有料介護老人ホーム入所~当時はかなり高額の頭金が必要~(当然ホームに働くヘルパー労働には介護保険法が適応され、、入所者の金銭負担は軽減される)。 W資料②
父親とライター本人はそれぞれ、妻の近所の有料老人ホーム入所、同じく集合住宅へ。

>そしてこの「離散家族」=ライターいわく、「家族解散助け合いながら自立してW??」は、<健康型>有料老人ホームに入居した父親は、自律生活志向が強く、それなりのサービスを受けていたにもかかわらず、他人任せの身の回りの世話を嫌がって、藤沢の自宅との等価交換で、有料介護付き老人ホームに入居している妻の近所に狭い中古一軒家を購入。妻の入居している介護付き老人ホームに通い詰めて、一日の多くの時間を妻の介護に費やすようになった。
近所で集合住宅住まいをしていたライターの娘は、結局、両親の老人ホームの生活費用が負担になって父親と同居することになった。こうして老人夫の生き生きとした妻介護、娘との同居生活の日々は続いた

この家族の最終的結末は、3年後、介護付き有料老人ホーム在所の母親がなくなり、80歳半ばに近づいた父親は、妻の介護という目的を失い、ぼんやりと過ごしている姿を見かけることが多くなった。
*******

 W。参考資料①
■ 「有料老人ホーム」と「特別養護老人ホーム」の特徴と比較
 有料老人ホーム 
(介護付・住宅型・健康型)                                        特別養護老人ホーム
運営主体
主に民間企業                                                     地方公共団体社会福祉法人

目的
介護や食事などのサービスを受けながら生活をする施設        介護をするための施設

入居対象
概ね65歳以上の方で、自立の方から要支援・要介護の方まで可能   65歳以上の要介護(要介護1以上)の方

空室状況
ホームに空室があれば入居が可能             寝たきりなど重度の人や緊急性の高い人から入居となるため、入居までに数ヶ月~10年近くかかる場合もあり、入居待機者は約40万人

費用のめやす
月額約15~20万円                         月額約5~15万円

建物・居室
新築のホームが多く、基本的には個室       築年数が長いホームが多く、   相部屋が多い

医療ケア
最近では24時間看護職員の配置や、クリニック併設のホームもあり、サービスの種類が豊富
                           医療サービスは限定されており、夜間の医療対応や常時医療対応が必要な方などは対応が難しい。


W。参考資料② W。ノンフィクションライターの描く世界はコレ

W。資料③
無縁社会に高齢期を生きる」森岡清美著   第1章 無縁社会の高齢者
2、高齢者の問題 --老後の心配
「高齢期の4大苦は、貧困=経済欲求 疾病=健康欲求 孤独=関係欲求 無為=価値欲求(無趣味な人は過剰な関係欲求に走りがち)であるといわれている。~高齢者においてはこれらの日常的な充足にしばしば困難がある。

1996年の調査(経済広報センター)によれば、~~健康欲求>価値欲求>経済欲求の順位となる。
>健康欲求は介護を中心としたケアにより、経済欲求は経済援助により、関係欲求は情緒的援助により、価値欲求はこれらの総体によって、
*高齢者を複合的に支援してきたのは家族である。
       ↓
*このうち高齢者に最も重視されるのは介護であるが、介護の果ては永別(夫婦の死に別れ)であって、
介護が高齢者である場合
その人はここで刻な関係欲求、そして価値欲求の不充足に陥る。 ←W.。家族と疎遠になった場合はの本人の事態は深刻。自殺願望が募る。
      ↓
引用
「ところで99年7月21日の自殺した時に、自宅にはこのような遺書が残されていた。文学評論家にふさわしく名文。
 ――心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成11年7月21日 江藤淳。」
江藤淳夫妻は大学時代に同級生で恋愛結婚。夫妻は仲が良く、一卵性夫妻と呼ばれていた。4歳で母を失った江藤淳にしてみれば母のような存在でもあっただろう、と知る人は言う。奥さんが末期ガンだと知って渾身の看病をしたという。しかし看病もむなしく闘病8カ月で他界。そして1年もたたずに江藤淳も世を去ることとなる。」

*長寿化で介護の期間が延び要介護の人口が増えた現代では、家族だけで高齢者を支えることが困難である。
そのため、介護について社会福祉に依存するところが大きくなった。←W。社会福祉制度利用だけでは、足りなくなっていくリアルな趨勢が目の前に転換されている。個々人や小集団が埋め合わせていくしかない。ただし、マニュアルがないので、技術的~~介護は技術的側面が多い~~ハート的~~過去にとらわれ、前の見えない頭の柔軟性の不足しがちなものどうしの関係は難しい(価値観の転換が必要である)。~~に非常に難しい場面が連続する。

永別による関係欲求の不充足には親族、近隣などの社会的ネットワークが対応したが、社会の変化はこの社会的ネットワークを解体させたので、今や個人的に対応しなければならず、永別の問題は介護に次ぐ問題として登場した。
介護はそれを担当する立場の問題であるとともに、受ける立場での問題であるのに対して、永別はその事態に会う立場での問題であって~~。

    3、「無縁社会
社会の変化
   ↓
経済的には産業化、地域的には都市化、生活的には個人化
によって、家族を結び付けていた絆が衰弱し、加えて家族以外の血縁、地縁、職縁などの解体に瀕していることから、
   ↓
現代社会は無縁社会と呼ばれる。→「家族から‘‘弧族‘‘へ」
‘‘弧族‘‘では高齢になっても家族の支援を受けることができず、←W。事実である
また家族を支援することもないだろう。←W。「社会の変化はこの社会的ネットワークを解体させたので、今や個人的に対応しなければならず」  ‘‘弧族‘‘の個人が結び合う機会を積極的に持つことも大いにあり得るのではないか!

W。大天災時のような緊急事態を持ち出して、「縁はどこかに潜んでいることを教えてくれた」とするのは、異常な非日常世界における助け合いと
日常性の中での家族の絆を超えた社会的ネットワークの衰退という現実を直視し、それへの個人的な対応という別次元の事態を無理やり混同し、個人や小集団的対応の可能性をないがしろにするものである。

次の言説も寝言の類に近い
「社会の変化による共同体の崩壊はこの二項対立を解体させ(慣習による互助小宇宙(←崩壊した)VSそのしがらみの外に出た個人の自由な意思による新しいつながり)
伝統的倫理が力を失ったが、対内論理的な『お互いさま』の精神が個人の自由意志の基づいて、広域的に、グローバルに人々を動かし植える社会になっていたのである。

W。対内論理的な『お互いさま』の精神は伝統的な共同体の価値観であり、
その掟によって個々人の絆を求めて逸脱する個々人を旧秩序の対内倫理に縛り付け(地域ボスたちの倫理が暗黙の掟化し、まかり通る普遍性の小世界。極端な例は村八分、異端視。無視や排除)しかもお互い様精神なるものが社会の変化へのリアルな対応力喪失している事態が生じているからこそ、無縁社会に生きる個々人を生んでいるではなかったか。

そして、上記の論法を使う筆者の次の結論は当然のことである。トルストイの幸福と不幸以下的発想である。
多数派論理による少数派切り捨て、グローバル資本制の論理への後押しに過ぎない。
引用
「我々も無縁社会が強まるものとの思い込みから自由になって、
>とりあえず家族の中に残る縁に着目し、それを育成強化して、高齢者の欲求充足と同時に子や孫の欲求充足の助けになるような相互関係にすることができないか。
>そうした姿勢で、高齢者と家族の関係を見直してみる必要があるのではないか。」