反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

朝青龍引退。結局、いびり出してしまったしまった。日本収縮の一コマ。

 相撲には興味ないし、よく知らないが止めることはないのではないかな。しかしそれにしても何時から日本人はこんなに倫理に厳しい民族になったのだろうか。周囲やマスコミが騒ぎたてて止める方向に持っていったのだろう。
 この前の地方巡業を怪我を名目に休んでモンゴルに帰ってサッカーしていたことがばれてマスコミに追いまわされ自宅軟禁みたいになり、精神障害気味になった過去があるから、自分からもういいや、と投げてしまったのだろう。
 ペナルティで出場停止になったら格闘技では体作りに大変なエネルギーが必要になる。 
 朝青龍はもうプツンと張り詰めていた糸が切れてしまったのだろう。そして口ではどう言おうと心の底では日本にはいい印象は持てないと思うな。

 島国の日本人には外国人に対してセレブレイションの精神はあり過ぎるぐらいで欧米系の白人にはとても甘い。これらにとって今でもなお日本は外人天国でやりたい放題なのだと思う。いい方に解釈すれば相手の文化と、習俗を容認している。
 ところがその反動なのか何なのか知らないがそれ以外には同化を強要するようだ。こういう傾向があることを自覚していた方がいい。これからはこういった国々が発展していくし、日本にとってそことのビジネスは死活問題となろう。

 飲酒暴行か。確かに事件を起こしやすい人格っている。ずっと日常的に監視しているわけにいかないし、諭してもほとぼりが冷めればまた騒ぎを起こすって懲りない人。

 でも朝青龍はそこまでの人間ではないはず。
 民間の出来事は民間で解決する、これを基本にせず何でも警察沙汰にする、裁判沙汰にする、この傾向は結局、庶民の自己決定権を狭め、お上の判断に委ねることになり、社会は小さくまとまり混乱が絶えないぎすぎすしたモノになるはしないか。

 そもそも相撲って江戸時代から盛んであったわけだけど、当時は人格云々は落語の相撲人情話の上はともかく、単なる見世ものだったんだから関係なかろう。

 浮世絵版画なんかで歌舞伎、花魁とともに描かれている相撲は完全な見世物、興行の世界。人格云々などと権威付が行われるようになったのは戦後かなりすぎてからであった、と思う。
 何しろ今のように日本相撲協会という形で統一団体になる前は大阪にも相撲団体があった。
 
 統一団体になった頃、観客も増えて今の興行スタイルが定着して、周囲を取り巻く横審の様な一種の天下りの老人が堅苦しい理屈をこねくり回し始めたのだろう。
 相撲取り上がりの親方たちにそこまでの倫理観や理屈は備わっていないはず。

 相撲好きの昭和天皇国技館に見に来ると、それに相応しい理屈が出来上がっていったのだろう。中央官庁の息のかかった団体で天皇が頻繁に訪れるようになると必ず、訳のわからない堅苦しい理屈をこねくり回し、タガハメする奴が出てくる。体質的にその種の権威付を隠れ蓑に自分たちの利権を守ろうという本能があるようだ。

 以前、東京競馬場で行われ秋の天皇賞で優勝した騎手がホームストレッチで馬をスタンドの天皇の方に向けてヘルメットをとり深々と挨拶したしたのには驚いた。北島のサブちゃんがレース前にアカペラ君が代をやったのは一昨年の天皇賞。この時スタンドの貴賓席にいたのは時の首相麻生太郎だったが場外馬券売り場のモニターで映し出されたその姿に嘲笑気味のざわめきが起こって「そんなところにいく暇があったらちゃんとした政治をやれ」のキツイヤジが飛んだ。
 
 競馬界の官僚どもの権威付も競馬新聞に眼が点の馬券親父の群れには効き目が今のところないようでまさに馬耳東風。
 日本馬の海外遠征や国際交流レースなど競馬の国際化を競馬官僚は盛んに演出し、マスコミが馬に日の丸の鉢巻きをして走らせるがごとき日本チャチャチャを煽っているが、競馬ファンの大方は一切取り合わない。一部は外国馬の参戦は馬券検討ができないので迷惑がっている。
 
 要は一つのことに夢中になっている時は外部からイデオロギー的作為があっても大して影響されないということだ。

 日本の相撲の世界も同じことが言えるのではないか。大相撲がお茶の間で人気を博していた頃
天下り老人やマスコミの相撲の取り組みと直接関係がないような介入はなかった。大相撲の人気が落ちて国内で力士しの供給ルートが途絶え出した頃、後進地域からの人材の導入とともに権威付が盛んになっていった。 
 
 外国から力士を導入しなければいけないほど相撲市場が収縮しているという現状がまず前提としてあり、これへの対応において柔軟性を持って対応するというよりも強烈な日本への同化要請とこれからはみ出す者への排外衝動がある。
 
 かくして大きな流れとしたら相撲市場の一層の収縮の条件が整ってしまう、ということか。
 
 こういう流れは何も相撲の世界だけではないと思う。
 経済活動に日本人が邁進し自信があった時は偏狭な民族主義愛国心の称揚は無かったはず。
 
 旨くいかなくなるとどうしても支配者は民心のイデオロギー的統合で支配を維持しようとする本能がある。これに先端で動員されているのが仕事や諸々のことに恵まれず不平不満を鬱積させた層というのだから、歴史は繰り返す、といった言葉がぴったり当てはまる。
 
 大相撲は国技なんて自他共に僭称しているけど、法的根拠など一切ない。財団法人として認可していると言ったってそれこそ星のごとくある団体の一つなんだから、大臣が事件化すればシャシャリ出てくるのなんか選挙目当ての売名行為としか思えない胡散臭さが付きまとう。
 
 朝青龍のいなくなった相撲界は「品性」を云々される人間はいなくなるだろうが小さくまとまる方向で歩んでいくだろうし、マスコミにしてからがバカ騒ぎの材料がいなくなり、折からの広告不況の中で自分の首を自分で絞めているようなモノになるのではないか。