日刊ゲンダイ5月9日版の記事はタイトル通りの指摘から書きだされている。
こういうトーンの意見に対して、私の基本的見解ははっきりしている。
その手の角度からの歴史総括は、間違いである。
私の日本国民敗北論とは似て非なるモノであり、問題の所在を誤魔化す議論である。
誤魔化しているから、安易な小澤支持に救いを求める事ができる、のである。
私の議論は徹底した諦めの境地を獲得することで、徹底した反逆のエネルギーを獲得しようという真意に貫かれている。執念のあるなし、の問題である。解りやすく言えば、危機的事態に遭遇したら「徹底的に開き直る」しかないということだ。
アキラメよ!という裏面にはシューシュポス的苦闘を貫徹しなければならないという、覚悟がある。
与えられた境遇を知り尽くしたら、絶望しかないが、その中でもがき苦しみ、実行することこそが人間なのだと、云いたい。
だからまず知ることによって絶望しなければならないのである。知によって、獲得しなければならない絶望がある。
激しい絶望がなければ、激しい渇望も生まれない!
今現在の日本という閉じられた円環を知り抜くことだ。
記事の冒頭。評論家の佐高信さんのコメントが載っている。
日本人は「我慢強いというよりより、あきらめ。政治は何もしてくれないし、抗議しようにも刀狩りで武器さえない。そんな歴史があるモノだから、声を上げないDNAが染みついている」
このコメントを受けて、ゲンダイ記事は徳川300年云々と続けて、例によって小沢一郎の四月末日、云ったとされる「決死隊を送り込んで完全に抑え込まなければならない。政治が決断する時だ」を紹介し、管内閣打倒で締めくくられている。(私には決死隊を説得できる力が彼にあるとは思えないし、日本国家にそれができる根拠があるとも思えない)
>>>前の記事で「アメリカ人民に連帯する」という言葉を使った時、すぐ考え直して、追記で解説しようか、想ったが、面倒なのでそのままにしておいた。
日本語ではthe peapleに相当する言葉は今や死語にさえなっている「人民」しか見当たらない。
the peapleは国民とは違う言葉だ。国民は直訳すると、ナショナル、シティズン。ザ、を外したただのピープルも国民と訳される。
しかし、国民は概念的に国家に付随した言葉である。ピープル=人民は国家からの独立変数で使われる言葉だ。
リンカーンの1863年の国立戦没者墓地での演説は南北戦争で二つに切り裂かれたアメリカをふたたび統一する意図に貫かれ、国民、民族に当たる言葉、peopleではなく「ガバメント、オブ、ザピープル、バイ、ザピープル、フォー、ザピープル」のthe peopleという人民に当たる複数形が用いられた。
要するに、南北戦争のアメリカの内乱は北の国と南の国のpeopleに分かれ戦ったから、勝者の北側のリンカーンは南北どちら国家にも付随しない、国家からの独立変数の大きな、言葉であるthe peopleを意図的に選択し国家統合を図ったのだ。英語は論理的な言葉である。
ところが、辞書を引けばわかるが、国民、民族を指すのはピープルであってザピープルではない。ザピープルに相当するのは複数形の人民だ。
なお、右翼方面の方はよく人民に当たる言葉として「草モウ」を使う。
昔、憂国烈士から、イメージを持って教えられた。その時の情景が今でもありありと残っている。
人民はよりはズットイメージを伴う言葉である。草モウの一人として意識し、生き死んでいくことは素晴らしい。
人民という言葉は左翼文献の中にしかなく、浸透していなかった。
>さらにこの方面を振り下げていくと、
リンカーンの演説は14世紀の聖書の英語版翻訳序文を模倣した18世紀、19世紀の偉人の言葉を意識したモノであった、という。
奥が深い。
14世紀の聖書英訳序文はこうなっている。
「this bibule is for the gavemment of the people, by the people ,for the people 」
古語の英語なので単語のスペルが違っている。
ヨーロッパ中世から概念としてザ、ピープルはあった。それは教会の信者としてあったのだろうか?
確かなことは「国家」の付随した概念ではなかった。
>>>日本中世に人民による統治の意識、実行はなかったわけでない。
鎌倉時代の仏教改革者にその芽生えがあった。
特に注目すべきは、一遍上人の多数の信者を引き連れての出家、全国遊行である。
その様子は一遍上人絵詞に詳しく描かれている。
あの膨大な絵を見ると、そこに当時の民衆の姿がリアルに描かれており、その中で蠢いている一遍たちの独自の世界に何か引き込まれるような気がする。旧来の支配勢力からかけ離れ、「遠くまで行くんだ」という人々の強烈な意志と熱気の独自の世界がある。
鎌倉時代の仏教改革者の中で一番、一遍に魅かれる。彼らは民衆運動体であった。
この辺を評価する力が弱すぎる。余りにも文献解釈的でありすぎるし、改革者諸個人の生きざまにスポットを当てすぎる。
一向衆の守護大名を追い払った、独自の国の形成などの史実も歴史に埋もれさせてはならない。
>日本の権門体制の政治の混乱は1467年の応仁の乱に始まり、1663の家康征夷大将軍就任のパックス、トクガワーナで収束し、外に向かての鎖国政策、内に向けての差別分裂支配の封建秩序の中で、封建軍事貴族支配の完成を見た。
日刊ゲンダイが云う徳川300年の支配で牙を抜かれ、声を上げない我慢のDNAが染みついたとは、この時代の差別分断支配に民衆生活が翻弄、収奪され、人口が当初の3000万から変わらなかった様な事態を指すのだろう。
文字通り、百姓は行かず殺さず、搾り取られたのである。
江戸時代の庶民間での文化、生産力発展を過大に評価することはできない。世界の先進地域との比較で考えると、停滞感は否定できない。
ただし、鎖国していたため、日本独自の文化が発展した。浮世絵などそのいい例である。
>>また、書かれた歴史は支配層の歴史であるという側面から、見ていく必要がある。
秩序の行き届いた江戸時代であればこそ、支配層に都合の悪い民衆の歴史は巧妙に系統的に抹殺されたとみるべきである。文献文書が残らなければ、想像力を後代が働かせるほかない。
>>>この観点に立てば、佐高信さんが簡単に切り捨てるように、「抗議しようにも刀狩りで武器さえない」とは本当だろうか?
確かに私も彼と同じような政治と暴力との関係で歴史をズット総括する視点に立ってきた。
武器なき批判は奴隷の批判である!
が、丹念に調べ、想像力を働かせることが必要で、武器がなかったから、抗議もできなかった、と切り捨てるのは、本当に抗議の必要性を感じる立場にいないからできることなのである。
私は幸いにして、彼の様な評論家の立場に立てなかったので、歴史の中で民衆の抵抗史に具体的に拘ってきた。おそらく彼も、幸徳秋水伝を夕刊フジに連載したようだから、この観点で調べてきたと想うが、拘りが弱すぎるようだ。
>>>刀狩りでは実際の所、民衆間の武器は没収できなかった、という意見の学者さんもいる。
山間地、山里の百姓にとって、鉄砲は害獣を駆除するため絶対に必要であり、刀狩りは彼らからも、鉄砲を取り上げていたのだろうか?
江戸時代を通して、多くの生産地は水利の意味からまだ、山裾にあり、害獣は出没する。平野部が全国的に開けたのは徳川中後期からだ。
その学者さんの意見では百姓一揆では百姓側は所持している最高の武器、鉄砲を使用しなかった、と。
受けて立つ武士も鉄砲で百姓一揆を鎮圧せず、お互いが鉄砲の使用を暗黙のご法度にしていたと。
解りやすく現代風に言えば、大衆が氾濫しても自衛隊の治安出動の決断は回避される様なものである。
抗議する側もやみくもに武装を追求しない。やろうと想えばできないことはない。
が、徳川支配体制の瓦解段階になると、1837年の大塩平八郎の乱の様に民衆側も大砲さえ用意した。大塩に呼応したのは武士層だけでなかったし、彼が檄を飛ばした対象は大阪と周辺の庶民である。
明治政府の揺籃期の民衆の武装闘争の数々はハッキリと歴史の中に残されている。
それが日本帝国主義とそれへの抵抗の歴史へと繋がっていく。
問題はその力、影響力が限られた範囲だった、弱かった、問題が多すぎた、と云うだけのことである。
だから、声を上げない、と云い切り、生物的レベルのDNA日本人への刷り込みまで持ち出すことは、間違いを通り越した、見解なのである。
私が常日頃書いている様なアキラメなさいと、佐高信がいうのとは立場が違っている。
>日本語でピープルに相当する言葉は高度成長後、時間をかけて定着した感のある市民という言葉が最もふさわしいように思う。市民という言葉は曲がりなりにも、高度成長以後の戦いの中で定着した言葉と実感している。
>日本人もやっと国家から独立変数のある言葉を定着できた、とみているが、この市民。
だが、複数の人が集まった集合体を指すザ、ピープルとは違って一人の人間を表す言葉でもある。
だから、正確にいえば、ザ、ピープルに相当する言葉は人民しかない。
だが、人民は一時期、一部ではやった言葉だが、今では死語になっている。
この辺が、日本の政治の限界である。
問題は日刊ゲンダイがいう様な撫で切りにするのではなく、具体的実戦的領域の問題である。
必要な人は必要に応じて問題を立てるが、そうでない人は安易な韜晦の中から、安易な小澤待望論を今でも後生大事に抱き続ける。
小沢一郎の政権にかかわる政治生命は完全に喪失した。
民主主義のために頑張ってほしい。小沢一郎を政治裁判にかけた「市民」の限界を戦いによって突破する方向で奮闘してほしい。
熱烈支持者も、その方向で思考しないと、大阪ハシモト知事の様な大企業の意思の代弁者の新たな装いをこらした市場原理主義者の登場の地ならしをするだけに終わろう。