反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

河村前名古屋市長の市議会リコール運動を疑ってみる大切さ。

 名古屋市河村前市長は市議会議員の給与削減などを掲げて市議会側と完全対立になった。昨夜調べたところ、市議会側も給与削減には応じて、譲歩の姿勢を示していたが、市長側はリコール運動を始め、成立したようである。
 
 河村氏は就任当初、市の公務員給与の削減も公約に掲げていたようだが、この公約は下ろされている。これはどういう事かというと、河村市長側は戦いの的の分散を戦略として避けた模様だ。つまり市職員の給与カットと市議会議員の報酬カットの両面での戦いを避け矛先を市議会一つに絞った。
 
 ただし、ネットで調べたところ河村前市長の就任後の政治姿勢は具体的政策においては職員幹部に丸投げしているようである。
 
 こんな風景いつかどこかで見た様な気がする。
そう。小泉純一郎の政治もこれだった。
内部に敵を作り、自分をこれと果敢に戦うモノとして有権者の前に押し出す。この戦いをマスコミが報道するが、おおむね好意的な報道姿勢で一貫しているから、主役、敵役の両者揃った劇場型政治がマスコミ報道を通して住民の前に提出される。
 私は名古屋のこの問題に関する生々しい実態は全く知らないが、想像では以上の様になる。
 
 だから当然にも、河村前市長の政治姿勢にも、それに同調するリコール運動にも眉に唾をつけて臨む姿勢を崩さない。よく言えば、簡単に煽られない。悪く言えば、自分での殻から出てこない。
 
 仕方ないと思っている。元々、政治に関しては理念型の人間なので。自分の積み重ねてきた理念、経験を大切な判断基準にする。問題が大きければ大きいほど、自分の原理原則に立ち返る、そういう手法を大切にする。
 
 例えば、辺普天間基地海外移設問題で揺れていた鳩山内閣へ、自分がどのような対応を*現実的*に取るべきか、と課題を設定したら、手法として自分の原点に立ち返ってみる。そこにベトナム反戦、安保沖縄闘争を戦ったモノとして原理原則の大きなかけらを見出す。それから問題を原則的に深めてみる。それで原理原則としてアメリカ合衆国憲法修正第二条個々の人民の武装民兵ー国軍の問題に行き着いた。
 
 だから、私の普天間基地海外移設問題は米軍がどうたらこうたらの分析以前に個々人の国民が武器をとる問題から発している。
 暴力、軍事問題の出発点はそういう所にあると原則的に考えている。だから当然、「戦争は他の手段を持ってする政治の継続である」という有名なクラウゼビュッツのテーゼも視野に入ってくる。
 
 で、その立場に立って民主党の沖縄基地問題の政策をとらえ返してみると、この党のいい加減さが明らかになる。党として沖縄基地問題を解決する腰が据わってない。これでアメリカとのキビシイ交渉はできない。
 
 できないモノにないものねだりをするよりも、自分たち国民が立ちあがる事が優先課題となる。
 
 名古屋市の市議会リコールもこういう思考ルートに沿って考えたい。
しかしこの問題は根が深い現代的な問題である。
 
 河村市長のやっている事は現実的にはこれまで日本の形成されてきた地方自治の習慣への挑戦であり、「破壊」である。
 それ自体を現状の日本の情勢から取り出して純理論的に鑑定するとそれ以上の中身はない、と断言できる。
 市民税をたかだか10%程度減税したところで経済効果0だ。
むしろこうした風潮は庶民の間にケチケチムードを煽り、消費意欲を減退させる。これが名古屋だけならまだいいが全国的に総和したらどうなるか、ソウ考えるのが経済学だ。
 地方自治体の財政難=ケチケチ運動。それでどうかなるのだったら、経済学入らない。
 
 市議会の力が弱くなれば、首長の権限が相対的に上昇する。住民に理解のある、とされている河村氏はいつまでも市長の座にとどまっていられるものではない。代わりに舌先三寸で住民をたぶらかす奴が市長になった時、チェック機能は制度としてぜい弱化している。
 給与、定数削減ならば、当然、議員になる身分的、政党的に人間は限られてくる。ソウ考えるのが常識というモノである。
 
 アメリカなどアングロサクソンユダヤ社会の地方議員報酬、素人参加度合いが比較対象になっている様だが、ではヨーロッパはどうなのか?
  給料の安いところにいい人材は集まらない。これも常識的に知っておかなくてはならない。
限られた枠の人間しか実質的に議員になれず、しかもパートタイマー、コメンテーター的要素が加わる。一方で首長の権限は強まっている。
 また、日本の歴史的特性。地方議会、地方自治と国との関係、住民意識の到達段階など複数の変数の中から妥当点を見出していくのが本筋ではないのか?そういう観点を蔑にして住民運動を優先してよいものかどうか?
 
 河村前市長のやってきたことの住民にとっての実際の中身が問われ、検証されなければならない。
 私ならリコール署名は拒否する。
 
 大阪府知事の橋下なんかと大した違いがいはないのではないか?ああいうのに釣られていくのは、小泉に熱狂する市民体質と同じモノじゃないのか。自分の立ち位置をハッキリさせ現実的に考えてみることが大切。
そうしないとエセ上からの改革に騙される。
 
 上からの改革は必ず、強欲資本の論理を内側に隠している。それが巧妙であるかどうかの違いがあるだけだ。
 
漠然とムード的に政治に対処していると、気がついた時をもう遅い。政治経済が混とんとしてくると自省心の足りない人がどうしても多くなってくる。 
 
 「大衆社会の政治」という普遍的問題もある。つまり、国家、個人の間にある中間組織の弱体化によって個人が孤立化、アトム化して情報洪水の前に晒され、そこから系統的に流されてくるイデオロギーを何時しか自分の意見の様に錯覚してしまう。中間組織があれば、その枠内で意見が振るいにかけられ、国家に対峙できる。
 
 ハッキリ言って私はこういう理論は今だ疑問に思っているが、一方向に流れる政治潮流への自己反省にはなると思う。
 
  <<<追記>>>
ま、やってみるがいいサ。
これで河村氏と組んだ元自民党衆議院議員大村県知事候補、河村市長候補、河村、大村派市会議員候補の勢ぞろいの選挙になる。
 リコール運動の結果の次の段階に住民の前にこういう選択肢が突きつけられる。
リコール署名に奔走したモノにとっては自らが主体的に関わった結果、切り開いた政治的地平だが、多くの住民にとって突然目の前に否応なしに突きつけられた、狭い選択肢となろう。
 いつも書いている課題の設定の仕方で解決の仕方は変わってくる。
中身の怪しげなものに踊らされることのないよう願うだけだ。
 
 大阪府知事の橋下もこういう広域地域を支配下に置く戦略を立てている。地方マスメディアの宣伝力を背景とした人心掌握があってこそそういう選挙戦術は功を奏する。住民による彼らの政策のキビシイ中身の検証は蔑にされ、マスコミ宣伝が住民全体を被膜の様に包み込んで、思考停止状態にしている。コレって、マスコミ媒介のピーチク、パーチクを取り除けば、現代風暗黒政治そのものではないか!
 これに反日云々の民間暴力が野放しにされ、民間「思想警察」の役割を果たす。
 
 高等教育が浸透し、エリートが大衆化し、層として定着化した段階で彼らへの権力の集中が始まる、逆にいえば、非エリート層が戦後既得権として保持してきた権限の実質的簒奪が始まっている。
 
この政治潮流は橋下、河村ら大衆化した政治エリートへの戦後的な矛盾を抱えた「住民権力」の集中と結果しよう。
 かくして、個々の孤立化し、アトム化した住民は権力から一層、遠ざけられ、浜の真砂の一粒の様な存在に落とし込められ、一生を資本蓄積過程に捧げるモノになる。か弱き思考はマスコミに蹂躙され、そのイデオロギーに踊らされるのである。
 
 これこそが資本最適環境の完成だ。