木下恵介、ウィリアムワイラー。共に名監督としての評価は定着しており、代表作といえば、「二十四の瞳」「野菊のごとき君なりき」「ローマの休日」「アパートの鍵貸します」となっていますが、完全ひねくれ者を自称する私としては、ハッキリとNOを突きつけたい。
特に「二十四の瞳」に至っては、昔、ビデオを見ている途中で、馬鹿馬鹿しくなって中止してしまった事がある。
「野菊」は出だしから、セピアカラーなのがワザとらしい。私がセンセイと呼ぶ杉村春子さんも善人で登場している。やはり杉村春子センセイの善人役はキモチ悪い。ただこれでもかこれでもかの悲劇なのが救いで最後まで見られたが、二度は見たくない。
黒沢作品には厳しい評価で臨んでいる私としては、ある種の妥当性はある、と理解する。
>>>さて「女の園」。
この作品に対するネット上の諸氏の論評。
間違ってはいないが、相当、ずれている、と感じる。
京都の良妻賢母教育をモットウとする名門女子大の厳格規則に縛られた女子寮を舞台とする女子大生らの自由を求める動きと学則やら何やらを盾に学生たちの動きを封じ込めようとする大学当局のせめぎ合いがストーリーを動かしていくが、イロイロな登場人物の中でどの人物に焦点を据えて見ていくかがポイントになる、と理解する。
この観点が諸氏の論評に欠けているから、この映画の終盤のドラマチックで生き生きとした女子大生たちの反乱に心を寄せられない。
この映画の隠れた主人公として山本和子演じる党派活動家を定点視座とすれば、この映画に描かれ名門女子大学園騒動の政治的ダイナミックさが楽しめる。
この人物をストーリー展開の底流に控えめではあるが、キチンと据えたところに木下恵介の監督としての腕の見せどころがあった。
まさに山本和子さんの活動家のこの騒動の発端から中盤、終盤へのかかわり方はレーニンの「何をなすべきか?」を絵にかいたような党派活動家として自然発生的な大衆の盛り上がりをいかに政治的な方向性に持っていくかのお手本のようなモノがある。
事実、学園騒動の発端では山本和子さんは傍観者の様にジット様子をうかがって正体を現さず、つかず離れずの立場で、自然発生的運動をリードする財閥令嬢の真面目で熱い学生の底の浅さを批判したりしている。
中盤、高峰秀子さんの自殺をきっかけとした運動が抜き差しならない方向に盛り上りのを確かめ、ようやく、機が熟したと見て、当局追求の一貫して戦闘的な一人に躍り出る。
追求は一貫性があり、学校当局をたじろがせる。ここで運動の主導権を奪取する。
最後にグランドに全校生を集めた集会の場面で運動の主導権を完全奪取して、圧倒的な政治方向丸出しのアジテーションをする場面がこ映画のラストシーンになっている。
なお、高峰秀子さんの自殺する女学生をめぐっての動きはメインテーマではないが、ストーリー展開上、映画館に客を呼ぶためにはお涙ちょうだいも仕方がない。彼女なりに精一杯演じたが、かなり無理がある。
<<<以上の論評に重大な誤りがあった事をお詫びし、訂正いたします>>>
1)余りにも軽佻浮薄の論評であります。
この映画の制作された時代背景をまるで考慮に入れない、軽はずみな意見の羅列に終始しています。
山本和子さん演じる女子学生党派活動家の寮問題を発端とする自然発生的な「学園民主化闘争」への当初の慎重なかかわり方の背景に当時の大きな時代背景があります。もちろん、木下恵介のこの映画の政策意図も時代背景と密接に結び付いた、ある種の勇気ある行動とらへ返すことができます。
その意味で彼は理解が足りなかった自分を恥じます。後の彼の松竹資本と敵対関係はこの映画製作に賭けた立場とは無縁でありません。また、「二十四の瞳」に対する冒とくも間違いの様に思います。
2)時代背景を記述しておきます。
私はこうした実証主義的な歴史観の復権を目指しています。執拗に歴史的事件の時系列へのコダワリも私自身へのブログを通じての思想の問い直しでもあるのです。いい加減な気分的恣意的な事を書き連ねるを歴史観とする誤りは戦前の日本が経験した事ではないでしょうか?
これは日本の狭い枠内で通用しても世界では通用しません。
これを批判する私が惰性で同じような誤りを犯していました。
ここに、謹んでお詫びします。
この映画の時代背景は以下の通り。
1950年 6,25 北朝鮮軍休戦ラインを突破
1952年 警察予備隊 保安体に改組
この映画が製作されたのは1953年~54年と推測され、日本の政治が冷戦時代の発火点のただ中にあった時期。やはり、戦後の「民主主義」闘争、労働組合などの権利闘争をけん引してきた日本共産党勢力が冷戦朝鮮での熱い戦争の発火することによって、封じ込められていく背景があった。共産党の主流は地下潜行を余儀なくされたが、分派の一方の今の共産党の前進は少数派として、この朝鮮戦争事態を傍観していた。
このような時代背景からすれば、井上和子さんの党派活動家の自然発生的運動への当初の慎重なかかわりは、納得できる。
しかし、戦争の緊張の高まる時代背景が過ぎれば、このような自然発生的運動への極めて党派的関わりは間違っている。時代背景が違えば、井上和子さんは最初から闘争をけん引すべきだった。
レーニンの「何をなすべきか?」の時代背景もロシア社会民主労働党の非合法化を前提にしている。
謹んでお詫びします。
ただ共産党のどうしようもない党派主義の根底には客観情勢を抜きにしたレーニン主義=ある種のエリート主義がある。これは、党のための戦いはあっても、党が先頭に立って自己犠牲する戦いはない。従って党の官僚の立場は保身できる。
<我等が人生最良の年>
ウィリアムワイラーで日本でヒットしたのはオードリー、へプバーン、グレゴリーペックの「ローマの休日」になるが、駄作だと思う。
そもそも、へプバーンに某国王女様の気品がない。あれじゃ、そこらのファッションモデル。やはり、「追憶」のイングリット、バーグマンの気品には程遠い。そんな女にイカレタ新聞記者が馬鹿に見える。
「最良の年」。アカデミー賞受賞もうなづける。
日本ではあまり知られていない作品と思う。
3人の戦争帰還兵がたまたま、同じ故郷に帰還する特別便で知り合って、帰還後、三者三様の人生を歩んでいく。多分、数年に渡る物語を上手く圧縮している。しかも、其々の友情が続くという形で交差させている。ラブストーリー2本が同時進行し、もう1本はとアットホームなアメリカン家庭ドラマである。
とにかくウマイ!監督の演出だ。
尻軽女房に手を焼くハンサム退役中尉に扮したダナ、アンドリュースに恋心を抱いてしまうテレサ、ライトは寺山修二さん好みらしいが、今のアメリカにああいう清楚、チャーミング、控えめな演技ができる女優はいないんじゃないか。
戦争で片腕になった帰還兵を待ち続けて、自己卑下して心を開かないのを辛抱強く待つ女優さんの地味っぽい演技も光る。
マーナ、ロイのアットホームなアメリカン家庭の良母賢妻ぶりもいい。
ただしあくまで、政治的視点を外さない私としては、次の2点に注目する。
1)帰還して、市民生活が始まると、軍隊の階級は逆転する場合がある。
一番下級で、しかも中年の帰還兵は銀行幹部で、超高級マンション住まい。しかも、マーナロイの様な良妻賢母、テレサライトの様な良い子供に恵まれている。本人がアルコール依存症気味なのはむしろ、この映画のユーモアになっている。
逆に戦場の英雄で胸に勲章を一杯付けた軍服のよく似合うダナは仕事にも家庭にも恵まれず、喫茶店のカウンターの中の仕事に戻らざるえない。
2)太平洋戦争、帰還兵の銀行幹部の戦争手みあげは寄せ書き一杯の日の丸の旗、日本刀、兜だった。
ジャップという蔑称を何度も使用している。
あの寄せ書き一杯の日の丸や日本刀は戦場で死んだ日本兵のモノとしか思えない生々しさがある。
3)追加します。
この劇中、第二次大戦の評価をめぐっての論争があるます。
劇中ではそう言う意見の持ちに主と完全と拒否する主人公たちの暴力シーンとして描かれています。
この観点をあえて劇中に挟んだ監督の視野の広さに感服します。
戦後のアメリカの反共政策への傾斜を視野に入れたモノと想われます。
1946年度の映画の製作年度としては先見の明があります。